6
街全体が、ざわついていた。
外観だけで人を威嚇する軍の黒い車が、通りをひっきりなしに行き来している。軍人や憲兵が、誰もかれも怖いほどの険しい顔つきで、あちこちを警戒するように巡回しているのが、アパートの窓からでも目に入った。
人々は、何があったのかと怯えて身を竦めながら、詳細な事情が伝わってこないことに苛立つ様子も見せていた。
向かいの建物の陰には、誰の姿もない。
もう、私を見張っている必要もなくなった、ということだ。
私は中尉に言われたとおり部屋からは一歩も出ず、窓を少し開けて、なるべく目立たないように息を殺し外の様子を窺っていた。
風に乗って流れてくる住人たちの声から、軍本部周辺が封鎖され、立ち入りが禁じられたことを知った。いろんな話が飛び交っていたけれど、入ってくる情報は錯綜していて、ラジオもその時々によって言っていることが違うという。
すでに将校が数人惨殺された。
反乱分子が捕らえられ、拘束された。
グランデ国家元帥が行方不明になっている。
そのうち、何が正しくて、何が間違っているのか、人々にはまったく判断できない。みんなが外に出て、本部のあるほうにもどかしげに目をやり、ひそひそと話し合うばかりだ。
本部建物内の一角で爆発が起きたようで、そちらの方角の空では、不気味な黒煙が細く立ち昇っているのが見えた。本部の中では、銃撃の音も響いているらしい。
ものものしい雰囲気が、暗雲のようにどんよりと、街とそこに暮らす人々の顔を覆っている。
しかし、どれが正確なのかまったく判らない数多の情報のうち、これだけは間違っていないようだと人々が口にしているものが、一つだけあった。
──クーデターの首謀者は、ギリング中将らしいと。
***
それからのことは、あまりよく覚えていない。
私は窓の近くに座り込み、ただひたすら両手を組み合わせて祈っていた。
天や神というものがあるのなら、今度こそ、私ではなく他の人に幸運を与えてあげて欲しい。
どうか。
時間の流れが明らかにおかしかった。遅々として進まないと思えば、飛び石のようにあっという間に一時間二時間が経っていることもある。壁の時計が狂っているのか、それとも私自身が狂いかけているのかも、よく判らなくなった。
夜になっても、何がどうなっているのか、まったく掴めないのは同じだった。
反乱軍が新聞社を占拠しようとして、それはどうやら失敗したようだ、と窓の下で誰かが興奮したように喋っていたのを最後に、またぷつりと情報が途絶えてしまう。その際、激しい銃撃戦が行われて、多数の負傷者が出たという話も聞こえたが、どこの部隊の誰が、ということは判らなかった。
夜間は外出禁止令が出されて、通りを歩く人の姿はなくなった。
闇が街を包み、まだ落ち着かないながらも、少しずつ静寂が忍び寄ってくる。
明かりを点けないままのこの部屋の中にも、ひっそりと暗い夜の気配が充満し、しんとした沈黙だけが支配した。
私は窓のそばで座り込んだまま、壁に寄りかかり、ずっと目を開けて真っ黒な闇を見ていた。
翌日の午後を過ぎて、反乱は鎮圧されたとラジオが声高に叫んだ。
クーデターは失敗に終わった。グランデ国家元帥は、終結宣言と共に、これより速やかに事件を収束させ、軍の機能を取り戻すとの声明を出した。
クーデター首謀者であるギリング中将以下、この件に加担した将校たちは、身柄を抑えられ、逮捕・拘束された。
一般の民間人からは、死者や負傷者は出なかったという。
街は喜びに沸き、あちこちからグランデ元帥の手腕を讃える声、そして暴力の行使によって目的を達成させようとした反乱軍への非難の声が上がった。
***
それからしばらく、新聞やラジオはクーデター未遂事件のことでもちきりだった。
