第三十八話 謀略、知略、時々政略?
呉の都、建業の市のど真ん中で、一刀は明命と剣を交えていた。
自身の身の丈ほどもある長刀を、信じられないほど巧みに操る明命…一瞬でも気を緩めれば、一刀の体は真っ二つになるだろう。
【蓮華】
「ちょ、ちょっと明命!もう止めて!こんな所で…」
市の人たちは大混乱だ。何しろ、明命の刀は先にも言ったように長刀だ。振り回せば周囲への被害は避けられない…。
逃げ惑う民たち…母親とはぐれ、泣きじゃくる子供の姿もあった。
【子供A】
「うわぁんっ!お母さぁんっ!」
それまで、明命の攻撃を躱しながら後退していた一刀だが、背後にその子の姿を見つけると、その場に踏み止まって明命の攻撃を受け止めた。
ガキィンッ
【一刀】
「くぅっ!重てぇな…」
顔をしかめる一刀…だが、次の瞬間、彼は右手の掌底で明命の顎を捉えていた。
【明命】
「っ!」
その速さに反応できず、明命は仰向けにその場に倒れ、動かなくなった。気絶したらしい。
【一刀】
「ふぅ。」
【蓮華】
「北郷!」
すぐに、蓮華が駆け寄って来る。
【一刀】
「気を失ってるだけだよ。すぐに目を覚ますとおm…」
【蓮華】
「貴方こそ、ケガは無いの?」
【一刀】
「え?あぁ、大丈夫。」
【蓮華】
「良かった。でも、どうして突然、明命がこんな事を…」
彼女が知る限り、明命は街中で刀を振り回すような将ではない。ましてや、民の安全も顧みずにだ。
【一刀】
「その辺りの事についても話があって来たんだけど…まずは話より愛紗をすぐに引き取りたい。君なら話が通じると思って声をかけたんだ。事情は、後で話すから…」
【蓮華】
「関羽を?ごめんなさい…関羽はもう、ここにはいないわ。昨日、魏の死神が突然現れて…関羽を連れて行ってしまったの。」
【一刀】
「蒼馬さんが?」
それを聞いた一刀は、急に脱力したようにその場に蹲った。
【蓮華】
「ほ、北郷?」
【一刀】
「なんだ…愛紗、無事なのか…良かったぁ~。」
【蓮華】
「え?え、え?」
一刀の反応が予想外だったのか、蓮華は言葉にならない声を発しながら戸惑うばかりだ。
【一刀】
「いや、だったら話は早い…孫権、呂蒙将軍について、最近おかしな事はないか?」
【蓮華】
「亞莎?いえ、特に思い当たる節は無いわ…強いてあげれば、独断で関羽を捕らえに行った事かしら。」
【一刀】
「だが、愛紗は手薄になった魏の許昌を攻める為に、寡兵で出ていた。見つからないよう、細心の注意を払ってだ。そんな愛紗の軍を、どうやって呂蒙将軍は見つける事が出来たのか?」
【蓮華】
「…何が言いたいの?」
【一刀】
「俺の命を狙って、暗躍してるヤツらがいる。そいつ等に、呂蒙将軍は洗脳されている…そして、昨日までウチの桃香も同じような状況にあった。」
一刀の話に、蓮華は驚きと戸惑いの入り混じった表情をした。そんな彼女に構わず、一刀は話を続ける。
【一刀】
「桃香によって、蜀の将兵の多くも洗脳された。恐らく、その彼女もそうなんだろう。」
【蓮華】
「そんな…明命まで…」
【一刀】
「このまま蜀のように、呉の内部にも洗脳が広がっちまうとマズい。呂蒙将軍を、一刻も早く正気に戻す必要がある。」
【蓮華】
「でも…どうしたら?」
【一刀】
「明確な方法は分からない…」
桃香の場合、一刀への思いと愛紗への嫉妬、桜香に対する母性愛がない交ぜになった人格が生まれていたが、亞莎の場合はどうなっているのかまだ分からない。
【一刀】
「…直に会って、話をして、必要なら戦うしかない…機会さえあれば、向こうから飛び掛かってくるはずだ。孫権、彼女を借りていいか?」
一刀は明命を指して訊ねる。
【蓮華】
「明命を?」
【一刀】
「それと、言伝を…」
【雪蓮】
「ふぅ~ん。北郷が生きてたとわね~。」
【冥琳】
「それで、蓮華様…明命を連れ去った北郷は、関羽を引き渡せと?」
城に戻った蓮華は、姉である雪蓮とその軍師である冥琳に事の次第を話した。
【蓮華】
