エピローグ
「あなた達の呪いは、私がすべて引き受けるわ」
血塗られた世界の果てで、確かにそんな声が優しく鼓膜を揺らした気がした。
刹那、雪の視界は、悍ましい血の赤をすべて塗りつぶすような、眩いほどの純白の光に包み込まれた。
熱も痛みも遠ざかり、だんだんとその光が薄れていく。やがて、光の残像の中にひとりの愛しい人影が浮かび上がった。雪が涙を堪えて目を凝らすと――そこには、かつての元気な姿のままの刀が、不器用そうに右腕を差し出し、顔を真っ赤にしてこう叫んでいた。
「――俺と、結婚してくれ!!」
(ああ……また、あの残酷な夢を見てるんだ……)
雪の胸が痛みに締め付けられる。もう二度と叶うことのない世界なら、お願いだからこれ以上見せないでよ。
心の中でそう悲痛に叫び、雪はその場に両手で顔を覆って泣き崩れた。
その時だった。
――ギュッ。
両頬に、少し痛いほどの、けれど確かに温かい肉体の感覚が走った。
「えっ……!?」
驚いて顔を覆っていた手を離し、目を開けると、そこには大真面目な顔で行儀悪くしゃがみ込み頬をつねり、雪の顔を間近で覗き込んでいる刀の姿があった。
「なぁ……頼むからそろそろ返事をくれないと、俺、周りの奴らに本当に殺されちゃうよ」
情けない声を出す刀が恐る恐る指差した先――気づけば周囲に集まっていた馴染みの男たちが、口々に刀に向かって物々しい怒号を上げていた。
「おい刀ぁ! 雪ちゃんを泣かせやがって、タダで済むと思うなよ!」
「今すぐその薄汚い手を離して死ね、刀!」
「……え? これ……現実、なの……?」
雪は呆然とその光景を見つめ、ぽつりと呟いた。そして次の瞬間、弾かれたように思いっきり刀の身体に向かって飛びついた。あまりの勢いと衝撃に、刀は無様に後ろへとひっくり返り、二人は地面をごろごろと転がった。
「私……っ、私ね、すっごい長い間……暗くて、怖くて……本当に、本当に怖い夢を見てたの……っ!!」
刀の耳元で、雪が声を震わせ、涙を流しながら必死に囁く。背中に回された彼女の手の強さに、刀はすべてを察したように優しく微笑んだ。
「……ああ、俺もだ」
刀はそれだけを静かに答えた。
そして、腕の中の愛しい温もりを感じながら、少し照れくさそうに弱々しく続けた。
「だからさ……そろそろ、返事聞かせてくれないかな……?」
雪は涙を溢れさせながら、けれど世界で一番幸せそうに笑って答えた。
「―― 私を世界一幸せにしなきゃ……絶対に許さないんだからね!」
雪がそう答えた瞬間――ホールの周囲を囲んでいた仲間たちから、割れんばかりの大歓声と拍手が巻き起こった。
「おめでとう! よくやった刀!!」
「くそぅ、刀のくせに生意気なんだよ! 雪ちゃんを泣かせたら承知しねえからな!」
「末永く幸せになれよ、お前らーっ!!」
祝福の声が、二人を吹き飛ばすほどの大音量で広がっていく。
刀は雪を支えて立ち上がると、眩しそうに周囲を見渡して言った。
「雪、お前に紹介したい人がたくさんいるんだ。俺を鍛えてくれたバーンさん、スフィアさん、ルナ、あの喧しい王女様のこと……。それにさ、いつかあいつと本気で勝負するって約束もあるんだ」
刀がそう言って微笑むと、雪もその胸に寄り添いながら優しく微笑み返した。
「ふふ、私もね、あなたに紹介したい大切な人がいるの。アリスのこと……私をずっと支えてくれたんだよ」
その幸せに満ちあふれた光景を、遥か天高くにある、光に満ちた神の国から静かに見つめる者たちがいた。
かつてすべてを引き受け、今は神となったスノーと、その内に宿る炎だった。
「本当におめでとう……、刀。よく頑張ったわね」
スノーが慈愛に満ちた表情でそう呟くと、その胸の器の奥で、炎がフン、とつまらなそうに激しく舌打ちをした。
『ちっ、なんだよつまんねーの。あいつ、結局盛大に振られなかったのかよ』
「まったく、相変わらずどこまでも素直じゃないんだから……。それに炎、あなたさっき私のこと『老けた』とか『ばばあ』とか言ったこと、私は絶対に忘れてないんだからね?」
スノーはリスのように両頬をぷくっと膨らませて炎の意識を睨みつける。
炎は精神世界の奥で、急にゴニョゴニョと歯切れの悪い言い訳を呟き始めた。
『あ、あれはだな……その、ただの言葉のあやであって、決して本気で老けたとは言ってないというか……その、だな……』
「ふふん、まあいいわ」
スノーはフッと笑うと、ふと自分の指にはめられた、あの戦いで粉々にひび割れてしまった国宝の指輪に目を留めた。
「でもこれ……どうしましょう? 壊れちゃったけど」
『指輪? ああ……それ、白の国の最高国宝ってやつだろ。どうすんだよそれ』
スノーは少しの間、人差し指を顎に当てて考え込んでいたが、やがて何かを思いついたように、いたずらっぽく極上の笑みを浮かべた。
「ふふ、いいこと思いついちゃった」
『おい……お前、笑顔が邪悪になってるぞ。ほんとに酷いやつだな……』
炎が呆れたように呟く。
――その直後。
「いたっ!?」
現実世界の地上で雪と話していた刀の頭に、天から何かがコツンと不自然にぶつかった。
「なんだ?」と刀が床に落ちたものを拾い上げてみると、それは丁寧に紙に包まれた、ひび割れて壊れた例の指輪だった。包み紙の裏には、流麗な文字でこう書き置きが残されていた。
『王女様にこれ、返しといてね。あと……壊しちゃってごめんねって私のお詫びの言葉も添えて謝っておいて! よろしくね!』
刀はその文字を読んだ瞬間、顔を引き攣らせて冷や汗を流した。
「お、おい雪……これ大丈夫なのかよ? 確かこれ、白の国の『最高国宝』だって王女様が言ってた気がするんだけど……」
刀がガタガタと震えながら呟く。
雪はそんな彼を見て、少し困ったようにクスリと笑って続けた。
「ふふ、じゃあ私たちの旅の最初の目的地は、白の国からだね」
雪は少し楽しそうに考え込んでから、小首を傾げた。
「あいつら……王女様やバーンたちに会ったら、なんて言われるかな?」
刀はそう言うとしばらくの間、雪は考えて
「まだみんなと会う前に戻ったとしたら……開口一番『お前……誰だ?』って言われるんじゃないのかな?」
雪は答えた
「あはは、確かにそうだな!」
二人は顔を見合わせ、これまでの苦難をすべて笑い飛ばすように、声を上げて爽やかに笑った。
空はどこまでも青く澄み渡り、彼らの行く道を祝福するように温かな風が吹き抜けていく。
そして――二人の、新しくも輝かしい本当の旅が、ここから静かに始まったのだった。




