踏鞴の一統
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顔や腕には、無数のあざや擦り傷。
やぶれた皮膚から、とろとろと流れる、どすぐろい静脈の血。
僕の血じゃない。
床を染めているのは、松切り番さんの血だ。
「どうして? あ、ちがう、消毒……水、そうだ、蒸留酒が……!」
まずい、混乱してる。
置かれた状況となすべきことの順序が、ぐちゃぐちゃになっている。
感染症という単語が、頭をぐるぐる回っている。
医者すらいないこの村で、傷口から細菌が入りこめば、死に至るまではあっという間だ。
蒸留酒をもってこないと。
度数は高くないけれど、ないよりはましだろう。
「た、踏鞴様には、松切り番は、いわなかったのよ……」
松切り番さんは、走り出そうとした僕の足に指をかけて、うめき声をあげる。
「なんですか? そんなことより、消毒しないと!」
「踏鞴様は、ひどく、怒ったのよ……唐揚げを見て、ひどく、ひどく……カイフェのものではないと、怒ったのよ……
かまどの炙りでつくらない料理は、カイフェのものではないと……
だから、松切り番は、いわなかった……白神がつくったと、言えば、白神が怒られるとおもったから……」
膝から力が抜けて、そのまま、へたりこんでしまった。
はやく体を動かして、村に戻って、蒸留酒を取ってこなければならないのに。
圧倒的な事実にうちのめされて、僕は、動けなくなってしまった。
「すまない、白神、すまない……松切り番のせいよ。松切り番が、白神を、巻き込んでしまったのよ……」
ちがう。
ちがう、そうじゃない、これは、僕のせいだ。
こうなったのは、すべて、僕のせいだ。
イギリスで二十世紀初頭まで開放式のかまどが使われていた理由。
木材が豊富だから、だけじゃない。
その頃にはコークスだってガスだって存在していた。
開放式かまどに向けられていたのは、一種の信仰だ。
炙り以外の調理で美味しく仕上げることはできないという、信仰。
何事につけ、カイフェ式にこだわる領主。
その信仰を、僕は、踏みにじった。
松切り番さんから話を聞いただけで、分かった気になって。
なにかできるかもしれないなんて、付け上がって、踏み込んで。
そして、白神だからというだけの理由で、許された。
カイフェの様式と天秤にかけて、白神の方が重かった、それだけの理由で。
許されるどころか、歓迎すらされた。
その影で、松切り番さんが、罰を受けた。
「ああっ……あああああっ!」
体が震えて、全身が氷みたいに冷たくなって、歯茎が痺れて。
口からは意味のない悲鳴がもれて。
だめだ、こんなことをしている場合じゃない。
悔いるのは後だ。
いいから体を動かせよ!
「少し待っていてください。すぐに治療します」
立ち上がろうとして、何度もつまづきながら、這いすすむ。
落ち着いて、なすべきことを順序だてるんだ。
ありったけの蒸留酒で、傷口をあらって。
煮沸した葛布をあてて。
それからどうする?