ギリング中将は、以前からグランデ元帥の考え方に批判的であったらしい。彼は、条約をさっさと破棄して隣国を攻撃すべし、という過激派の急先鋒であったのだ。
不満を高じさせたギリング中将は、同じような考えを持つ過激派軍人たちとひそかに繋がりを持ち、密談を重ね、結託して事を起こすことを決めた。
グランデ国家元帥を殺害し、自らがトップに立って軍を掌握することで、世間や世論の流れを一気に変えようとしたのだ。
しかし結局、それは不首尾に終わった。
ギリング中将たちの立てた計画は、周到に練られたものであったにも関わらず、ことごとく失敗し、あっという間に気運を挫かれることとなった。
元帥からの説得もあり、反乱軍に加わっていた軍人たちからは離脱者も出はじめ、最初だけは威勢がよかったものの、後半はなんとも惨めな終わり方であった、と新聞は書き立てた。
元帥側は、この動きを事前に察知していたか、どこからか情報を得ていたのではないか。そうでなければ、ここまで最小限に被害を抑えることは出来なかっただろう──という推測で、その記事は締めくくられていた。
事件で負傷した、または死亡したのは、上からの命令で動いていただけの下士官や、元帥を守り、襲撃を防ぐために戦っていた軍人ばかりだった。
彼らの名前はずらりと新聞に並んだが、なにしろ数が多いので、まともに目を通す人はほとんどいなかっただろう。
私は毎朝新聞を買って、その欄を食い入るようにして読んでいたけれど、ノア・レイズ中尉とハイラム・ウォーレン大佐の名前は、どこにも載っていなかった。
***
父がその部屋を訪ねてきたのは、クーデターが終息を迎えてから、三日後のことだった。
「お父さん……無事でよかった」
声を発するのは、ひどく久しぶりだ。身体をどうやって動かせばいいのかも忘れていたくらいだった。
ぎこちなく腕を上げて伸ばした私を、父は力強く抱きしめてくれた。
荒涼とした戦場で拾い上げてくれた時と同様に、父の腕は大きく、逞しく、優しかった。
「シェリル、こんなにも青白い顔で、これほどに窶れてしまって……可哀想に、さぞかし恐ろしく、心細い思いをしただろう。ずっと来てやれなくてすまなかった。軍もまだ混乱しきっていてな、人手も足りないし、修復作業にも追われて、昼も夜もない有様だ。それに、今は誰もが疑心暗鬼になっていて、下手に動けなかった。本当にすまない」
それでこっそりと本部を抜け出してきたのか、父は軍服のままだった。
「お父さん、中尉は? 中尉も無事でいるの? 知っているんでしょう?」
謝罪の言葉を途中で遮り、そう訊ねた私に、父は複雑な表情を浮かべた。
「その……レイズ中尉はだな」
目線をうろうろと彷徨わせ、躊躇するように言葉を出す。
「現在、行方がわかっておらん。……ということになっている」
軍服にしがみついていた私の手から、力が抜けた。その場にへたり込みそうになった身体を、父が慌てて抱きとめる。
「シェリル、レイズ中尉はな、その、ギリング中将の腹心であったと思われていて……つまりクーデターに関与した人物の一人、と周りには見られているわけで……現在のところ、ということだが……そのなんだ、要するに、今はまだ、いろいろ都合も悪かろうと……」
ごにょごにょと言いにくそうに口ごもる父の台詞は、ほとんど私の耳には入ってこなかった。文脈ではなく、一部分ずつだけが届いて、そのたび心臓を鷲掴みにされるように苦しくなった。
ギリング中将の腹心。
クーデターに関与した人物の一人。
それでは、もしも無事だったとしても、いずれ捕まって処断される。
──強いものが上に立ち、弱いものは虐げられる。弱ければ、誰かに踏みにじられるだけだ。力がなければ、やり返せない。だったら、俺自身が強い側に廻らなきゃいけないと思った。
中尉のあの言葉は、そういう意味だったの……?
