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『のんびり暮らしたい宿屋の娘、今日も子育て相談を受けています』 ~元小児科看護師の異世界暮らし~  作者: 入野 カフェイン


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82/82

第82話 Forest亭はみんなの拠り所

夏の昼下がり。


Forest亭は、いつもより少し静かだった。


お昼の忙しい時間が過ぎて、宿泊のお客さんたちもそれぞれ出かけている。


私はというと。


「…………ひま」


カウンターに座って、足をぷらぷらさせていた。


隣ではリトが紙に何かを描いている。


最近のリトは、お絵描きがお気に入りだ。


「リト、何描いてるの?」


「んー、これ!」


「……なに?」


「わかんない!」


「そっかぁ」


相変わらず自由である。


私はリトの頭を撫でて、カウンターに頬をつけた。


ひんやりしていて気持ちいい。


(あー、平和だなぁ)


こういう時間が一番好きだ。


カラン。


そんな平和な午後に、扉の鈴が鳴った。


「いらっしゃいませー」


顔を上げると、女の人と小さな男の子が立っていた。


「あら、こんにちは」


厨房から顔を出したママが声をかける。


「こんにちは。お昼の時間は過ぎちゃいましたけど、まだ食事ってできますか?」


「ええ、大丈夫ですよ」


「よかった。ほら、ご挨拶して」


男の子はお母さんの後ろから、ひょこっと顔を出した。


そして私を見つけると、ぱっと顔を明るくした。


「あ! ルマちゃん!」


「……あれ?」


見覚えがある。


あっ。


「ひみつごはんの子!」


「ひみつごはん!」


男の子が嬉しそうに繰り返す。


そうだ。


以前、好き嫌いが多くて困っていた男の子だ。


あのときは、食べ物の形や見た目を少し工夫して、何が入っているか秘密にしたご飯を作ったんだった。


「お久しぶりです」


お母さんが苦笑いする。


「もう、あの日から大変なんですよ」


「大変?」


「ここでひみつごはんを食べてから、毎日のようにForest亭に行きたいって。今日も朝からずっと言ってるんです」


「へえ!」


「家でも食べられるようになってくれたらいいんですけどねぇ」


お母さんがため息をついた。


「ここではあんなに食べたのに、家だと相変わらずで……」


(あー、あるある)