領主館から、どこかに松切り番さんを運ばないと。
領主の手の届かない場所に、逃げないと。
「康太様、いかがされましたか」
開けはなしの扉の前に、河笊さんが立っていた。
感情を見通せない、無表情で。
「あ、いや、あの……蒸留酒を、お酒が……」
河笊さんを見上げて、口からは、言葉が出てこない。
「ぶどう酒の用意がございますよ」
「そ、そうじゃなくてっ! 松切り番さんが!」
「あの男は、踏鞴様に対して、康太様の存在を匿しました。私があの男の動向を見ていなければ、この村にとって大きな損失が出ていたところです。
当然の報いだとは思いませんか?」
「ちがう! 松切り番さんは、僕にまで害が及ぶのを、食い止めようとしてくれていただけだ!」
総毛立つような怒りが、全身に満ちて。
僕は立ち上がり、目の前の男をにらみつけた。
「そこをどいて下さい。松切り番さんには、治療が必要です」
「ご安心下さい。私は心得ています。松切り番一人でしたら、用立てるのはたやすいこと。ましてこれより料理番は、白神様が引き受けられるのですから。そうでしょう?」
怒りで目の前が真っ白になって。
きづけば河笊が、地面に倒れ、うめいていた。
硬くにぎった拳が、じんじんとしびれている。
それで、僕が殴り飛ばしたんだと、気づいた。
利き手で人をなぐったのは、たぶん生まれてはじめてのことだ。
「松切り番さん……」
振り返って、松切り番さんを見る。
動かしていいのか、それとも、安静にしておいた方がいいのか。
「河笊さん、松切り番さんに、少しでも手を触れたら、僕は……いいですか、約束します。
白神として、ありったけの知識と力を使って、あなたたち領主館の人間を害します。必ずです」
「奇妙な話ですね。どうしてそこまで思い入れるのか」
河笊は、平然とした表情と声音だった。
答えず、僕は走り出した。
目の前に、白刃がきらめいた。
前髪が数束、切り裂かれ。
僕は立ち止まり、立ちはだかった男を睨み付ける。
領主、踏鞴月句その人が。
たいまつの灯りを背負って。
刃の分厚いナイフを手に、立っていた。
「なにか行き違いがあったようじゃの。河笊にはきつく言い含めておく。康太よ、わしはなにも」
「邪魔しないでください」
「話を聞け」
切っ先を僕の額につきつけ、月句は短く鋭く言った。
「むろん、松切り番は治療させよう。その為に必要なものを知っておれば、康太よ、わしに教えるのじゃ。
それは給地の力になるじゃろう」
月句は、ナイフを僕に向けたまま、顔をそむけ、人さし指で額をこつこつと叩きはじめる。
交渉のつもりか?
そんなくだらない駆け引きを遊んでいるひまなんかないんだ。
「わしはの、求めておったのじゃ。わしに力を与えてくれる、白神のごときものを……
のう、康太よ。お前はわしの力になってくれるじゃろうな?」
違和感をおぼえるほど、明るい声だった。
「ふざけないで下さい。こんなことをする人間を、信じられると思いますか?」
「もちろん。お前はわしに従うとも、康太よ。村に大事な者もおろう?」
「なにっ……なにを、何を言いたいんだ?」
榛美さん、悠太君、鉄じいさん、讃歌さん、給地のみんな。
僕を受け入れてくれた人たちの顔が、頭に浮かぶ。
「河笊が、どのような手を用いてでも、お前を逃がすべきではないとわしに申してきたのじゃ。いかにも、その通り。この数十年のまどろみで、腰が抜けておったわ」
河笊の入れ知恵か。
月句があの通りだったから、油断していた。
ふぬけの領主に、頭の切れる邪悪な宰相。
まったくファンタジーの定番すぎて、かわいた笑いが浮かんでくる。
「のう、康太よ。わしはの、多くの者に捨てられてきたのじゃ。みな、わしを捨て、どこかに去っていったのじゃ。
お前はそうはならぬと約束できるな? そうじゃろう、康太よ。お前はわしを捨てぬよな?」
一転して、すがるような声。
「そうじゃ! よいことを思いついたぞ。お前はわしの子となれ。そうであれば、お前もわしを捨てたりはせぬじゃろう?」
そして、ねこなで声。
何を考えているのか、まったく理解できない。
「康太よ、お前には、樫葉の名を授けようぞ。生まれてくるはずじゃった、わしの子の名じゃ。
樫葉の母たる女も、ろくでもない女じゃった。水雉や綸路と同じく、わしを捨てて消えおったのじゃ。
もはや名も覚えておらぬが、ろくでもない女じゃった……」
震える切っ先にこめられた感情は、なんだ。
憤激か、慨嘆か、その両方か。
長い時間をかけて蓄積し押しかためられた、複雑な地層のような感情が、冷たい鉄を通して、流れ込んでくるようだった。
「そうじゃ。樫葉となれ、康太。白神として、わしの傍に、常にあれ。言ったじゃろう、お前の求めるものを与えようと。
さすれば給地は、力を得る。わしが諦めておった、その力があれば、かならず、水雉も、綸路も、帰ってくる……」
だめだ、呑みこまれている場合じゃない。
「そんなことはどうでもいい! とにかく、松切り番さんを助けてあげてください!」
「であれば、約束しろ。わしの傍にあると約束するのじゃ。樫葉よ、踏鞴家給地の力となれ。お前の力で炎を振り撒き、他の給地を我らがものとしよう」
「は、あ? なにをっ……? 炎、炎だって?」
「そうじゃ、炎じゃ。わしは一度、しくじった。それもこれも、みながわしを捨てた故のこと。じゃが、白神と共にあるのならば、それは違う。
豊かな村からはその豊かさを奪い、広き村からはその広さを奪い、踏鞴家給地をなお一層のこと、強き鋼のごとく鍛えよう!