「えぇ…それも、関羽を捕らえ、その部隊を壊滅させた将…つまり、亞莎に連れて来させろ。さもないと、明命の命はない…と。」
【雪蓮】
「そう言われても、関羽は蒼馬に渡しちゃったし…事情を話して諦めてもらう?」
【蓮華】
「砦の兵を皆殺しにされてあの怒り狂い様だった北郷が、『はい、そうですか。』と諦めるとは思えませんが…」
【冥琳】
「そうだな…魏の勢いを考えると、蜀を丸め込んで同盟を組んだ方が呉としてはいい。」
【雪蓮】
「あ、じゃあ蒼馬が攫って行った事にして、北郷の怒りを魏に向けさせるのはどう?」
雪蓮は名案を思い付いた、みたいな顔で得意げに言っているが、冥琳は渋い顔だ。あの砦での一件は、彼女にとってかつてないトラウマとなっていた。
【蓮華】
「姉様!もっと真面目に考えて下さい!すでに北郷は、明命が手も足も出ないほど強くなっています!そんな嘘で誤魔化そうとして、また余計な怒りを買えば…魏の死神に次ぐ脅威となり得ます!事情に関しては、偽りなく話すしかないとして…最悪の事態に備え、こちらも準備していかないと…」
【雪蓮】
「その時は、また私が出るわ。そんなに強くなってるなら、むしろ楽しみね。」
【冥琳】
「はぁ~…兵を集めよう…」
頭を押さえる冥琳だが、その後すぐに部隊の編成に取り掛かった。当然、出陣する将の中には、亞莎の名前も含まれていた。
蓮華は部屋に戻り、ひとまずほっと胸を撫で下ろしていた。
【蓮華】
「何とか姉様にもバレずに、事を運べたみたい…」
勘の鋭い雪蓮に、作戦が見抜かれないかヒヤヒヤしていた蓮華…
【蓮華】
「でも、大丈夫なのかしら…自分から、兵を出させろなんて…」
そう、一刀は彼女に、兵を出してくるようにと作戦を指示していたのだ。自分が不利にしかならない事を、何故あえて指示したのだろうか?
【蓮華】
『一体、何を考えてるの?北郷…』
その頃、一刀に連れ去られた明命は…縄でぐるぐる巻きにされて、木に逆さ吊りにされていた。
【明命】
「ちょっと!何なんですか!?これは…そこの貴方!今すぐ下ろしなさい!むしろ下ろして!下ろしてください!」
力一杯に暴れる明命だが、前後左右に揺れるだけで何も起きなかった。
【一刀】
「しばらくの間、そこで大人しくしててくれ。君は大事な人質だからね。」
【明命】
「こんな事をして、タダでは済みませんよ!うぅっ!」
一刀の背中を睨みつける明命…しかし、一刀が振り返ると、その表情は一変した。
【一刀】
「安心してくれ。呉の人たちが到着したらすぐn…」
【明命】
「お猫様!」
一刀が何処からか連れて来ていた猫を見ると、明命は自身の状況などすっかり破顔した。
【一刀】
「…孫権の情報通りだな…」
一刀はボソッと呟いた…どうやら明命を大人しくさせる為の、蓮華の入れ知恵らしい。
【明命】
「あぁ、もふもふ…モフモフさせて下さい…」
【一刀】
「もふもふ?」
一刀は恐る恐る、抱き抱えていた猫を明命の顔に近づけた…猫は喉を鳴らして、明命の頬に頬擦りした。
【明命】
「あぁぁ、もふもふ~♪」
幸せそうな明命…そんな人質らしからぬ明命を見て、一刀は一度猫を下ろすと、明命を木に吊り下げていた縄を切った。
【明命】
「わひゃっ!」
頭から真っ逆さまに落ちそうになる明命…その体をキャッチし、ぐるぐる巻きのままの彼女を地面に下ろす一刀。
猫が再び、明命のもとに寄ってきた。
【一刀】
「とりあえず、そこで一人でモフモフしててくれ。」
【明命】
「もふもふモフモフ……」
【一刀】
「……さて、そろそろかな?どのくらいの兵で来るか…呂蒙将軍がどう仕掛けてくるか…」
それからしばらくして、建業の都から出てくる呉の兵たちが見えた。その数、およそ千人…
【一刀】
「わぉっ!一騎当千と評価していただけたようで…」
一刀はそれを見ると、怖気づくどころか何故か嬉しそうに微笑んだ。
【一刀】
「あれだけの大勢で来れば、呂蒙将軍も仕掛けてきやすいだろう。後は…そこでどうするかだ。ま、それはその時に考えよう。」
いい加減、この行き当たりばったりな性格は直らないものだろうか?
