第9話 自由気ままに吹く風のような君に【ベルナール視点】
ナイフを刺せばしゅわりと柔らかく沈むパンケーキに、口当たりの軽い純白のクリーム。添えられたラズベリーとブルーベリーの酸味と香りが爽やかさを添える。いくらでも食べられそうだと、胸の奥がふっと軽くなったときだった。
「あら? もしかしてラシェルと……ベルナール様では?」
その一声が、油断してふわふわしていた胸の奥を鷲掴むように握り潰す。そうして潰された心はクルミのように固く縮こまり、ゴトッと音を立てて地に落ちたような心地だった。
喉が貼りついて、唾が上手く飲み込めず小さく音を立てる。すでに会敵状態にも関わらず、ベルナールは今更気配を殺すように息を細くしていた。
「え、シモーネ? もしかしてシモーネもパンケーキ食べに来たの?」
「えぇ、そうなの。彼にお願いして連れてきてもらったのよ」
ラシェルがシモーネと呼んだ女性は、柔和な笑みを浮かべて横へ視線を送る。その先には一人、身なりの良い男性が座っているのが見える。彼、ということは、恋人か婚約者だろうか。
「ベルナール様、こちらは診療院で一緒に働いてるシモーネです」
「アッヘンヴァル男爵家の、シモーネと申します。先日は差し入れをありがとうございました。皆でおいしくいただきました」
「いえ、大したものではありませんので……」
たおやかに礼をするシモーネに、ベルナールは無愛想に頭を下げるので精一杯だった。
「それにしても、ラシェルがベルナール様と仲が良いなんて初めて知りましたわ」
シモーネの指摘に、ギクリと体が強張る。別に咎められることをしているわけではない。だが、甘いものが好きだと知られてしまうかもしれないと、頭の中は限界だった。
けれどそこに、冷たく凍りつきかけた心を溶かすような暖かな風が吹く。それは「あはは!」と笑い飛ばす、どこか人懐っこいラシェルの笑い声だった。
「そうじゃなくて、この前のお祭りで迷子を助けたら、ベルナール様の甥っ子くんだったんだよね。断ったのに何かお礼させてくれって頑なでさ、だからパンケーキ奢って~ってお願いしちゃった! へへ……」
え、甥……?
まさか……庇って、くれたのか?
「まぁ、そうでしたのね。ベルナール様も、ラシェルから頼まれると嫌な気持ちにならなかったでしょう?」
「それは、確かにそうだな……」
「ラシェルからお願いされると、不思議と叶えてあげたくなってしまうのよね」
「そんなふうに思ってたの? ありがと~!」
「ふふ、そういう素直なところが美徳ね。では、わたくしは失礼いたします」
シモーネはフワッと笑むと、軽くお辞儀をして自分の席へと戻っていく。けれど一度警戒心を掻き立てられ、もうパンケーキどころではない心持ちだった。
「ほら、ベルナール様も食べてみてください。ロッティ……じゃなくて、友達が言ってたんですけど、ここのパンケーキのクリームにはココナッツミルクっていう珍しいミルクが使われてるみたいですよ」
そんなこちらの気持ちを察してか知らずか、今作り上げたばかりの嘘の関係を継続しながらラシェルはパンケーキを勧めてくれている。こんなふうに庇ったって、ラシェルには何一つ利益もないのに。嘘を一緒についてくれとも、頼んでいないのに。
俺は、一体何をやってるんだ。
こんなふうにラシェルさんに迷惑をかけてまで。
印象が崩れ、期待を裏切ることへの微かな恐れ。周囲から浮き、馴染めず、異物になることへの怯え。どこまでも利己的な自己保身。ちっぽけでくだらない見栄と己の心の脆弱さのために、素直な彼女に嘘をつかせてしまった。
そう気づいて、胸の奥がたまらないほどに締めつけられ、痛む。
いつも明るく朗らかで、空を飛ぶ鳥のように軽やかなラシェル。単に協力し続けてくれるだけでなく、こちらに負い目を感じさせないよう気遣ってくれていた。
それを「そういうもの」として当たり前のように感じていた。彼女の努力に目を向けず、現状に甘んじていたことをベルナールは酷く悔いた。
* * *
それからのベルナールは、ラシェルの協力に何か報いることができないかをずっと考えていた。同行依頼には、同行先のお菓子を奢ることで釣り合いは取れている。しかし彼女の細やかな気配りにも、この前もらったバラの花のメレンゲ菓子にも何も返せていない。
そんなときだった。いつも通り仕事帰りに中央広場を通りがかると、見慣れない出店があり、人が集まっていた。その隙間から覗く『琥珀糖』の文字につられ、ベルナールは足を止めた。
幸い背が高い方であるベルナールは、集まった人たちの邪魔にならないよう、少しだけ踵を浮かせて後ろからこっそり何を売っているのかを見てみることにした。見本として皿に盛られていたのは、色とりどりの切り出した宝石のようなお菓子だった。
琥珀の名に恥じない美しいお菓子は小さな小箱に詰められ、さながら宝石箱のようだ。中には本物の琥珀を模したように、小さな食用花が閉じ込められているものもある。
異国から行商でやって来たらしく、三日ほど滞在してからまた国へ帰るという。その物珍しさと限定販売という響きから人が集まっていたということらしい。
これなら、ラシェルさんは気に入ってくれるだろうか?