のう、樫葉よ、白神よ! お前とわしとの二つの炎で、給地を鋼のごとく鍛え直すのじゃ!」
月句がナイフを水平に振った。
たいまつを支えていた木の支柱が、なんの抵抗もなくまっぷたつになって。
赤黒く燃えさかる炭が、地面に転がった。
下草が、くすぶり、燃え上がり。
風に巻かれて炎が地面を奔り。
あっという間もなく周囲にわきあがった炎と煙を見て、月句は、いっそ無邪気にも見えるような笑顔を浮かべた。
「炎じゃ。わしとお前が炎となって、焼き尽くし、鍛え上げる! 煙は必ずや水雉と綸路に届こうぞ!」
今にしてようやく、ミリシアさんの言葉が理解できた。
この男は、どうかしている。
「どうした? 何ゆえ答えぬ? 樫葉よ、応と言え。それだけのことじゃ。そうでなければ、わしはお前をこの場にて斬り捨てる。
そこの男とともに松林に撒いてやろう! おお、そうじゃの! 白神の屍とあれば、必ずや松林は強くなるぞ! 『淡雪』は帰ってくる! お前の血と肉が、『淡雪』を再びこの地に呼び戻すのじゃ!」
炎と煙を見つめる月句の目は、ぎらぎらと不気味にかがやいていて。
うわごとじみた言葉には、もはや脈絡すら存在しない。
この状況を切り抜けないと。
でも、どうすればいい?
言葉で言いくるめられるような相手ではない。
だからって僕に、なにか武器があるわけではない。
ミリシアさんの言葉を、もっとしっかり、胸に刻んでおくべきだった。
あの人は、正しく、誠実で、そして、僕の料理を評価してくれた。
ちがう、だめだ、感傷的になっている。
死ぬ覚悟をしようとしている。
そうじゃない、考えろ、考えるんだ、松切り番さんも、僕も、生きてこの場を切り抜けられるような……
――今後、もし路頭に迷うようなことがあれば、遠慮なくヘカトンケイルのネイデル家を頼ってくれ
思い出す、ミリシアさんの言葉。
頼るような状況に陥るまえに、僕はここで、死ぬか、よその村を滅ぼすか、どちらかを選ばされている。
ああ、いや、待て。
ミリシアさんは、他にもなにか……
――ネイデル家と言えばヘカトンケイルに知らぬ者なき門閥の一員。どこであれ、その印章はお前の力になることだろう。
ポケットに、手を突っ込む。
指先に、冷たい金属の感触。
迷うことなくつかみだし、かかげてみせる。
「なんじゃ、それは? どういうつもりじゃ?」
「こちらはヘカトンケイルの門閥市民、ネイデル家のご印章です」
踏鞴月句が、目をみひらいた。
ミリシアさんがくれた、印章付の指輪。
僕に残された武器は、これだけだ。
「こちらは、ネイデル家のミリシア様に宴を饗した際、賜ったもの。私の身分は、ピーダー家のピスフィ嬢に、改めて定められることになっています。
それまでの間を、あなたの料理番として働くことは考えもしましょう。
しかし、意に沿わぬ行いをさせること、私の友を害すること、いずれもひいてはピーダー家のお怒りを買いましょう。
それでもあなたは、私をこの場で切り伏せるおつもりですか?」
どの程度の効果があるのかなんて、分からない。
はったりだろうと、言い切るしかない。
隙をついて、松切り番さんを連れ、逃げ出す。
残された道はそれだけだ。
「……ヘカトンケイルのアオサギどもが!」
踏鞴月句は、ナイフを地面に叩きつけた。
「何故じゃ! 何故、お前もわしを捨てる! 何故、みな、わしを捨てる! わしはただ、取り戻したかっただけ……水雉と綸路との日々を、取り戻したかっただけじゃ!
