第8話 神戸北野坂(その2)
昭和の時代それも戦後、ジントニックが流行る時期が、何度かあったようである。
透明のジンに黄色いシュウェップスのトニックウォーター、それにラムを垂らす。
甘みと苦みと酸味、それに炭酸のシュワッツという感覚……ああコンビニ走ろ!
「何にする?」
2人カンウンターに座ると、藤原が聞いた。
「そう……、マルガリータにしようかしら」
「そう……、それじゃ僕はジントニック」
「変わらないわね、あなたのお好み」
「君は、きついのを飲むようになったね」
「ええ……」
と呟く雅絵に、藤原ははっとした。
言わずもがなである。昔から藤原の不用意な一言が彼女を悲しませたことが度々あった。
雅絵は思ったことをずばり言うが、彼女が発する言葉にはいつも思いやりがあった。それが皮肉に聞こえる時は、藤原に非があった。
ただ藤原がそれに気づいたのは、雅絵と別れてずっと後のことである。
「工場へ、うちの人間を行かせたいんだが」
「ええ、ぜひ見てやってください」
そう雅絵は言うと、横の席においたバックから名刺を出した。「光順社」と、社名の太目のゴシック文字が眼に入る。その下に小さく代表取締役、張雅絵と記されていた。
「息子の名はキコウといいます。基本の基に、サンズイに光と書いて、基洸と言います。会社のことはすべて、キコウがやってます」
「そう……」
藤原はあとの言葉が続かなかった。
だが雅絵は。アルコールのせいか多弁だった。
「でもほんとに不思議ですね。あれから、もう三十年も経つなんて……」
「そうだね……」
「私、言っちゃおうかな……」
その雅絵の砕けた言い方に、思わず藤原は身構えた。
何も恐れることはないのだが、自分でも気づかないほど肩に力が入っていた。
「なんで私の前から消えた」
と、口に出せばどれほど楽かと。
だが藤原はそれを押し殺し、まずは彼女の話を聞くのが先だと、待った。
「学校辞めて東京へ出て、親戚のレストランで働いて、そこで主人と出会って結婚……」
雅絵が話を始めて、藤原は黙って聞いた。
「彼、機関長だったの。でもシアトル沖で火災事故を起こして……、後で生き残った人が土下座して謝ってくれたわ。部下を助けに機関室へ入って死んだって。この航海が終わったら陸上勤務にするって。言っていたのに」
まるで独白するような雅絵、その一言々が否応もなく藤原の胸に突き刺ささる。だがその時、突然雅絵は藤原の方へ向き直った。
「どうして追い掛けてくれなかったのです」
それは詰るように言った。
だがその声のトーンは言葉とは裏腹で、ほっとした藤原だが、やはり心の底に大きな亀裂が走る思いだった。
「いや、それは……」
「嘘……嘘です。史暁さんが、幸せそうだから、少し意地悪しました。ごめんなさい」
そう言うと雅絵はグラスを手に前を向いた。
「お母さま、お元気ですか?」
そう小さく呟いた雅絵に、
(母を彼女に会せたことなど……)
と、必死に記憶を辿る藤原だった。
(つづく)