一刀は明命をその場に残し、自らも呉の部隊に向かい歩き始めた。と言っても、向こうの方が何倍も移動が速いので、大した時間短縮にはならなかったが…。
【雪蓮】
「……」
【一刀】
「……」
そしてついに、一刀と雪蓮がお互いの顔が見えるほどの距離まで来たところで、双方対峙した。
【雪蓮】
「…蓮華の言う通り…随分と強くなったみたいじゃない?」
【一刀】
「そうか?彼女が何と言ったか知らないが、後ろの兵の数はどうも過大評価に思えるな。」
【雪蓮】
「…関羽は返せないわよ?」
【一刀】
「そうみたいだな。後ろの兵を見る限り、たぶんそういう事だろうとは思ったさ。」
【雪蓮】
「明命は?」
【一刀】
「あの木の下で、猫と戯れている。猫が逃げてなければだが…」
【雪蓮】
「…そう…なら、始めましょうか?」
【一刀】
「何を?」
【雪蓮】
「…剣を抜きなさい。」
雪蓮は南海覇王を抜き、一歩前に出た。そして、二歩、三歩と…一刀に歩み寄る。あと数歩で、彼女の一足一刀の間合いに入る。
一刀も剣を抜いた…そして、一歩踏み出す…。
【雪蓮】
「っ!」
息を吐き、雪蓮は一気に間合いを詰めてきた…が、次の瞬間、彼女は横に転んでいた。
ガキンッ
【雪蓮】
「!?」
振り向くと、一刀の背中があった。
そして、一刀の振り抜いた星の太刀が、何かを弾き飛ばしていた…それは、先端に刃のついた鎖だった。
【一刀】
「…主君を巻き添えにしてもお構いなしか…」
その鎖を操っていたのは…
【雪蓮】
「亞莎?」
【亞莎】
「……」
瞳に精彩のない、亞莎だった。
【一刀】
「…会いたかったぜ、呂蒙将軍。桃香同様、あんたにも目を覚ましてもらわないとな。」
【亞莎】
「…天の御遣い、北郷…ここで、死ネ!」
今度は幾本もの鎖が、彼女の袖の中から飛び出してきた。それらは一本一本が、まるで意志を持った生き物かのように、別々の動きをしながら一刀めがけ襲いかかる。
【一刀】
「…はっ!」
それを、刀一本で全て弾き返す一刀…。しかし、今度は兵たちが同時に攻めてきた。
【一刀】
「ちょっ!危ないって!」
弾かれた鎖が、兵たちの顔などに当たってしまっているが、兵たちはそれでも構わずに突っ込んでくる。
【一刀】
「怖っ!この人たち怖っ!」
亞莎に操られているのだろうが、ダメージも厭わず突き進んでくる彼らの勢いは、畏怖を覚えるに十分だった。
ひとまず、距離をとるため撤退する一刀…雪蓮も、その後を追った。
【雪蓮】
「ちょっと!どうなってるのよ!?」
兵たちの異様な様子に、雪蓮もさすがに混乱していた…それに、亞莎の先の行動…一刀に突き倒されていなかったら、殺されていたかもしれないという事実が、彼女の判断力を著しく奪っていた。
【一刀】
「彼女は今、正気じゃない。そして兵たちも彼女に操られている。状況説明以上。」
【雪蓮】
「分かり易い説明ありがと。で、どうしたらいいの、これ?」
【一刀】
「周泰の状態から察するに、兵たちは気絶させればいい。後は、呂蒙将軍を正気に戻せばいいんだけど…桃香とは様子が違うしな~。」
【雪蓮】
「亞莎!止めなさい!命令よ!」
しかし、亞莎は攻撃を止めなかった。それどころか、一刀と共に雪蓮まで葬るつもりなのか、雪蓮に構わず攻撃を激しくしてきた。
【一刀】
「おっとっと!危ねっ!うぉっ!」
下手に弾き返すと、兵たちがケガをしてしまうので、迫って来る鎖付きの刃物を躱しながら逃げるしかない一刀と雪蓮…その様子を見ていた明命は…
【明命】
「雪蓮様…このままじゃ、雪蓮様が…何とかして亞莎を止めないと…」
主君の危機に、己を奮い立たせ何とか縄から抜けようと試みる…しかし、肩から足首までほぼ隙間なくぐるぐる巻きにされていては、抜けられるはずもない。
【明命】
「くっ、ダメか…」
その時、彼女の目の前にいた猫が鳴き声を上げた。
【明命】
「お猫様!お願いです、この縄を切ってくれませんか?」
人の言葉が通じるはずもないのだが、それでも彼女の真剣な気持ちは伝わったのか、猫は一鳴きすると彼女の背中に飛び乗った。そして、両手の爪を立てて縄をバリバリ引っ掻き始めた。
【明命】
「ありがとうございます、お猫様♪」
一方、一刀と雪蓮は、徐々に追い詰められていた。