前世でもよく聞いた話だ。


保育園では食べるのに家では食べない。


病院では頑張れるのに家では嫌がる。


場所や相手が変わると、子どもの反応も変わる。


「でも、ここでは食べられたんでしょ?」


私が聞くと、お母さんは頷いた。


「ええ。それはもう、びっくりするくらい」


「じゃあ、すごいじゃん!」


「え?」


「食べられたことあるんだもん!」


男の子を見る。


「ね!」


「うん!」


男の子は得意げに胸を張った。


お母さんは少し驚いたあと、ふっと笑った。


「……そうですね。食べられたんですもんね」


うんうん。


一回食べられたからって、次から全部食べられるわけじゃない。


でも、一回できたことだって立派な成長だ。


「今日は何にしましょうか?」


ママが注文を聞きに来る。


男の子は即答した。


「ひみつごはん!」


「ふふ、今日は何が入ってるかしらね」


ママが笑う。


もちろん、食材やアレルギーの確認はお母さんとしてからだ。


秘密なのは、あくまで男の子にとって。


「じゃあ、ちょっと待っててね」


「はーい!」


元気なお返事。


うむ。


よろしい。


◇


しばらくして。


カラン。


また扉が開いた。


「こんにちはー」


「あら、いらっしゃいませ」


今度も女の人と小さな男の子。


私は顔を上げた。


「……あ!」


向こうのお母さんも私に気づいたらしい。


「あら、ルマちゃん!」


「リモネのお水!」


「ふふ、そうそう」


先日、暑さで食欲が落ちて、水もほとんど飲めなくなっていた男の子とお母さんだった。


「この前はありがとうございました」


お母さんが頭を下げる。


「カロナ先生のところ、行った?」


「ええ。あのあとすぐ診てもらいました」


よかった。


「水分が足りなくなっていたみたいで、もう少し遅かったらもっと大変だったかもしれないって」


「そっかぁ」


「今はすっかり元気です」


男の子を見る。


確かに、前に来たときより顔色もよくて、元気そうだ。


「元気?」


「うん!」


「ご飯食べてる?」


「たべてる!」


「お水は?」


「のんでる!」


「えらい!」


男の子はにこにこしている。


お母さんも笑った。


「それがね、あれからリモネのお水がお気に入りで」


「ほんと?」


「家でも作ってるんですよ」


「りもね!」


男の子が嬉しそうに言った。


「おいしー!」


おお。


気に入ってくれたらしい。


「よかったねぇ」


私は満足して頷いた。


すると、ママが奥から声をかけた。


「よかったら、こちらのお席へどうぞ。ちょうど空いてますから」


案内されたのは、先ほどの親子が座っているテーブルの隣だった。


◇


最初は、それぞれ普通に食事をしていた。


ひみつごはんの男の子は、今日も何が入っているのか気になるらしく、料理をじーっと見つめている。


「これ、なに?」


「ひみつ」


「えー!」


「食べてからのお楽しみ」


「んー……」


ぱく。


もぐもぐ。


「おいしい!」


「よかったわね」


お母さんが笑う。


その様子を、隣のテーブルのお母さんが見ていた。


「あの……」


「はい?」


「お子さん、よく食べますね」


「いえいえ!」


ひみつごはんのお母さんが慌てて首を振る。


「ここでは食べるんですけど、家では全然なんですよ」


「あら、そうなんですか?」


「もう、好き嫌いがひどくて。野菜なんて見ただけで嫌がるんです」


「わかります!」


リモネ水のお母さんが身を乗り出した。


「うちも、暑くなってから全然食べなくなっちゃって!」


「そうなんですか?」


「ええ。ご飯も甘いものも嫌がって、お水まで飲まなくなってしまって」


「まあ、それは大変……」


「カロナ先生に診てもらって、今は元気なんですけどね」


「よかったですねぇ」


二人のお母さんが顔を見合わせて笑う。


私はカウンターから、その様子を眺めていた。


(……お?)


なんだか話が弾んでいる。


「うちは食べさせようとすると、余計に嫌がるんです」


「ああ、わかります! 食べなさいって言えば言うほど食べないんですよね」


「そうなんですよ!」


「うちはお水がそうでした」


「本当に難しいですよねぇ……」


(…………)


私はリトを見る。


リトは相変わらずお絵描き中。


うん。


平和だ。


……と思っていたら。


「ルマちゃん!」


呼ばれた。


「はーい?」


「ちょっと聞いてもいい?」


ひみつごはんのお母さんだった。


「なあに?」


「この子、家でも野菜を食べられるようになるには、どうしたらいいと思う?」


(……私に聞く?)


六歳児に?


いや、前世では看護師だったけど。


今は六歳児なんですが。


「んー……」


私は少し考えた。


「ひとくちだけ、とか?」


「ひとくち?」


「うん。いっぱい食べなくても、ちょっと食べられたらすごいねーって」


「なるほど……」


「でも、嫌なときは無理に食べなくてもいいと思う」


「そうなの?」


「うん。ご飯、嫌いになっちゃうもん」


これは大事だ。


食事の時間が嫌な時間になってしまうと、ますます食べたくなくなる。


もちろん、栄養のことも大切だけど。


毎回、親子で戦うような食事になってしまうのもつらい。


「そうねぇ……」


お母さんが男の子を見る。


男の子は、そんな話など気にせず、ひみつごはんをもぐもぐ食べていた。


「……今日はこんなに食べてるのに」


「すごいねぇ」


私が言うと、男の子が顔を上げた。


「ぼく、すごい?」


「すごい!」


「えへへ!」


嬉しそう。


かわいい。


すると、隣のお母さんも笑った。


「うちも、飲めたときにもっと褒めてあげようかしら」


「いいと思う!」


「でも、飲まないときはどうしたらいい?」


「んー……」


難しい質問だ。


「好きなコップにするとか?」


「コップ?」


「うん。ちっちゃいのとか、かわいいのとか」


「ああ!」


「あと、いっぱい入れないで、ちょっとだけ」


「なるほどねぇ」


「でも、おしっこ少なかったり、元気なかったりしたら、カロナ先生ね!」


「ええ。それはもう、よくわかりました」


お母さんが苦笑いした。


よし。


そこは大事。


◇


それから、なぜか話題はどんどん広がっていった。


「うちの子、夜もなかなか寝なくて」


「あら、うちもですよ!」


「寝たと思ったら起きちゃうんです」


「わかります!」


「お昼寝しすぎなのかしら……」


「でも、寝かせないと夕方ぐずるんですよねぇ」


「そうそう!」


……すごい。


共感の嵐である。


私は途中から、ほとんど口を挟まなくなった。


というか。


挟む必要がなかった。


お母さんたちは、お互いの話を聞いて、笑って、時々ため息をついて。


「うちだけかと思ってました」


「私もです」


「なんだか、ちょっと安心しました」


そんなことを言い合っていた。


(……そうなんだよなぁ)