父が私の両肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「シェリル、今からでも遅くない、家に戻ってきなさい。すっかり落ち着くまでは、ここも安全だとは限らない。私がずっと傍についていてやれればいいのだが、そういうわけにもいかないのでな、近所の誰かと一緒にいてもらってもいい。そうだ、トマスも、みんなも、おまえのことを心配しているよ。きっと、温かく接してくれる。亡くなったお母さんも、天国からおまえのことを守ってくれるだろう。だから帰っておいで、シェリル」
懸命に言い募る父の顔を見返して、私は唇を噛みしめ、首を横に振った。
「私、中尉に約束したの」
細い声で、けれどきっぱりと、私は言った。
「この家で帰りを待っているって、約束したのよ。だから中尉が戻ってくるまで、どこにも行かない」
たとえどういう形にせよ、中尉は必ずここに帰ってきてくれる。
さよなら、ではなく、いってきますと言って、彼は出て行ったのだから。
「私はここで中尉を待つわ、お父さん」
「…………」
父はじっと私の顔を見つめていたが、やがて、太い息を口から吐き出した。
「──まったくおまえは、昔から、一度言い出したら、絶対に退かない娘だった」
「父親譲りなの」
父はもう一度大きなため息をついてから、ちらっと周囲に目をやって、こっそり胸のポケットから一枚の紙を取り出した。
そっと私の手に滑り込ませて、声を潜める。
「……なるべく人目につかないように、行きなさい。いろいろ事情があってな、あれを他の軍人たちと同じ病院に入れるわけにはいかなかった。少し遠いが、気をつけて行くんだよ。私も必ず、後から向かう」
渡された紙には、ここからかなり距離のある病院の名前と住所が記されていた。
***
病室に入ると、頭に包帯を巻いて、右腕を三角巾で吊った中尉が、ベッドの上からびっくりした顔で私を見た。
「どうしてここが……大佐が教えたのか?」
その問いには答えずに、私は青い顔のまま、黙ってベッドに近づいて行った。
「参ったな……こんなみっともない姿を、あまり君には見られたくなかった。無事だということだけ伝えてほしい、と言ったつもりなんだが」
苦々しい顔つきで、左手で頭を掻いている。
寄っていった私が、枕元に立っても一言も口をきかなかったので、不審げに首を傾げた。
「どうした?」
「どっ……どうした、ですって?」
やっと口から出てきた声は、ひどく掠れて、おまけに裏返ってもいた。私のほうこそ、相当みっともない。でも、馬鹿みたいに呑気なことを言っている中尉に、無性に腹が立って腹が立って、どうしようもなかった。
「私が──どれだけ心配して──どうして今まで──こんな怪我までして──この数日、本当に──あなたって人は、どこまでズボラな──」
途切れ途切れにそこまで言ったら、限界が来た。
堤防が決壊したかのように、一気に私の目から涙が溢れ出す。今までずっと押し留めていた分、その勢いは止められなかった。
私は床に両膝をつき、ベッドに顔を突っ伏して、激しく泣きじゃくった。
中尉は唖然としたらしい。しばらく無言のまま、どうしていいか考えあぐねていたようだが、やがて、ベッドの上でもぞりと身動きした。
優しい手の感触が、ゆっくりと髪を撫でる。私の泣き声が自然に収まるまで動きを止めず、辛抱強く待っていてくれた。
「君はいつも言動が唐突で、俺は毎回振り回されてばかりだな」
嘆いているのか呆れているのか判らない声が、頭上に降ってくる。
しゃくり上げながら顔を上げると、中尉は柔らかく微笑んだ。
「心配させてすまなかった。……ただいま、シェリル」
***
「最初から、ちゃんと説明する。聞いてくれ」
私が落ち着いてから、中尉は改めて真面目な顔になった。
ベッド脇の椅子に私を座らせ、どこから話したものかと考えるように目線を上に向ける。
「あまり驚かないように……いや、たぶん、驚くと思うんだが」
どこかで聞いた台詞を言ってから、私の顔を正面から見る。
「──俺は、軍の特務機関に在籍しているんだ」
私はぽかんとした。
「特務機関?」
