第六章(1)
ぼんやりと、リーファは雲が流れゆくのを見ていた。どれほどこうしているのか分からない。ただ、何もする気が起きなかった。
右腕に感覚はもうない。体も、向きを変える力さえ残っていなかった。
「いつまでそうしているつもりだ?」
「つっ!」
不意に目の前が陰り、突然感覚のなかった右腕が熱くなった。それに反応して、動かないはずの体が跳ね起きる。
リーファの動きに合わせて、花びらが舞った。
「アウリュ……」
「魔王の血だ。体力も戻っただろう」
言われて右腕を見れば、怪我などなかったように綺麗だった。落ちるところまで落ちていた体力も、全て回復している。
リーファは眼前に立つ魔王を見上げた。相変わらずの仏頂面。だが、その目には小さな悲しみが見える。
「レイアの遺体は、原始の王達が埋葬した。微笑んでいたそうだ」
「……あんたはっ、知っていたのか?」
何を、とは聞かない。それだけで通じた。
「……ああ」
「だったら何で! ……何でっ、レイアを助けてくれなかった……」
無意味な叫びだと分かっている。たとえ魔王でも、狂ってしまった世界の均衡などそう簡単に直せるはずがない。
それでも、リーファには彼を責めた。責めることで、悲しさを振り払いたかった。自分だって、何もできなかったと言うのに。
「すまない……」
唐突に、アウリュが謝罪した。驚いて顔を上げたその時、目の前にいた彼の体が透けた。慌てて目をこすり、その魔力の異変にも気づく。
「あんた……力が」
「ああ。もうほとんどない。数時間後には、消滅するだろう」
あっさりとそう言ってのけたアウリュは、どこか穏やかだった。
魔王が消滅する原因は一つ。絶対条件を犯した時。
個人からの愛を受け取り、個人への愛を返したその時だけだ。
「アウリュ……あんた」
「俺が魔王としての自覚を持っていれば、せめてレイアが成長するまでもたせることができたかもしれない。こうなった原因の一端は俺だ。責めてくれて……かまわない」
一番負を糧とする魔王。その力が弱まり、負を取り込みきれなくなり、同時に戦争も起こり――重なってはいけないことが、次々と重なってしまった結果。
リーファはやりきれなくなり、首を振った。
「……責められるわけがない。あんたが知ったその感情は、俺もよく知ってる。止めようと思って止められるなら……楽なのにな」
理屈ではないのだ。胸の奥深くから湧き上がるこの感情は。
リーファは手を振り、アウリュを追い払うようにした。
「何やってんだ。あと数時間ならさっさと行けよ。待ってるんだろう?」
「お前は、どうする?」
聞かれて、リーファは自嘲気味に笑った。どさりと倒れこみ、蒼い空を見る。
「さあね。このままここでぼうっとして……死ぬのを待っても良いかな」
「レイアの望みを叶えずに、か?」
その言葉に、蘇る笑顔と言葉がある。
リーファは痛む胸に顔を歪め、それを見たアウリュは少し嘆息して踵を返した。
「生きろとは言わんが……レイアを悲しませるな」
そんなことあんたに言われたくない、とリーファは思った。彼だって、レイアと同じ去っていく者なのだから。
リーファは口を引き結び、ふと思い出す。
「アウリュ!」
慌てて呼び止めた魔王に向かって、ポケットに入っていた指輪を放り投げる。受け取ったアウリュは、少し眉をひそめてリーファを見返した。
「返す。それ、拾ったとかじゃなくて、お相手のために作ったんだろ。ちゃんと渡せよ……」
大きさは女性用。用途は防御。紅の宝石はおそらく魔王の血を結晶化した物。
去りゆく自分の代わりに、と彼が相手の女性のために作り上げた物。リーファが持つべき物ではない。
「リーファ……」
初めて、アウリュが名前を呼んだ。魔王と呼ばれた男は、まるで友に向けるように笑う。
「お前もレイアから渡されたものがあるなら、ちゃんと受け取れ」
そう言って、アウリュは消えた。黒い羽根が舞うその場所をしばし見つめながら、リーファはポツリとこぼす。
「言われなくても、分かってる……」