シナイア 森のカフェ
曲がりくねった背の高い常緑樹の山道を登る。途中、エリックが別荘地の中で両替をする場所を案内してくれた。手持ちのユーロをルーマニアレイに両替した。小さな商店などではレイしか使えないところもあるらしい。あまり多く変えなくて良いということだった。
「ペレシュ城に到着しました。行きましょう」
有名な観光地というだけあって、駐車場には大型観光バスも数台停まっていた。木漏れ日の射す並木道を抜けて行くと、目の前に白い壁のお城が見えてきた。
「わあ、すごい」
亜希は思わずはしゃぎ声を出していた。年甲斐もない、とすぐに正気に戻ったものの、心は弾んでいた。森の中の白いお城というメルヘンな風景が目の前に広がっていた。黒塗りの木で作られた窓枠が白い壁とコントラストを成しており、優雅な雰囲気を演出している。バルコニーや列柱の緻密な彫刻は眺めていて飽きない。うろこ状のグレーの屋根を持つ尖塔の一つは時計がついていた。コンパクトな庭は樹木が丁寧に剪定され、大理石の彫刻が並んでいる。美を凝縮したその壮麗な姿に亜希はただ感動した。緑の芝生とカルパチアの山、晴れ渡ったどこまでも高く青い空に囲まれた白いお城の景観はそのまま飾り枠に入った絵画のようだ。
「はあ・・・本当にすごい」
感想がすごいしか出てこない。本物の感動の前には語彙力は失われてしまう。エリックは大人しく亜希の側について歩いている。これまでほとんど使う機会が無かった型落ちのミラーレス一眼レフで、ペレシュ城をいろんな角度から写真に収めた。どこをどう切り取っても見栄えの良い構図になる。
「アキ、写真を撮りましょうか」
エリックの提案に亜希は戸惑った。写真を撮られるのは苦手で、これまで旅行に行っても自分を入れて撮影したものは少ない。でも、こんな場所までなかなか来れないし記念だから、とカメラをエリックに渡した。エリックは撮影アングルにこだわって真剣に位置を模索している。真面目な人なんだなあ、と感じた。やっと位置が決まったらしく、ハイ、チーズの声で何枚かシャッターを切ってもらった。画像を確認すると、ぎこちない笑顔の自分が映っている。
「ペレシュ城は中のコレクションも素晴らしいですよ。見学ツアーがあります。どうしますか?」
「ええ、じゃあ参加します」
エリックが券売所でチケットを買ってくれた。20人ほどが集まり、城内へ案内された。写真を撮影したいなら40ユーロを支払うよう入り口で求められた。せっかくのカメラ活躍の機会にと亜希は撮影料を支払った。スタッフが撮影許可の紙をカメラのストラップにつけてくれた。入り口で靴の上からビニール状のカバーをつける。お城の床を傷めないためのようだ。
最初に入った部屋から大興奮だった。中世の甲冑や武器が部屋中に飾られている。壁にも一面に剣や盾、槍がかけられている、武器コレクションの間だった。赤い絨毯に白い大理石の床、窓にアーチ状のステンドグラス。まるでファンタジー世界に迷い込んだ気分になる。まわりの観光客もワオ!やオオ!と感嘆の声を上げている。欧米人には珍しくない景観なのではないかと思ったが、彼らの驚きようを見るとやはりすごいらしい。音楽室、図書室、ダイニングと次々に案内される部屋はどれも贅をこらした調度品が並んでおり、ずっと眺めていても飽きることがない。興奮しすぎてわざわざお金を払って写真撮影の許可をもらったのを忘れていた。あわてて列から離れて後戻りして、適当な格好いいアングルでそれぞれの部屋を写真に収めてきた。
「やばい・・・すごかった・・・素敵すぎた・・・」
ツアー解散後、中庭で待つエリックが手を振っている。亜希は興奮気味にどれだけ場内がすごかったのかエリックに語った。エリックは穏やかな笑顔で相づちを打っている。
「楽しかったですね、良かった。アキはお腹が空きましたか?」
「そうですね、ご飯にしたいです」
