第五章(4)
レイアの演説が終わって五日が経った。
この五日は本当に怒涛だったとリーファは思う。アレネスの民は荷物をまとめ、すぐにでも脱出できる準備をし、軍はアフィルメスの動きを調べるため連日偵察へ。
リーファも、もとアフィルメスの人間という立場を生かし、向こうがどのように展開するかを先読みして、安全に逃げられるルートを模索する手伝いをしていた。
ディルス達が偵察から持ってきた情報と、リーファの情報を合わせれば、アフィルメス軍は西側の草原からやってくることが予想できた。そのため、最も安全と思われる東、北、南の三方を逃亡ルートとしている。
昨日から、レイアがさらに強化した霧の中を、民と騎士を小集団に分けて三方から逃がしている。少人数制にするのは危険も大きいが、大勢での大移動はアフィルメスの目につく可能性もある。
幸い、逃げた者が襲われたという報告は入っていない。
逃げる原初の一族に協力してくれているのか、四方の自然を作っている精霊族達も動いているらしい。東側には目隠しの雨を、北には外から見えないように吹雪を、南には眠りの花を、そして、進軍してきている西側では強風が吹いているという。
このまま行けば、明日の朝発つ予定のレイアやリーファも無事に外の世界へ行けるだろう。
上手くいっていることに安心しながら、リーファは回廊を歩いていた。人が少なくなったせいか、寂しい印象を受ける城の中。リーファが目指しているのは、この間レイアに連れて行ってもらった場所だ。
小さな明かりを頼りに進むと、あの大扉が見えた。今日は、少しだけ開いている。
その隙間から体を差し入れると、リーファは祭壇へと目を向けた。四本の柱が立つ中心で、一心に何かを祈っているレイア。その背が、酷く儚く見えた。
「レイア……」
小さく呼びかけると、祈りの間に大きく響く。それを受けて、彼女はゆっくりこちらを振り返った。大丈夫。笑っている。
「まだ寝ないの? 明日早いから、今眠っておかないときついよ。俺達は北ルートだし」
レイアやリーファ、ディルスやマルファスもだが、彼らは北の吹雪のルートを通ることになっている。吹雪の移動はきつく、西の草原とも繋がる場所のため危険は大きい。だが、もし逃げていることがばれても、アフィルメスは女王がいるレイア達を追ってくるだろう。その分、他ルートから逃げた者への被害が減らせる。
「うん、もうちょっとだけ……」
レイアはそう言って、ガラス張りの天井を見上げた。本当は星がいくつも見えるらしいが、暗雲に覆われた今は闇しか見えない。
その闇にレイアまで飲まれそうな気がして、リーファは彼女を後ろから抱きしめた。
「わっ、え、あの、リーファ?」
上手くいっているはずだ。民のほとんどを逃がし、まだアフィルメスはこの国に到達していない。今はまだ、結界と草原の後略に手間取られている。
まだ時間はある。
そう分かっているのに、リーファの覚える不安は大きかった。
「レイア、ここを出たら。しばらく逃亡生活だよな」
「そうね。前のリーファみたいに?」
「うるさい」
抱きしめたまま頭を小突くと、彼女はくすくすと可愛らしい笑みをこぼす。前よりも自然で、優しい笑み。ずっと、リーファ見たかった笑顔だ。
「でもずっと逃げるわけにも行かないだろ? 国も建て直すって言うし……」
それが原初の一族の願いであることを、リーファも知っている。レイアも正面から強い思いを受けたはずだ。
「そう、ね……あ、国って大きいものじゃなくても良いかなって。んっと、里、とか? 精霊族が協力してくれるみたいだし、どこか、樹海の一部とか、上手く隠れられそうなところをまずは探して、ね?」
不安なのだろうか。レイアの声がどこか上ずっている。
「じゃあ、まずはどこか定住できる場所、か」
「うん……皆が集まれる場所。新しく帰る場所……探さなきゃ」
いつかもう一度、全ての原初の一族がそろうために。新しい、彼らの帰る場所を。
リーファは抱きしめていた腕にさらに力を込めると、レイアの頭に自分の頭をもたせ掛ける。少し身じろぎするけれど、けして拒絶したりはしない。
柔らかな髪の感触と、伝わってくる温もりが愛しい。
「なら、もし暮らす場所が見つかったら……一緒に暮らそうか」
「え……」
あからさまに、レイアの体が強張った。金縛りにかかったかのように固まってしまっている。そんな彼女に苦笑しながら、リーファは続けた。
「里みたいなってことは、最初は小さい家とかからだろ? まあ、その内屋敷になっても良いけど。それができたら、俺も一緒に暮らして良いか?」
マルファスは絶対いるだろう。ディルスはどうするだろうか。あの恋人と別の新居でも建てるのだろうか。
「リ、リーファ?」
「ん?」
「貴方は、アフィルメスに行くんでしょう?」
ようやくぎこちない動きを見せたレイアは、信じられないと言うように口を開いた。きっと彼女は、アレネスを出ればすぐにリーファがカルロのもとへ行くと思っていたのだろう。
「もちろん、いつかは行くさ。でもすぐには無理だろ。あの国が落ち着いてからでなきゃ、カルロに連絡の取りようもない。まあ、それに……転移魔法があればどこからでも通えるかな、とか思ってるんだけど……」
言い続けている内に、レイアの体が震え始めた。まさか怒ったのかと覗き込めば、今まさに溢れんばかりの涙が銀灰色の目に溜まっている。
「レイア? ごめん、勝手過ぎるか……」
「ちがっ、違うの! そうじゃ、なくて……っ」
勢いよく振り向くと、レイアは涙を見られるのが嫌なのか、リーファの胸に抱きついた。小さく震える肩を支えて、レイアを包み込むように抱きしめる。
「君が許してくれるなら、俺はこの先も君といたい。俺が帰る場所に、レイアがいてくれたら嬉しいんだ」
いつかまた、自分の人生は平凡だなと思えた時。その時、隣にいてくれる人が、一緒にその人生を作ってきた人がレイアなら良い。リーファは心からそう思っていた。
「ダメか?」
顔を上げさせたレイアは、零れそうで零れない涙の目でリーファを見ていた。
戸惑い。不安。悲しみ。そのどれものようで、全てが混ざったような目だ。
「こんな時に、急すぎたな。ごめん」
落ちそうだった涙を袖で拭ってやり、リーファは身を離した。色々なことが一変に起こった今、レイアに答えを迫るのは可哀想だ。
「ここを出て、落ち着いてからで良いよ。どんな答えでも、俺は君を守るから」
頭を一なでして、リーファは早く寝なよ、と言いながら踵を返した。だが、足を踏み出す前に後ろから服を捕まれる。
「レイア?」
「リーファ……」
指先が震えていた。声も。けれど、レイアは真っ直ぐにリーファを見つめ、こう言った。
「ありがとう」
微笑む口元。幸せそうに細められた目。それにつられるようにリーファも笑うと、ゆっくり薄紅色をした頬に口づけた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
さらに赤く染まった頬をするりとなでて、リーファは今度こそ祈りの間から出た。
今は、あの言葉だけで十分だと思った。
※ ※ ※ ※ ※
大扉が閉まる音が響く。
リーファが出て行った部屋は、静かで、暗く、寂しかった。
胸に宿る温かくて幸せな思い。それと同時に存在する、辛く悲しい思い。その両方を抱きしめるように、レイアはグッと胸の前で手を握った。
「ごめん、なさい……」
小さな、祈りの間に響くことすらなかったその謝罪は、扉に阻まれ、彼に届くことはなかった。