「そう。まあ、君は知らないだろう。軍の中でも、全員がその存在を知っているわけじゃない。要するに、特殊任務にあたる組織のことだ。諜報や工作活動を秘密裏にこなすのが仕事」
「諜報や、工作活動……」
「任務の性質上、特務の人間は自分がそこに在籍していることを、口外してはならないことになっている。表向きは普通の軍人として部隊に所属し通常の勤務を行い、裏ではひそかに特務として活動する。もちろん、同僚も上官もそのことは知らない。特務のメンバーを把握しているのは、元帥閣下と、閣下が信用する軍上層部のごく一部だけだ」
「…………」
私は茫然として、その話を聞いていた。
「じゃあ、もしかして……」
中尉は頷いた。
「ギリング中将とその周辺に不穏な動きがある、というのは以前から掴んでいたことではあったんだ。でも、いつどうやって、どれだけの人間が行動を起こすのかが判らなかった。軍の派閥ってのは入り組んでいてね、同じ考えだから同じところを目指すなんて、そう単純なものでもない。保身が第一という人間もいれば、その時の風向きによってコロコロと寝返る人間もいる。対抗するためには、懐に入っていって詳細を把握する必要があった」
私は困惑し、自分の頬に手を当てた。想像もしていなかったことで、すんなりとは呑み下せない。
「では、中尉がその役目を?」
「ギリング中将の命令で元帥閣下の周辺を探る振りをしながら、実際は中将側の人員の詳細と情報を掴むために動いていた」
二重スパイだ。
「なんとか事が起こる前に食い止められればよかったんだが……それは難しかった。犠牲も、たくさん出てしまったな」
中尉は悔いるようにそう言って、目を伏せた。
「閣下も、ひどく残念がっておられた。努力は惜しまなかったつもりだが、とうとう溝は埋まらないままだった、と。ギリング中将は、いずれこの国を軍事国家にしたいという野望を抱いていたからな、閣下と合うわけがない。……そういう人間たちの考え方や価値観を、そしてこの国の在り方を、少しずつ根底から変えていくしかない、と言っておられたよ。俺もその点には心から同感だ」
この国をまた戦乱の渦に巻き込ませること。
大事なものを奪われ、一人取り残される子供を作り出すこと。
……それだけは、なんとしても阻止しなければならなかった。
中尉は、自分が力をつけることで、放っておけば踏みにじられそうな弱い人たちを守ろうとしていたのだ。
「それで、中尉は大丈夫なのですか? たとえ内実はどうあれ、表からはギリング中将の腹心のように見られていたのに」
「中将と、中将に与した一部の上層部以外は、温情の大盤振る舞いをする、とのことだったから、そんなに心配は要らない。事実、反乱軍だという自覚もなしに戦っていた兵も多い。今回のことで、不安要素のある派閥は解体されるから、しばらくはゴタゴタが続くだろうが」
「逆恨みされることはありませんか。それに、周りから冷たい目で見られたりするのでは?」
「俺がそんなことを気にすると思うか?」
中尉は平然とした顔で言った。
「…………」
ふう、と私は息をつく。心配なことは限りなくあるが、ここは彼を信用するしかないようだ。元帥閣下が、ちゃんと中尉を守ってくれればいいのだが。
「父は、このことを?」
「ああ。ひょんなことから、大佐にクーデターの一件を知られてしまってな。中将は邪魔者は消してしまえと簡単に言うし、大佐は今にも中将の首を絞めかねない勢いだったし、収拾をつけるのに骨を折ったよ。それでやむを得ず、本当のことを打ち明け、大佐に協力を仰ぐことにした」
ここまで来てギリング中将に計画を大幅に変更されては、元も子もない。
怪しまれるような行動は出来ないが、余計な被害も出したくない。
もし一つでも齟齬があって、クーデターが成功を収めてしまうようなことがあったら、何もかもが破滅に向かう。
はじめから細い糸の上を歩いているような状態だった、と中尉は息をついた。
「それでまあ、中将を納得させるための苦肉の策として、大佐の娘である君を巻き込まざるを得なかったんだが……」
中尉はそこまで言いかけて、口を噤んだ。
少しの間を置いてから、私のほうに顔を向け、
「──君は、どうする?」
と聞いた。
私は首を傾げた。
「どうする、とは?」
「クーデターは失敗した。もう君が窮屈な人質でいる必要もない。大佐の家に戻るかい?」