自分でも驚くほどはしゃいでしまったので、お腹が空いてきた。もうお昼の12時をまわっている。後ろ髪を引かれながらペレシュ城を後にした。シナイアは高級避暑地らしく、別荘も多い。人気なのでお客さんが多いけど、とエリックは森の中のオープンカフェを選んだ。天気も良く、風も穏やかなので外のテラスに着席した。確かパッケージツアーの行程にもペレシュ城は入っていたが、外観の見学だけだった。外観も素晴らしいけど、城内を見学しないのはもったいなさすぎる。個人ツアーにして良かった、としみじみ思った。
メニューを見ると、ルーマニア語と英語で書いてある。ルーマニア語はやはりさっぱり分からない。食べ物の写真が載っているのがありがたかった。エリックの説明を聞きながら注文を考える。飲み物はレモネード、豆のスープにルーマニア郷土料理のミテティという肉団子をメインにした。レモネードとパンがテーブルに運ばれてきた。レモネードは取っ手のついた瓶に入ってストローがさしてある。結構なボリュームに驚いた。酸味が強いが自然な甘みがあって美味しい。パンは料理を注文したらついてくるのだそうだ。豆のスープもきたのでパンをつけながら食べる。スープはトマトとコンソメベースで素朴な味が良い。この店のパンはホテルのものより柔らかかった。
「スープが美味しいです。具だくさんですね」
「そう、スープだけで一食済ませることもありますよ」
ヘルシーな話だ。メインのミテティもやってきた。豚肉のミンチを棒状にして焼いたもので、肉自体にもしっかり味がついている。サラダと、黄色いペースト状のものがついていた。
「これはママリガといって、トウモロコシを練ったものです。ルーマニアでは主食になります」
「もちもちしておいしいですね」
ルーマニア料理、確かに美味しい。亜希にとって旅の楽しみは食のウエイトもかなり大きい。これは嬉しかった。最後にプリンを頼んだら、恐ろしく甘くて、しかも想像したよりも大きかった。これにはちょっと参った。甘い物はとことん甘いのかもしれない。
「アキが読んだのはどんな本?」
「あ、ええと、今ちょうど持っているいるんです」
亜希はバッグから龍の紋章の本を取り出した。表紙を見せたときにエリックの表情が一瞬曇ったことに亜希は気づいていない。
「もし良かったら見せてもらえませんか?」
「いいですよ」
亜希はエリックに本を手渡した。この本はイスタンブール空港のルーマニア行き搭乗口でも見せて欲しいという青年がいた。日本にあると目を引くかもしれなが、ヨーロッパの骨董品店に転がっていそうなものがそんなに珍しいのだろうかと亜希は不思議に思った。
「とても古い本ですね」
エリックが長い指で丁寧に本のページをめくっていく。その目は真剣にそこに記された版画や文字を見つめている。
「その文字、読めますか?」
「いいえ、わかりません。おそらくラテン語・・・今のルーマニア語ではありません」
もしかしてルーマニア人のエリックには読めるのではないかと一瞬期待したが、その期待は外れてしまった。ただルーマニア語ではないのは分かった。
「このページの絵が修道院の壁画に似ていたんです」
亜希は天国への階段のページを示した。エリックはそれをじっと見つめている。
「そうですね、とても似ています。このような絵はモルドヴァ地方の5つの修道院で見ることができますから、比較してみても面白いでしょう」
エリックはにっこり笑って本を亜希に返した。
「どこでこの本を手に入れましたか?」
意外な質問に亜希は言い淀んだ。日本で売っているには確かに珍しい本だ。
「神戸のアンティークショップです」
「神戸、ですか」
エリックは神戸という地名を知っているようだ。
「日本に来たことがあるんですか?」
「ええ、子供の頃に東京に住んでいました。高校生になる前にルーマニアへ戻ったから、日本のことは少し分かります」
それで日本語がここまで自然だったのか、亜希は納得した。
「なぜ日本に?」
「父がルーマニアを含めた東欧の民芸品を売る小さな雑貨店を持っていました。でも、お店は閉めてしまいました」
「素敵なお店だったでしょうね」
シナイアを出発し、さらに北上してブラショフへ向かう。車の窓を開けていると気持ちの良い風が通り抜けていく。新緑の木漏れ日の中を車は走る。座り心地の良い座席で亜希はうとうとと浅い眠りに落ちていた。