第8話 神戸北野坂(その1)
かつて神戸港は外国の船で溢れていた。印度、中国、英国、米国、仏蘭西……と。
長い航海を経て神戸へ着き、街に飲みに出た船員ら、そのまま居着いた男が数多!
彼らは店を開き、自分の国の料理を振舞い、その子らが今も神戸で味を支えてる!
午後後9時過ぎ、同窓会を終えた藤原は、鈴木の先導でジャズバー・アトランタへ向かう。
北野坂は日曜のせいか普段と違って人影もまばら。レトロ調の街灯の下、若い二人連れが手を繋いで歩いている。暑い日差しも遠退き、六甲から下る山風が心地良かった。
学生の頃、お盆の檀家回りで懐が裕福になると、藤原は仲間を誘って来た店である。柱に囲まれたフラットが狭いステージとなり、夜7時から1時間半毎に生演奏が聴ける。
この夜も皆で奥まった席へ座ると、やがて黒いロングドレスの歌い手が、小気味よいバンドのテンポに合わせ歌い始める。
―Love is a many-splendored thing ―
1955年の二十世紀フォックスの「慕情」、原題も同じこの映画は、戦争で引き離される男女を描いた悲恋物語である。
店は静まり返り、腰まである長い黒髪の女性歌手に注目する。
そんな中で藤原はひとり、斜め前に座って歌を聴く雅絵を見つめていた。
(二人の別れは悲恋じゃない。彼女が消えてしまった。自分ではどうにもできなかった)
そんな言い訳染みた思いで藤原の心は雅絵を追う。暗い照明の中に雅絵の横顔が浮かぶ。それは何も変わっていない。ジャズに彩られた至福の時間はあっという間に過ぎていった。
お開きの後、店を出て坂を下りながら、藤原は雅絵と歩調を合わせた。
最初はぎこちなかったが、雑踏がそれを解き解してくれた。
途中、山手幹線の所で集団がばらけた。
そこで藤原は思い切って雅絵に言った。
「少し時間ある?韓国のことで話が……」
「はい、鈴木さんから伺いしました。息子の工場でよろしければ、是非お願いします」
そこで初めて藤原は間近に彼女の顔を見た。
広い額に切れ長の目、少し色がかかってカールした髪がゆったりと動く。薄いブルーのブラウスに黒のパンタロン。ベージュに紺と赤の模様が入ったネッカチーフを巻いている。
どこか宝塚の男役ともいえるような立ち姿は、五十を過ぎた女性のそれではなかった。
(彼女と会えたのも、鈴木のお陰……)
そう思って降り向くと、交差点の向こうで手を振る鈴木。
ジャズバーの歌といい、お開きの後の消え方といい、相変わらずの彼のアレンジに、藤原は頭が下がる思いだった。
藤原は鈴木に軽く手を上げると、幹線沿いの歩道を渡る。
道は東門の繁華な方へ背を向け、今も変わらず東屋の様な店に向かう。
「あの店でいいかな?」
まるで若い頃の様に、藤原は呟いた。
「ええ、ここは、加納町ですね?」
「ああ、覚えてる?」
「懐かしいですね、30年……かな」
「ああ、そう……早いね、年が経つのは」
と言って藤原が店のドアノブを引くと、チィリーンと懐かしいドアベルの音が二人を迎えた。
(つづく)




