第四章(1)
蝋燭の頼りない明かりの下、レイチェルは分厚い本を読み続けていた。本当なら魔法陣を刻んだ半永久的に使えるランプが欲しいのだが、あれは貴族などが使う物だ。庶民の、しかも郊外で縫い物や子守などをして稼いでいる自分には、とても手が出ない。
読みにくいことこの上ないが、レイチェルはページをめくる手を止めなかった。親が生きていた頃に、何か役立つからと教えてくれた読み書き。本当に今役立っていて、感謝してもしきれない。
「『種族の存在条件。霊魂族の生まれる条件は、生前の意志と感情の強さに比例する。また、霊魂族に触れられた者も、高確率で死後に霊魂族となる』……うわ、ヤダ」
読んでいるのは、魔道によって大国となったアフィルメスの首都で買った本。アウリュと知り合ってから魔道に興味を持ったのだが、こんな風に勉強をし始めたのは最近だ。
「『ただし、霊魂族は定められた地より広範囲の移動はできない』か」
胸に去来するのは不安。最近少し様子のおかしいアウリュに、何かせずにはいられなくなった。
彼は魔王。人間の自分には及びもつかない悩みを抱えているのかもしれない。けれど、恋人である以上、少しでも彼のことを知りたかった。
さらに次の項へとページを進める。
「『魔族と神族は、命ある者の負と正の感情が植物、獣などに取り付き生まれいずる。他種族に比べ、絶大的な力と寿命を有する。そのため、世界を破壊せぬよう現界にて使用できる魔法は制限される』って言っても、アウリュ強かったわよ」
出会いは森の中。木の実を取りに行ったレイチェルが、木陰で眠っているアウリュを見つけたのだ。
なぜか怖いとは思わなかった。角が三つもあり、左手に黄金の目がつき、明らかに人間ではないと分かったのに、レイチェルは彼を純粋に綺麗だと思った。
風邪をひいたらことだと思い――魔王だからひかないらしいが――毛布とパンケーキをそっと置いてみた。すると、その日の夕方、空になったバスケットと毛布が玄関先に返ってきたのだ。何だか嬉しくなって、それから毎日同じ場所に毛布と食べ物を置いた。
朝に置いて、夕方に返ってくるそれ。言葉を交わしたわけではないのに、楽しかった。
そしてある日の朝、同じように森に入ったところ、レイチェルは野犬に襲われた。それを助けてくれたのが、あのアウリュだった。
指先一つで消し炭になった野犬。それでも、初めて見た紅の目に恐怖は覚えなかった。
「まあ、魔王だって知った時はさすがに驚いたわね」
魔族だということは紅の目で分かった。しかし、まさかその頂点に君臨する魔王だとは考えてもみなかったのだ。
驚きと怪しさに、角を引っ張ったり根掘り葉掘りと身の上を聞いたり、今思えばとんでもない行動もとった。アウリュも大迷惑だっただろう。
彼はパンケーキが美味しかったことと、自分に近づく人間が珍しくて興味を持ってくれたらしい。暇な時はこっそり森の中で会ったり、訪ねてきてくれたりするようになった。
出会いからもうすぐ三年が経つ。恋人という関係になったのはいつだっただろうか。
魔王と人間。本来ならあり得ないというのに、アウリュとレイチェルは極自然に関係を持った。それが、当然であるかのように。
初めて口付けを交わした時のことを思い出して、レイチェルは笑みをこぼした。ロマンチックな雰囲気にはならず、『角が邪魔』と言った覚えがある。
思い出し笑いをしながら、レイチェルはページをめくった。そして、その項に目を通す。
「……え?」
不意に、表情が凍りついた。書かれた題目は『魔王と神王について』。それに一度目を通し、二度目を通し、三度目を通そうとしたところで突然吐き気に襲われた。
本を放り出し、駆け込んだ台所で少し夕食を吐き出してしまう。
胸にこみ上げる不快感。震える膝に真っ白になった頭。台所にへたり込んで、レイチェルは呆然と先程本に書かれていたことを思い返した。
酷い吐き気。これは最近よくあることだが、あの本の内容は――
「レイチェル?」
その時、静かだが聞き慣れた声が外からした。同時に扉を叩く音。どうやら先程から何度か叩いていたらしい。
「あ……ちょ、ちょっと待って!」
レイチェルはへたっていた足に鞭打つと、慌てて立ち上がり、扉に向かった。ガチャリと開ければ、夜の闇にまぎれるようにして立つアウリュの姿。
「すまない。眠っていたか?」
「ううん。そうじゃないの、えっと……」
言葉に詰まりつつアウリュを招き入れると、彼の視線がテーブルの上で止まった。そこに置いてある物を思い出し、ハッとなる。
「本を、読んでいたのか?」
「え、ええ。ごめんなさい。集中してたみたい!」
さりげなくテーブルに近づき、読んでいた本を見えない所に置く。アウリュが来た時は、いつも胸が幸せでいっぱいになるのに、今日は彼の顔を上手く見られない。
微かに震える指先を抑えるため、レイチェルは袖を握り締めた。
「レイチェル……」
「あ、何か飲む? 食べる物は残り物しかなくてっ」
アウリュの声に、本の内容が蘇る。それを振り払おうと、わざとらしいぐらい明るい声を出して台所に向かおうとした。だが、その手をアウリュが握り、引き止める。
そのままそっと抱きしめられ、頬に手を添えられた。
「顔色が悪い。もう休め。俺は帰るから」
「ま、待って!」
離れていく手を、咄嗟に握り返した。彼の驚きが伝わってくる。もしかしたら、自分の震えも彼に伝わっているかもしれない。
「お願い。帰らないで……今日は傍に、いて」
いつもなら、引き止めたりしない。彼は魔王。魔族達の目もあり、人間と違う生き方をしている彼を、無闇に引き止めたりはしなかった。また会う約束をしてくれるから、それだけで十分だった。
でも今日はそれができない。今別れたら、二度と会えない気がした。
「レイチェル?」
「お願い……」
情緒不安定なレイチェルをおかしく思ったのだろう。アウリュの声から困惑が感じられた。けれど、消えてしまいそうな自分の声に何を思ったのか、彼はそれ以上何も言わず、レイチェルを抱き上げベッドに横たえた。
「アウリュ……」
レイチェルが呼べば、彼は少し逡巡してから同じように横になる。そのまま、ギュッと心地よい力強さで抱きしめてくれた。
「ここにいる。明日の朝、お前の目が覚めるまでずっと」
「本当に?」
「ああ」
瞼の上に一つ口づけを落とされ、レイチェルはアウリュの胸にすがりついた。頭によぎるのは、先程読んだ本の内容。
『魔王と神王は、それぞれ存在するための絶対条件を持つ。魔王は、決して個人を――』
そこまで思い出して、レイチェルは泣きそうになるのを必死に押しとどめた。今は、ちゃんとアウリュが傍にいる。彼の温もりを感じることができる。
頭を優しく撫でる手に安堵しながら、ただ、この温もりが消えないことを強く願った。




