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時禍戦記 ―時を喰らう者―  作者: 綾瀬 灯


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第一章・乱れの夜

 夜はいつもより重かった。城の石垣に打ち寄せる風が、古い旗を擦り合わせる音を立てる。松明の炎は揺らぎ、影を長く引き伸ばしては、また消えた。赤羽玄斎はその音を聞きながら、帳の向こうで整えられた陣形を思った。戦はいつも計算の連続だ。だが今夜、計算の外側から何かが滑り込んできた。


「殿、異変です」


側近の声は震えていた。声の主は若い侍で、額に汗を光らせながら玄斎の前にひざまずいた。玄斎は短く頷き、外套を羽織り、刀を腰に差した。城門の外、闇の中に人影が群れ、松明の光が揺れている。だがそれだけではなかった。群れの中に見慣れた顔が混じっていた。


その顔は玄斎自身の顔だった。若く、しかし確かに彼の眉と顎の線を受け継いでいる。目は父のそれを映しているようで、同時に何か別のものを宿していた。刃を振るうその手は、父の手の形をしているが、振るう理由は父のそれとは違った。


玄斎の胸に、古い名がひとつだけ浮かんだ。朔──彼はその名を口にしたことはない。だが、胸の奥に眠る影が震え、名が音になって出た。


「朔……?」


若者は笑った。笑いは冷たく、刃のように鋭かった。


「父上、ここまで来てくださったのですね」


その声は、玄斎の過去と未来を同時に刺した。


襲撃は一瞬で始まった。矢が飛び、鉄の音が鳴る。城の外壁を駆ける足音、甲冑の擦れる音、叫び声が混ざり合い、夜は血の匂いで満ちた。玄斎は刃を抜き、しかしその手は震えた。相手は自分の血の一部であるはずの者だ。斬ることは自分を斬ることに等しい。


「殿、佐伯殿が――」


側近が言いかけて言葉を切った。佐伯忠成の名は、玄斎の耳に重く落ちた。忠成は長年、玄斎の側にあって数々の戦を共にした男だ。だが今、彼の旗が城門の外で翻っている。裏切りは刃よりも冷たい。


玄斎は視線を戻した。若者は一歩、前に出る。顔立ちは確かに彼のものだが、目の奥にあるものは父のそれではない。そこには欠けた記憶と、植え付けられた意志が混じっていた。若者の手には短刀が握られ、刃先には夜の光が反射している。


「父上、あなたは知らない方がいい」


若者は言った。


「知らぬまま消える方が、楽なのです」


その言葉が、玄斎の胸に深く刺さった。楽なのか。知らぬままにしておくことが、誰にとっての安らぎなのか。玄斎は言葉を探したが、喉は乾いていた。代わりに、彼は刃を振るった。


刃は夜を切り裂き、若者の肩をかすめた。だが相手は身を翻し、笑いを零した。


「父上、弱いですね」


その声には、どこか他人の響きが混じっていた。若者は矢をかわし、玄斎の懐に飛び込むようにして斬りかかった。二人の間に流れる時間が、ぎくりと歪む。


玄斎は受け流し、相手の腕を掴んだ。若者の肌は冷たく、しかし確かに温もりを持っていた。指先に触れた瞬間、玄斎の胸に断片的な映像が走った。見知らぬ夜、白い布、泣く声、そして小さな手。映像は刃のように鋭く、すぐに消えた。玄斎は息を呑んだ。記憶か幻か。どちらにせよ、そこにあるものは彼の血の匂いを帯びていた。


「やめよ」


玄斎は低く言った。


「誰が――何が、これをさせた」


若者の瞳が一瞬揺れた。だがすぐにそれは消え、代わりに冷たい決意が戻る。


「父上は知らない方がいい」


若者は繰り返した。


「あなたが知れば、すべてが壊れる」


その言葉を聞いた瞬間、玄斎の背後で大きな音がした。城の内側から、火の手が上がる。忠成の兵が城内に侵入し、混乱が広がっていた。側近たちが叫び、玄斎の名を呼ぶ。だが彼の耳には、若者の声だけが残った。若者は一歩下がり、群れの中へと消えようとした。


「待て」


玄斎は叫んだ。だが声は届かない。若者は振り返り、短く頭を下げた。


「父上、さようなら」


その言葉は、まるで別れの挨拶のように静かだった。


若者が闇に溶けると同時に、玄斎の胸の中で何かが崩れ落ちた。彼は刀を握りしめ、周囲を見渡した。城は裏切りの炎に包まれ、忠成の旗が高く掲げられている。側近の何人かが倒れ、誰かが血を流している。だが最も深い痛みは、見知らぬ若者の瞳に宿っていた「父」を求める光だった。


玄斎は歩を進めた。足元に倒れた侍の顔を見下ろし、短く息を吐いた。彼は将としての冷徹さを取り戻さねばならない。だがその前に、答えが必要だった。なぜ自分の血が自分を襲うのか。誰が、どのようにして、まだ生まれていないはずの「子」をここに呼び出したのか。


城の奥、羅刹の間と呼ばれる古い書庫の扉が半ば開いているのが見えた。羅刹は時の術を知る古老であり、玄斎の過去に関わる者だ。玄斎はその名を思い出し、足を速めた。だがその途中で、背後から鋭い声が飛んだ。


「殿、ここは危険です。退いてください」


声の主は、若い女術師だった。時守ユラ。彼女は松明の光の中で震え、手に小さな符を握りしめている。ユラの目は血走り、何かに怯えているようだった。彼女の存在は、玄斎の胸にさらなる疑念を投げかけた。


「ユラ、何をした」


玄斎は問いただす。問いは刃のように鋭く、しかし彼の声には疲労が混じっていた。ユラは俯き、言葉を探した。


「殿……私は、術を……」


彼女は震える声で言った。


「しかし、これは私の望んだことではありません」


その言葉は、夜の喧騒の中でかすかに響いた。玄斎はユラの顔を見つめた。彼女の瞳には後悔と恐怖が混じっている。だがそれだけではない。そこには、まだ見ぬ未来を覗き込んだ者だけが持つ、冷たい光が宿っていた。


玄斎は深く息を吸った。城は崩れ、血は流れ、夜は裂けている。だが彼の中で最も恐ろしい裂け目は、まだ見ぬ子の存在が作り出したものだった。父であるはずの者と、子であるはずの者が刃を交える──その矛盾は、彼の胸を引き裂いた。


「答えを出す」


玄斎は低く言った。


「まずは城を取り戻す。だが、その後で真実を聞く」


ユラは小さく頷いた。彼女の手の符が震え、松明の光がその紙片に反射した。遠くで忠成の笑い声が聞こえた。玄斎は刀を握り直し、夜の中へと歩を進めた。彼の背後には、消えた若者の影と、まだ見ぬ未来の気配が残っていた。

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