第六章:不穏な風、混入する絶望
ハクレンは自室で古びた水晶玉に手をかざした。淡い光が収束し、そこには凛とした佇まいの若い女性が映し出される。
「ハクレンか。例の異世界人、夏の件だな?」
「そうだ。本人も承諾した。それから、夏については誰の耳に入るか分からん。極秘の書簡を昨日飛ばした。大切なことが書いてある、じきに届くはずじゃ」
ハクレンの言葉に、女性は思案げに目を細めた。
「……目を通しておきましょう。して、実際の実力はどうなのです?」
「手を抜いておるとはいえ、ワシと打ち合える程度には成長した。可能性を感じる逸材よ」
「ほう、ハクレンと。学園での活躍、楽しみですね」
通信が切れた直後、女性の部屋の窓を鳥が叩いた。受け取った書簡を読み進めるにつれ、彼女の表情は驚愕に染まっていく。
「……馬鹿な。そんなことが可能なのです? これが世に知れれば……」
彼女は指先から細い火を出し、書簡を一瞬で灰にした。
「隠し通さねばな。あの娘を守るためにも」
同じ頃、夏は「本」の中の白い空間で、鈴と激しい稽古を繰り広げていた。
「ほら、どうしたの夏! ハクレンは甘いけど私は違うわよ。踏み込みが甘い、速度も遅い!」
「分かってるけど……鈴、あんた本気すぎ!」
元の世界と違い、いくら傷ついても死なないこの空間で、夏は容赦なく打ち据えられていた。
「終わりね、夏」
首元に突きつけられた木刀。夏は両手を上げた。
「……負けました」
「お疲れ様。中級魔族程度なら何とかなるでしょうけど……最上級魔族、上級魔族相手には手も足も出ないわね」
ふと、夏が尋ねた。
「最上級と上級魔族って、そんなに違うの?」
「別格よ。特に翼を6枚以上出せる最上級魔族は。……私が戦った中で最強だったのは、魔王エリーズ・クレア。彼女は魔族特有の翼すら出さずに私を圧倒した。人は……あんな存在に太刀打ちできない」
震える鈴の言葉に、夏は「ごめんなさい、思い出させて」と謝った。
「また時間のようね。……夏、いい? 絶対に最上級魔族、上級魔族とは戦わないで。今の貴方では、消されるだけだから」
現実世界に引き戻された夏の胸に、光り輝く本が吸い込まれるように消えた。
「……大丈夫、魔族なんて、そんな滅多に会わないでしょ」
夏はそう自分に言い聞かせ、昼食のために席を立った。
屋敷に戻った桜は、震える手で汁物を用意していた。
「……入れなきゃ。やりたくない……でも、やらないと私が殺される……」
懐から出した小瓶。無色透明の液体を、ハクレンの器にだけ少量垂らす。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
食堂へ向かうと、そこには夏とハクレンがすでに座っていた。毒入りの器をハクレンの前に置き、桜は二人を見ることができず視線を伏せた。
「あの……今日は体調が優れないので、部屋で休みます。食器はそのままにしておいてください、後で片付けますから」
逃げるように立ち去る桜。
「大丈夫かな?」
夏の心配そうな声を背中で聞きながら、桜は廊下の曲がり角に隠れた。心臓が早鐘を打つ。
(バレて……。いっそバレて、私を殺して!)
「――夏よ。今日の汁物、少し味が変わっておらんか?」
汁物を啜ったハクレンの声に、桜の息が止まった。
(気づいて! 毒よ、毒が入っているのよ! 私を解放して!)
しかし、夏の声がそれを打ち消した。
「師匠、それはきっと桜の気遣いですよ。修行で疲れてる師匠のために、少し味を濃くしたんじゃないかな? 私のも少し違う気がするし」
(違う、違うの……夏様……!)
「なるほど、そうかもしれんな。ありがたいことじゃ」
ハクレンはそのまま、毒入りの食事を平らげていく。
桜は崩れ落ちそうになる足に力を込め、フラフラと自室へ戻った。
自分が毒を盛った主人が、自分を思い遣る言葉を口にする。その残酷な優しさが、鋭い刃となって桜の心をズタズタに切り裂いていた。