あのバラのメレンゲ菓子を選んだのなら、こういった珍しいものも好きかもしれない。女性は、宝石や花といった綺麗なものを好むとも言われている。これならラシェルも喜んでくれるのではないか。そう考えて、ふと気づく。
俺はまだ、ラシェルさんを喜ばせたことがない。
何もかもが後手だ。いつも自分はラシェルに何かをするのではなく、何かを“返して”ばかりだ。今のこれも、またお返しでしかない。その瞬間、ぎゅうっと胸の奥が小さく潰れるように軋んだ。
ここで迷っていては、何も変わらない。
自分から踏み出して追いかけなければ、ずっとラシェルには追いつかない。背中ばかり追いかけて、その後ろに残る善意を拾い集めて、返すばかりになる。
「すまない、店主。二箱買いたい。一つは贈答用で頼めるだろうか」
「お兄ちゃん、ありがとねー! すぐに用意するから待っててくれ」
本当はもう少し人が減るまで待ってから声をかけようと思っていた。けれど、人目を恐れて何ができるというのか。
騎士団の制服を着たままのベルナールは、案の定浮いた。騎士様だ……という声も、一瞬浴びる注目も居心地は悪かったが飲み込んだ。
代金を支払い、商品を受け取ったベルナールは、家とは違う方向へ足を向ける。治癒術師は昼勤と夜勤とあるが、夜勤でなければ恐らく帰宅している時間帯のはずだ。いなければまた出直せばいい。
食品である以上、渡すならできるだけ早い方がいい。突然の訪問で迷惑だろうから、渡したらすぐに帰ろう。そう考えながら、ラシェルの家へ向けて歩き出した。
王都の北側にラシェルの住んでいる借家はある。その家に明かりが灯っていることに気づき、ベルナールは無意識に小さく息を吐いていた。
扉をノックすると、「はーい」というラシェルの声が聞こえてくる。間もなく、躊躇いもなく扉が開かれた。
「おっ、おぉ……ベルナールさん。びっくりした……どうしたんですか?」
「突然すまない。しかし、相手を確認せずに扉を開けるのは不用心では?」
「いきなりお説教とは、恐れ入りますね……」
しまった……職業柄つい余計なことを……
ラシェルは唖然とした様子でこちらを見上げている。それもそうだ。約束もせずいきなり訪ねてきたかと思えば、口うるさく説教され、鬱陶しいにも程があるというものだ。
「申し訳ない。ただ、渡したい物があって来ただけなんだ」
もうごまかしようのない話をなんとか流せないかと思いながら、贈答用に包んでもらった琥珀糖の小箱を差し出す。ラシェルは少し戸惑いながらも、お礼を口にして受け取ってくれた。
「今開けてみて良いですか?」
「え、あぁ、もちろん」
琥珀糖を見たラシェルの反応が気になっていたとはいえ、いざ目の前でそれが見られると思うと妙に緊張してくる。ラシェルは包装を丁寧に外し、小箱の蓋を開ける。
小箱に入った宝石のような琥珀糖が露わになると、ラシェルは空色の瞳を雨上がりの空のように輝かせる。それは陽の光を浴びた雨粒のように透明で、澄んだ煌めきに似ていた。
「えぇ、何これ! 宝石?」
「琥珀糖という、他国のお菓子らしい」
「お菓子なんですか? すごい……飴とも違うのに、何でできてるんだろ?」
ラシェルは一つ摘み、光に透かして眺めたあと、ぱくりと口にした。ゆっくりと咀嚼するごとに、その口元が柔らかく弧を描いていく。
「わ……面白い食感! ボンボンに少し似てるかも? ベルナールさんも食べてみて!」
「え」
ラシェルはもう一つ摘み、こちらの口元へと運ぶ。気圧されて思わず口を開くと、琥珀糖が一粒転がり込んできた。一度歯を立てると、シャリッと薄い膜がヒビ割れるような感触と、ぷにっとした柔らかさが伝わってくる。不思議な食感と甘さの奥に、爽やかな柑橘の香りが感じられた。
「確かに、面白いな」
「ですよね。ベルナールさん、買ってきてくれてありがとうございます」
花が綻ぶように微笑んだラシェルに、じわりと胸が熱くなる。喜んでもらえた安堵と、見たかった笑顔が見られたことが純粋に嬉しい。そして早くも、心が逸るように次のことを考え始めていた。
他に、何かできることはないだろうか──