それだというのに、どうしてお前も、理解せぬ!」
「理解なんて――うわっ!」
背中になにかがぶつかって、その場に倒れ込んだ。
「踏鞴様、心をお静めくださいませ」
地面にころがった指輪をつかもうと、伸ばした手が、かかとで踏みにじられる。
激痛がはしって、口から、声にならない声があふれる。
「白神一人がこの場で死んだとして、何になりますか。村の者に言い含めておけば、ヘカトンケイルの者とて引き下がる他ありますまい」
悠々と指輪を拾い上げ、淡々と語るのは、河笊。
「おお、河笊よ……そうなのか?」
「その通りです。踏鞴様、あなたこそが踏鞴家給地の正統なる支配者。あなたはただ、その力を揮えるように揮うのみです」
あごを蹴りあげられ、仰向けになる。
痛みで涙がにじんで、視界がぼやける。
「迷わず、お斬り捨てなさい。白神のことなどお忘れになって、恙なき日々に戻りましょう」
胸倉を掴まれて、むりやり、立たされる。
突き飛ばされて、木に背中をぶつけ、その場にへたりこむ。
河笊は、僕を見下ろすと。
「愚かな男だ」
ものすごくきれいなフォームの前蹴りを、みぞおちに叩き込んだ。
「あっがッぇっ……!」
肋骨がきしんで、心臓が跳ね上がって、肺の空気が口からぜんぶ逃げ出した。
「まっとうに居丈高に、ただ驕っておけばよいものを。祀り上げられて無邪気に振る舞う程度が、白神の価値なのだから。
無力なままで誰かを救おうなどとは、それこそ驕りだ。惨めな驕りなのだよ、白神」
メトロノームみたいに淡々としたリズムで、一定の力加減で、河笊の蹴りが僕の体に降ってくる。
暴力の中にさえ、感情が読み取れない。
骨がきしんで肉が削げ、内臓が悲鳴をあげている。
身体を丸め、右手をしまいこんだ。
冗談じゃない、死ぬにしたって利き手だけは残してやる。
「情けない。お前はこうやって死ぬのだ、白神」
ようやく蹴りの雨がやんで、冷たい一言がふってくる。
咳込みがとまらなくて、息が吸えない。
全身は恐怖に冷え痛みに燃え、頭は割れるようにいたい。
「の、のう、河笊。お前が言うたのじゃろう。白神は、給地に力を……」
月句のその言葉を、河笊は鼻でわらった。
「意に沿わぬ力は、害でしかないと存じます」
月句が放り捨てたナイフを、河笊が拾い上げて。
切っ先が、僕の喉に押し当てられる。
冷たい刃が、僕の体温で、ゆっくりとあたためられていく、おぞましい感触。
「皮を剥ぎ、村に晒します。ご安心ください。私は心得ています」
ろくな生き方をしてこなかったから、ろくな死に方をしないだろうとは思っていたけれど。
まさか、『知らないおじさんに、生きたまま皮を剥がされる』という結末をむかえるとは思わなかった。
ごめん、榛美さん。
どうやらここで死ぬみたいだよ。
「構いませんね、踏鞴さ――」
「うわああああああああああ!」
甲高い絶叫がしたと思ったら。
いきなり、河笊の頭がぶれた。
カメラの手ぶれみたいにぶれた。
「ぐぇ」
短く鳴くと、河笊は、糸の切れた人形みたいに、その場に倒れ込んだ。
「ああああああああっ!」
またも甲高い絶叫。
よく分からないけれど、なにかしらの棒みたいなものが、河笊の体に、何度も振り下ろされている。
なんだろう。
なんか、すごくすごく、みおぼえのある棒なんだけど。
そのしなり具合、何度も見たような気がするんだけど。
「おィ、そンぐらいにしとけや。死ぬぞ」
「当たり前です! 死ぬようになぐってるんですから!」
聞き覚えのある、あまりにも懐かしく感じる、声だった。
「榛美さ――」
ひどく重たい顔をもちあげ、目の前の人に、声をかけようとして。
「えっ誰?」
笹編みの笠を深くかぶって、ごっわごわの蓑に全身つつまれて。
そして、人を叩くのにちょうどいい長さの棒を手にした、なんかよく分からない生き物が目の前にいた。
