第90話 可能性を腐らせる猛毒
黒舞高原。
黒舞地区の最北端に位置するどデカい山脈の麓にある広大な土地だ。同時に、賢術の学府『万』の裏側に位置している。
「《顕現印》仮想実現」
その高原のど真ん中で、柊波瑠明は多量の術水を放出する。それが瞬く間に柊の正面に収束すると、それは棒状を象った。
淡い蒼白の光を放つそれは、可能性を実現する柊の力が注がれた、術水の太刀だ。
柊が、顕現した術水の太刀を正面へ突き出した。
ちょうどその刃先へ、ガギイイイイィンと耳を劈く高音と共に何かが衝突する。
それは禍々しい爪だ。
「しっかり受け止めろよ」
忌み子、篤馬波論の毒麟芽爪の腐った翡翠色がさらに沈む。
ものの数秒で漆黒にも等しいほどの色に変化し、そこから多量の霧が噴出された。
「間合いが近ぇときは気をつけな」
ジジジジッと拮抗する術水の太刀と毒麟芽爪が、紫の霧に包まれる。それは瞬く間に術水の太刀の刀身を腐らせ、刃こぼれを起こさせた。
「うっわ」
咄嗟に柊が術水の太刀から手を離す。
柊の力が注がれた術水の太刀は可能性を断ち切る権能を宿す分、柊が握っていなければ忽ち崩壊する。
紫の霧の影響もあり、柊が手を離すのとほぼ同時に術水の太刀が消え失せた。
「猛毒を操る術式か。俺の術式の太刀を腐らせるなんて厄介だね」
「毒を噴射するくれぇ、術式なんざ使わなくても出来るこった。吸い込んじまったらおめぇの身体、どうなっかわかんねぇぞ」
獰猛な笑顔で波論が大地に降り立つ。
「そりゃ怖い。空想実現——」
波論が大地に降り立つも、柊は浮遊したままだ。
そのまま真下の大地に向かって一〇門の砲台を創り出した。そこに術水の弾丸を装填する。
「面白ぇ。来てみろ」
「撃て」
柊の合図を受け、一〇門の砲台が一斉に火を噴く。
射出された蒼白きオーラの弾丸が鋭く大地に突き刺さり、その余波だけで周りの緑もまとめて大地を抉る。
抉られた大地のど真ん中にいた波論が忽ち爆風に巻き込まれた。
その数瞬後だ。
「ん?」
柊が言葉を漏らした。
違和感を覚え、柊は自身の首元へ手を持っていく。そこへ手を触れた瞬間、首の肌がジュグジュグッと溶け落ちた。
「これは……毒か?」
溶け落ちた首筋に触れた手に、溶け落ちた首の肌がへばりつく。その手もまた肌が溶け始めた。
柊は周囲を見張るが、波論の姿はどこにもない。まだ、あの抉れた大地に立つ黒煙の中にいるはずだが、しかし柊の肌を溶かすのは明らかに奴の毒であろう。
「甘ぇんだよなぁ。まるで術水の性質ってやつを理解してねぇ」
黒煙の中から波論が、空中に浮遊する柊に対して話しかける。
「たかたが一〇発の弾丸くれぇ腐らせんのは造作もねぇ。その首と手の肌、そう簡単には戻んねぇぜ。俺の毒ぁ、肌に一滴落ちれば骨の髄まで腐らせるぞ」
柊の一〇発の弾丸、その余波まで余すことなくその一身にぶち込まれたはずだが、波論の身体は愚か、彼の身に纏うツギハギの服にすら破れた痕跡などは見受けられない。
波論本人が言う様に、着弾の瞬間に自身の毒で弾丸を腐らせたのだろう。柊の空想実現によって創られた、可能性の弾丸を。
「やっぱり熟練の忌み子は力桁が違うな。だけど、侮ってるんならそれは間違いだよ」
「最後まで舐めといてやるよ。甘ぇままのおめぇじゃ隙の一つ突けやしねぇ」
波論が地面にめり込むほど屈伸し、そのバネを使って跳躍した。ものの数瞬で、相当な高さにいた柊の足元まで迫る。
(堕雨の夢境で発揮した様なあの力を意図的に発生させることができればなぁ。それにしてもこいつの毒、さっきは一体どうやって俺の元まで到達させた?)