前世でも、子育てに悩むお母さんやお父さんはたくさんいた。


食べない。


寝ない。


泣き止まない。


言うことを聞かない。


一つ一つは小さな悩みに見えても、毎日続くと本当に大変だ。


しかも、周りの子と比べてしまうこともある。


でも。


同じように悩んでいる人がいると知るだけで、少し気持ちが軽くなることもある。


(こういう時間も、大事だよねぇ)


私はコップのリモネ水を一口飲んだ。


すっぱ。


でも、おいしい。


「ルマちゃん」


「ん?」


また呼ばれた。


今度はリモネ水のお母さんだ。


「ルマちゃんは、どうしてそんなこと知ってるの?」


「…………」


ぎく。


「えーっと……」


どうしてと言われましても。


前世で小児科の看護師を十年ほどしていたからです。


……なんて言えるわけがない。


「なんとなく?」


「なんとなく?」


「うん!」


にっこり。


お母さんたちは顔を見合わせたあと、笑い出した。


「ふふ、面白い子ねぇ」


「本当に」


よし。


ごまかせた。


たぶん。


◇


気づけば、ずいぶん時間が経っていた。


ひみつごはんの男の子は、すっかりお腹いっぱいになっている。


リモネ水の男の子も、元気にお水を飲んでいた。


お母さんたちは、まだ少し名残惜しそうだったけど。


「そろそろ帰らないと」


「そうですねぇ」


二人は立ち上がった。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ。お話できてよかったです」


「あの、またここで会えたら嬉しいです」


「ぜひ!」


……おお。


仲良くなってる。


「ルマちゃんも、ありがとうね」


「え?」


「なんだか、元気が出たわ」


「私、何もしてないよ?」


「ふふ、そうかもしれないわね」


そう言って、お母さんは笑った。


男の子たちも手を振ってくれる。


「ルマちゃん、ばいばーい!」


「またくるー!」


「ばいばーい!」


カラン。


扉が閉まった。


私はしばらく、その扉を眺めていた。


(……なんか)


(すごいことになってたなぁ)


すると。


「ルマ」


「ん?」


ママが隣に立っていた。


「うちって、食堂よね?」


「うん」


「宿屋でもあるわよね?」


「うん」


「……いつから子育て相談所になったのかしら?」


「…………」


私は考えた。


「きょう?」


「そうね。今日ね」


ママが笑う。


「でも、楽しそうだったわ」


「うん!」


「お母さんたちも、帰るころにはずいぶん明るい顔をしてたもの」


「うんうん」


「こういう場所になるのも、悪くないわね」


私はママを見上げた。


「いいの?」


「もちろん。お店の邪魔にならないくらいならね」


さすがママ。


「それに」


ママは少しだけ優しい顔になった。


「子どもを育てるのって、楽しいことばかりじゃないもの」


「そうなの?」


「そうよ。心配することも、困ることも、たくさんあるわ」


「ふーん」


「でも、誰かに話せるだけで楽になることもあるのよ」


私は頷いた。


うん。


知ってる。


前世でも、そういう場面を何度も見てきたから。


「じゃあ、また来るかな?」


「どうかしらね」


ママが笑った。


「でも、来てくれたら嬉しいわね」


「うん!」


私もそう思う。


◇


そのあと。


私はいつもの場所に戻った。


カウンターに、ぺたん。


「つめたーい……」


ああ。


やっぱり、ここが落ち着く。


隣では、リトがまだ紙に何かを描いている。


「リト、楽しい?」


「うん!」


「よかったねぇ」


私は目を細めた。


今日も平和だ。


……いや。


ちょっとだけ忙しかった気もする。


でも、私はほとんど何もしていない。


お母さんたちが勝手に仲良くなって、勝手に笑顔になって帰っていっただけだ。


それでいい。


困っている人がいたら、少しだけ一緒に考える。


疲れた人がいたら、座ってお茶でも飲んでもらう。


子どもたちは、おいしいご飯を食べて、元気に遊ぶ。


そんな場所があってもいいと思う。


(……まあ)


(私は、のんびりしてたいんだけどね)


私はカウンターに頬をつけたまま、目を閉じた。


その日、Forest亭に新しい商品が増えたわけでも、特別な発明が生まれたわけでもない。


ただ、二人のお母さんが知り合って、少しだけ笑顔になった。


それだけの、夏の午後。


でも。


こんな何気ない出来事が、いつか誰かにとって大切な居場所につながっていくのかもしれない。


もちろん、このときの私はそんなことまで考えていなかった。


だって。


「ルマ、お昼寝するの?」


「するー……」


「もう」


ママの呆れた声を聞きながら、私はゆっくり目を閉じた。


今日もForest亭は、平和である。

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