こういう妖怪いそう。
妖怪が、笠を脱ぎはなって。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした榛美さんが、そこに立っていた。
「康太さん……康太さん!」
泣きながら、僕に抱きついてくる榛美さん。
蓑のちくちくが痛いよ榛美さん。
打撲傷にものすごく痛いよ榛美さん。
リンパ液出ちゃうよ榛美さん。
「康太さん、康太さん! こう、康太さ……うわあああああん!」
抱きついたまま、榛美さんはめちゃくちゃに泣き出した。
「おかえり。思ったよりはやかったね」
頭をなでようとしたけれど、手が上がらない。
なにかを察したのか、榛美さんは僕の手を持ち上げ、頭にのせた。
助かるけど、左腕がものすごく痛いよ榛美さん。
「ううううう! ばか! 康太さんのばか! なんでですか! なんでこんな! ばか! ばか!」
「ごめんね。就職しようと思ってさ。そしたら、意外に圧迫面接だったんだ」
「なにいってるかわかんないです! ばか! 康太さんのばか! で、でも、生きてて、生きてて、よ、よか、ふ、ふぇえええええ……」
僕の胸に顔をすりつけ、脇の下に鼻づらをつっこみもぐりこもうとし。
かと思ったら、僕の首筋にほっぺをあてて。
榛美さんがせわしない。
ようやく身体のしびれが取れてきたので、蓑のちくちくに耐えながら顔をあげると。
松切り番さんに肩を貸し、鉄じいさんが、月句と対峙していた。
「よォ。久しぶりじゃァねェかよ。なンだってこンなことになッてやがる?」
月句は、鼻を鳴らした。
「踏鞴の一統が、揃い踏みか。つくづく白神というのは、騒ぎを巻き起こさずにはいられぬようじゃの」
「あァ、まさか俺も、生きて再びドラ息子の顔を拝むことになるたァ思わなかッたぜ」
……ドラ息子?
どういうことだ?
月句は、鉄じいさんの息子?
それじゃあ、鉄じいさんって――
「あああっ! そうか!」
「うひゃあ!」
思わぬところで思わぬ話がつながって、思わず声をあげてしまた。
「ど、どうしたんですか康太さん! どこかいたむんですか!」
「うん、実は、さっきから蓑がささってすごく痛いんだ」
「わああああごめんなさい! ぬぎます! すぐぬぎますからいたい! 蓑が目にはいってすごくいたい!」
「だいじょうぶ? ゆっくりでいいからね」
「うわあああぬげません! ぬぎかたがぜんぜん分かりません!」
榛美さんが蓑相手にわちゃわちゃしている間に、わかったことを整理しよう。
思い出すのは、初夏の日、ふたりでぎこちなく会話をしながら歩いたあぜ道のこと。
――なんでも、寒村の鍛冶屋だった男が、“中つ国諸国”の“魔王領”への“十字軍遠征”に際して良質の鉄を供給した功績により、この土地に封じられたのだという。
榛美さんから情報収集をしていたときに、ぽろっと出てきた話。
ベンガラから、五足飛びぐらいのスピードで鋼を生成できる、鉄じいさんの魔述。
良質の鉄の供給はたやすいだろう。
鉄じいさんこそが、この地に封じられた領主様だったんだ。
「ぬぎました!」
「ぐぇあ」
この「ぐぇあ」が、なんの「ぐぇあ」かと言えば。
蓑を脱ぎ捨てるやいなや、ふたたび榛美さんがぎゅって抱きついてきて。
その勢いたるや、レスリングのタックルぐらいきれがよくて。
僕の肺から再び空気がぜんぶもれだしたときの「ぐぇあ」だ。
「うわああごごごごめんなさい康太さん! やりなおします! やりなおしますからっひゃあああぎゅってされた!」
体温と、やわらかさが、すごく心地よくて。
僕は、動くようになった腕で、榛美さんを、力のかぎり抱きしめていた。
「こ、康太さん?」
「すこしだけ、このままでいさせて」
「……はい」
やさしい、うなずき。
榛美さんの手が僕の背中にまわってきて。
そっと、だきよせられる。