【亞莎】
「いつまでも逃げられるとでも?はぁっ!」
再び、亞莎の操る鎖が伸びてくる…兵たちの間を縫うように、意志を持っているかのように動く鎖…さらには意志も感情も、痛みや恐怖すらなくした兵たちに、手出しのしようがない二人は逃げ惑うしかなかった。
【一刀】
「はぁ…はぁ…くっそ!これじゃじり貧だ…いっそ、一か八か突撃してみるか?」
【雪蓮】
「無理よ…亞莎は兵たちのずっと奥よ?闇雲に突っ込んだって届くはずないじゃない…」
【一刀】
「だよなぁ~。うぉっと!」
その時、一刀の左後ろから鎖が…そのまま立て続けに飛んでくる鎖…
【一刀】
「ちょっ!うわっ!ぎゃああっ!」
間一髪のところで躱していくが…気づくと一刀は、
【一刀】
「あ、あれ?しまった!」
鎖に囲まれ、逃げ道をほぼ失っていた…
【雪蓮】
「北郷!くっ…」
そして雪蓮も、同様に鎖で周囲を囲まれている。二人とも、もう逃げられない…。
【亞莎】
「終わりです、お二人とも…」
【一刀】
「ま、待て!俺を殺すのは目的だから仕方ないとして、孫策は関係ないだろう!それに、仮にも君の主君だぞ!」
【亞莎】
「だから何です?王なんて、代替えすれば済む話です。それに蓮華様の方が、操りやすいですし、好都合です。」
【一刀】
「俺を殺すのだけが目的じゃないんだな?一体、何を…」
【亞莎】
「これから死ぬ貴方には、関係ない事です。では…死ネっ!」
鎖で繋がれた刃が、一直線に一刀めがけ飛んでくる!身動きがほとんど取れない一刀の、心臓めがけて…
【一刀】
「……フッ…感謝するぜ、孫権。」
【亞莎】
「?」
ヒュッ ドンッ
【亞莎】
「がはっ!?」
突然、鳩尾に走った衝撃に、亞莎は体のくの字に曲げて呻いた。
薄れゆく意識の中、彼女が見たのは…刀の柄頭で自身の鳩尾を突いている明命の姿だった。
【亞莎】
「明命…洗脳が……」
亞莎は倒れた…と、同時に、彼女が操っていた鎖も力を失い地面へ…一刀めがけ飛んでいた鎖付きの刃も、彼の足元に落ちて地面に刺さるだけだった。
【一刀】
「意外なところで、役に立ってくれたみたいだ。」
木の側で、明命を縛っていた縄で遊んでいる猫を見て一刀は独りごちた。
その後、亞莎に操られていた兵士たちも全員正気に戻り、数人の兵がケガをしただけで、皆無事に城に戻る事が出来た。一刀も、事情を話し、呉と同盟を結ぶ為に、一緒に城まで来ていた。
そして、玉座の間で、一刀は事の次第を呉の将たちに話して聞かせた。
【雪蓮】
「なるほど…亞莎は、貴方を殺そうとしてる何者かによって、操られていたと…」
【一刀】
「そういう事だ。同じ様に操られていた桃香から、事情を聞いて駆け付けたんだ。愛紗も心配だったし、このまま孫呉が乗っ取られたら、俺たちも困るからな。」
【冥琳】
「我らと同盟を結ぶ為にも、か?」
【一刀】
「ま、そういう事だ。というか、それが最大の目的かな?たぶん、もうすぐ魏が動く…蒼馬さんが来たんだろ?」
【雪蓮】
「えぇ…ごめんなさい。彼には借りがあったから、関羽を渡してしまったわ。」
【一刀】
「むしろ、ありがとう。でなきゃ、俺は呂蒙将軍に殺されるしかなかった…あの人は、たぶん分かっていたんだと思う。俺の命を狙ってる連中の存在に…そして、そいつらより後手に回らないように、魏に戦の準備をさせているはずだ。あの人は強いし、頭もキレるからな。」
【冥琳】
「確かに、あの男の強さは化け物だ。それに、官渡での借りも、まるでこの事態を見越していたかのようだった。」
【一刀】
「というわけで、どうだろう?ウチと手を組まないか?」
一刀は孫策の方に手を差し出して、曇りなく笑って見せた…かつて、砦の兵を殺され、土地を追われた過去など、忘れてしまったかのように。
【雪蓮】
「…フッ。えぇ、いいわよ。呉蜀同盟…ただし、一つだけ条件があるわ。」
【一刀】
「条件?」
【雪蓮】
「北郷…貴方、蓮華と結婚なさい。」
【蓮華】
「……はぁっ!?」
子供のようなニコニコ笑顔でとんでもない事を言い出した雪蓮に、蓮華は思わず大声を上げてしまった。その声は、玉座の間に幾度も反響し、完全に聞こえなくなるまで十秒以上かかったのだった。