跳躍した勢いのまま真っ直ぐに、波論は爪を突き出した。それを手で弾くことで受け流し、柊が即座に術水の太刀を握った。
続けざまに波論が蹴りを放つ。
迫る蹴りに対して柊が術水の太刀を構えた。
(腐ったら腐った後で考えよう。試してみるか)
放たれた蹴りと術水の太刀の剣閃が真っ向から衝突する。発生した余波が大気を揺るがすほどの衝突だが、互いの力が拮抗し、波論の脚と柊の刃が花火を散らしながら鎬を削る。
もう一撃。
蹴りと刃が拮抗する最中、柊の顔面目掛けて波論が爪を振るった。
「うおっと」
躱そうと咄嗟に頭を引っ込めるも僅かに掠め、柊の頭部に三本の爪痕が刻まれる。
目にも止まらぬほどの速度で振るわれた爪の威力は凄まじく、削られた柊の頭部から滝が流れるように多量の血飛沫が弧を描いた。
「脚のほうはお粗末だねっ!」
だがそれと同時に、波論の脚が膝下で両断された。
「おめぇにはマイナスになるぜ」
両断された脚の断面から波論の血がドクドクと流れ出した。だが、その血は空気に触れた瞬間、吹かれたかのように霧散した。
「毒は君の血か」
「種明かしなんざいらねぇだろうよ」
霧散した毒は瞬く間に柊と波論の二人を包み込む。辺り一面が紫に染まり、柊の全身が容赦なく波論の毒に侵された。
「しのごの言う前に死ぬぜ、猛毒に侵されてな」
「君自身は毒の影響がないんだね」
全身に猛毒に浴びながら柊が言う。まるで、この猛毒の性質を覗き、暴こうとせんが如く。
「破毒律。俺の権能だが、おめぇも習得すりゃ毒は効かねぇ」
「権能なら習得できないだろーがよ。嫌味か?」
「さぁな。権利ってのは奪い合うもんだぜ」
波論が自身の権能を誇示するかの様に、口から毒を吸い始める。
確かに何か影響がある様には見えないが、その権能が如何にして波論に働きかけているのかまでは見えない。探る必要があるだろう。
一方で猛毒を全身に浴びる柊の皮膚が、服を着ている箇所ならば服ごと溶け始めた。一部では既に骨まで到達しており、瞬く間にその骨までも火を当てた紙切れの如く溶け落ちてゆく。
「空想実現——」
「おっと、やらせねぇぜ」
空中を蹴り、波論が飛び出した。猛毒を噴出する毒麟芽爪が突き出されるも、それを柊は寸前で交わした。
猛毒の霧の尾を引く爪撃がその後一撃、一〇撃、二〇撃と次々と繰り出される。
その一撃一撃が大気を揺るがすほどの威力を誇り、柊の付け入る隙がないほど速度も速い。
術水の壁で大気を揺るがす爪撃を受け流し、あるいは間合いを離して躱すも、そこに自身の攻撃を挟むことが出来ない。迂闊に動けば、柊の溶けている身体では脆く崩れ去るのは道理だ。
(まず身体と毒をなんとかしないとな……)
「そんだけの毒を浴びてまだ原型を保ってられるたぁ、大したもんだ。だが時間の問題だろうがな。可能性を実現する力ってやつで、早ぇとこなんとかしてみねぇと死ぬぜ」
そう言いながら波論が爪撃を繰り出す。
それを術水の壁で受け流した柊は、瞬間、肉薄した波論の腹部に《顕現印》を描いた。
「【体内を覗く可能性】」
(可能性の剣である術水の太刀を腐らせるほどの猛毒。概念的に波論に働きかけるのなら俺に再現する事はできないけど、体内の構造にその権能の秘密があるのなら——)
時間にして一秒にも満たないが、柊は可能性を実現した両目で波論の体内を隅々まで覗く。
「邪魔くせぇ」
毒麟芽爪が横一閃に空を薙ぐ。
柊の身体に波論の五本指の爪が食い込み、そのまま断裂した。だが直後、波論は頭上へ視線を向ける。
「手応えがねぇな。過去と未来を行き来出来るわけだ」
波論が裂いたのは、《顕現印》によって過去のものとなった柊の残像だ。一秒にも満たないが、僅かに過去の柊の実体化が早く行われ、現在の柊は既に飛翔していた。
「どうだ、絡繰は解けたか?」
頭上の柊に向かって波論が問う。
溶け落ちゆく身体を意に介さず、柊は笑みをたたえた。
「半分くらいかな」
第三章にして、一筋縄では行かなそうな戦いの予感……