心臓の音が、どっちのものなのか分からなくなるぐらい、しっかり抱きしめあって。
榛美さんの温度が、恐怖で凍り付いた体に、ゆっくりとなじんでくる。
「だいじょうぶですよ」
指先が僕の髪にふれる。
毛並みとさかさまに、肌が指の熱を感じられるような距離で、ゆっくりとなでられる。
「わたしがいます。康太さんは、もう、だいじょうぶですよ」
榛美さんの肩に額をおしつけて、静かに呼吸する。
ふたりの体のあいだで空気があたためられて、榛美さんの香りが、花のように、お酒のように、ひらく。
ずっとこうしていたいけれど、状況はそれを許さない。
「わしは貴様を、もはや父などとは思っておらぬ。貴様とて、わしを捨てたのじゃろう?」
月句の鋭い声に、顔をあげる。
鉄じいさんが、皮肉っぽく鼻を鳴らしていた。
「てめェがてめェで愛想尽かされたんだろォが。捨てただなンだ、弱い人間の言葉を使うンじゃねェや。
そンなことより、だ」
鉄じいさんは、松切り番さんに目を向けた。
「このガキ、いつ産ませた? 水雉に愛想尽かされた後のことだろォが?」
月句は目をみひらき、あえぐように、なんども口を開いては閉じた。
「分かる、のか……」
「もうろくしたたァ言え、手前ェの血の色も分からいでかよ。コイツは、オレの血を引いていやがる。ドワーフの血と、エルフの血だ。踏鞴の血だ」
なんだって?
松切り番さんが、月句の息子?
「……村の女じゃ」
力なくうなだれて、罪を告白するようなうしろめたい声で、月句が語る。
「もうどんな名前だったかも覚えてはおらぬが、ろくでもない女じゃった。結局のところ、わしを捨ておったのじゃからな」
鉄じいさんはため息をついて、あごひげをしごいた。
「息子が見苦しく落ちぶれる様ッてェのは、見たかァねェもンだな。
あの時、てめェのことを斬ッちまえばよかッたぜ」
月句は、その場に膝をつき、顎が胸にくっつくぐらい、うつむいた。
「……もう、よい。もう、わしのことは、放っておけ。ただ、元通りになるだけのことじゃ。
水雉も綸路も戻らず、日々が過ぎるのを待つ、それだけのことじゃ」
「あァ、そォかよ。好きにしやがれ、ドラ息子が。行くぞ」
歩き出そうとした鉄じいさんの胸に、松切り番さんが、手を置いた。
「ま、松切り番は、い、行けない……」
「あァ?」
「松切り、番、は、ここ、ここに、残る……そうよ、踏鞴様のおそばに、の、残るのよ……」
「冗談じゃねェ。てめェ、こンなところにいたら殺されちまうぞ。知らなかったッてもてめェは俺の孫だ。
孫を見捨てるジジィがいるかよ」
「それでも、ま、松切り番は、いけない……」
鉄じいさんは、空いた手で、頭をがしがしと掻いた。
「あァ、そォかよ、好きにしやがれッてンだ。ッたく、どいつもこいつも、俺の血ッてェのはろくでもねェ種しか残さねェな」
「白神……」
松切り番さんが、顔をこちらに向けた。
「すまない……悪いことをしたのよ。松切り番は、本当に、すまないと思っているのよ。
台所の、さしかけ小屋に、きれいな瓶がある。それを、白神にあげる。持っていって、みんなで呑むといい。
花の蜜と、松葉を、松切り番が集めたものよ」
「松切り番さん……」
立ち上がろうとしたら、背中がぴきぴきと不吉な音を立てた。
「ああ、わたしがとってきます! 康太さんは待っててください!」
榛美さんがあわてて駆けだした。
「踏鞴様」
呼びかけるけど、返事はない。
「治療のために必要なものを、お持ちします。なるべくはやく、松切り番さんに使ってあげて下さい」
がらすの瓶を手に榛美さんがもどってくる。
雲の切れ間からさした、わずかな月光に瓶をかかげて、中身をのぞいて。
瓶をくるくる回して、首をかしげ、不思議そうな顔をしてから。
そしていつもの、口はんびらき。
ああ、榛美さんだ。
よ
か
っ