「…………」
私も口を閉じ、中尉を見つめ返した。
「君は、あの結婚式で、神父がずいぶん若くて慣れていない、と思わなかったか?」
「……ええ、思いました」
「当然だ、あれは俺の古い友人だからな。もちろん、神父なんかとはまったく縁のない仕事をしている。神なんて信じていない俺はともかく、君には、偽りの誓いを立てさせるわけにはいかないと思って」
そう言って、中尉は目線を下に向けた。
「──最初から、ただの一時しのぎの芝居だったんだ。事が終われば、ちゃんと大佐に返すつもりだったさ」
再び顔を上げて、私を見る。グレーの瞳が、まっすぐこちらを向いていた。
「君は自由だ」
私はしばらくの間、黙って考えていた。中尉もものを言わず、緊張した目でこちらを見上げ、返事を待っている。
沈黙を経て、私は口を開いた。
「……私の好きにして、よろしいんですか?」
「もちろん」
「では」
私はにっこりした。
「私は自分の意志で、あのアパートの部屋の掃除をし、美味しい料理をたくさん作って、中尉の帰りを待っていることにします。あなたがちゃんと怪我を治して、戻ってきた時に、『おかえりなさい』と言いたいから。これからも、ずっと」
言い終えた途端、ぐいっと腕を取られ、引き寄せられた。
中尉の厚い胸板に頬を押しつけられ、左腕で強く抱きしめられる。傷に障るのではないかとひやひやしながら、私も両手を彼の背中に廻した。
「……君は、あの庭が夢の世界のようだと言ったが」
中尉が私の耳許で囁くように、そっと言葉を落とした。
「俺にとっては、君こそが美しい夢のようだった。迂闊に触れたら、壊してしまいそうだと思った。子供の頃の君の気持ちが、嫌というほど理解できたよ。眩しい光を浴びて笑っている君を眺めていると、心が震えた。俺が取り戻したかったものを、君が体現しているように思えた」
秩序、平穏、慈愛、笑顔。
今日よりも良くなる明日。希望の持てる未来。
そして、幸福。
失くしたもののすべて。
「だから、なんとしても帰りたかった。君のところに」
「……はい、私、ずっと中尉を待っていました」
「傷が治ったらちゃんとプロポーズするから、もう少し待っていてくれ」
「はい、もちろん」
「今度は君の望み通りの式を挙げる」
「よかった。本当は、ウェディングドレスに憧れていたんです」
「いつか、自分たちだけの新しい夢の庭をつくろう」
「楽しみですね」
ふふ、と笑って、私は中尉に顔を寄せ、唇にキスをした。軽く触れるだけの口づけに満足できなかったのか、中尉が強い力で私を引き寄せ、さらに深く重ねようとしたのだが──
バターン! と病室のドアが破壊されそうな勢いで開いた。
「まあ、お父さん」
私は驚いて目を丸くした。中尉の左手が素早く私の腰から離れたが、父の目はそれを見逃さなかったらしい。
「ふぬうっ!」
という唸り声とともに、鼻から息を噴き出す。この時病室の前を通りがかる誰かがいたら、どこかで蒸気機関車が煙を吐いたのかとでも思っただろう。
父はつかつかと大股でベッドに歩み寄ると、仁王立ちになり、ぎらぎらと殺気走った眼で中尉を睨みつけた。
猛烈な熱量を伴う威圧感に押され、中尉の身体が若干傾いでいる。
「若造、貴様、私との約束を破りおったか! たとえ同じ場所で暮らそうと、絶対に、何があっても、私の可愛い娘にちょっかいをかけたら許さぬと、あれほど言っておいたはずだ! 首を捻じ切るというのは、決して脅し言葉ではないぞ!」
「お父さん……」
私は赤くなった。
もしかして、「中尉には決して心を許すな」って、そういう……?
「ちょっかいなんて、かけていません、大佐」
中尉は心外だというように答えて脇を向き、「俺だっていろいろ我慢したんだから……」とぶつぶつ小声で言った。
「本当だな?! 誓うな?! まこと、シェリルには手を出しておらんのだな?!」
「もちろんです、大佐」
中尉は片腕が不自由なままの態勢で、敬礼するかのようにぴしりと生真面目に姿勢を正し、
「これから、存分に手を出すつもりです」
と、軍人らしく堂々と、正直に報告をした。
中尉の入院は、十日ほど余分に長引くことになった。
完結しました。ありがとうございました!