第89話 動揺
都合上、本日は23時の投稿となります。
賢術師たちの所属する三つの機関を統括する本部、帝郭殿。
先日の七夢の堕雨討伐作戦後に柊と話した本部指揮長官、風原楓真がとある大広間を訪れた。
厳かな黒の模様が四方の壁、床と天井に装飾され、入室した者を視覚的に混乱させている。
「隠したる黒き奇跡の箱舟に、汝と汝は踏征する」
大広間の中央で目を閉じながら楓真がそう言った。
すると、楓真の四方八方の壁や床に術印が展開され、次の瞬間、楓真の姿が消えた。
「……来られたか」
気がつけば、楓真の身は別の場所にあった。
楓真は足元を見る。見渡す限り濁った湖が広がり、そこにたった一直線の木造の道があった。
大人がギリギリ二人通れるか否か程の狭い道を、楓真は進む。
時々曲がり角があり、なかなか終わりが見えない。たった一直線を進んでいるだけなのに回廊で迷った、そんな感覚が楓真を襲う。
だが、この回廊は、終わりがあると信じることで真に深奥へと辿り着けることを、楓真はよく知っている。
やがて、景色に変化が起きた。
「ご無沙汰しております、千韻左座」
その道に終わりが見えると、楓真はそこで跪き、挨拶をする。彼の目の前では道が途絶えており、その先の濁った湖の真ん中に、何かが浮いていた。
それは数人は乗れる程度の大きさの箱舟だ。
なんの変哲もない箱舟に、一人の男が座していた。
「機の奇跡を……うぬがか。待て……久方ぶりに体力を……消耗したに過ぎない」
途切れ途切れの言葉だが、決して息切れなどではない。そう言う口調なのだ。
本部帝郭殿、主帝直轄上層部で主帝を除く第一権力者。『左座』の位階を賜っている彼の名は、千韻廻途。
漆黒と灰銀の外套で静かに身を包み、スリムな制服を着ている胸元には、楓真のものと同じ紋章が淡く輝いていた。
「お待ち申し上げます」
跪いたまま楓真がそう告げると、廻途は箱舟いっぱいに身体を倒し、横たわる。
「話せ。奇跡をうぬが受けたのなら……機もうぬの……希望を聞かなければいけないね」
『機』と言うのは千韻廻途の一人称だ。
千韻廻途は、万人は個々の所属する組織の中でそれを動かす歯車であると言う思想を持っており、故に自身は機械や機構であると言う戒めを込めて、自身を機と呼ぶのだそうだ。
「……教えていただきたいことがあります」
余程の緊張か、楓真の言葉がぎこちない。それを聞き、僅かに首を動かした廻途が口を開いた。
「……動揺……しているな。絞頸されているが如き……搾り出したかのような……声だ」
廻途に見抜かれたと言わんばかりに、楓真は両肩を震わせた。
「い、いいえ……そんなことは」
「雑念を含むのならば……奇跡は舞い降りないね……もう一度だけ、言い直すがいいさ」
廻途の横たわる箱舟が僅かに浮き沈みし、それまで一切の動きもなかった湖の水面が靡いている。
楓真の額をスーッと汗が伝った。
「教えていただきたい事がございます」
先ほどとは違って堂々とした態度をなんとか演じながら、楓真がもう一度口にした。
「……いいだろう……問うが良いさ」
一、二呼吸を深く行い、楓真が問うた。
「上層部の要人方は一体、何を隠しておられるのですか」
楓真の問いの後、時間にして凡そ五分に及ぶ沈黙が訪れた。その沈黙の中で息をする程、楓真の額を伝う汗の量は増してゆく。
身を引き裂かんとするほどの緊張感が、跪く楓真を縛るのだ。
五分の沈黙の後、楓真の目の前の湖に術水が溢れ出した。それは言うまでもなく、箱舟で横たわる千韻廻途の術水だ。
「……生半可な覚悟で……問うてはおらんね?うぬの覚悟が半端だと言うのなら……たとえ機の奇跡とて味方はしないよ」
「死すらこの身には緩いと重んじております」
自らの命を差し出す覚悟を示すかの如く、楓真は一際力強く主張した。
「……動揺が隠しきれていないね……だが、うわべだけの覚悟でも……無価値とは言わない」
そう言うと、廻途は身体を起こし、真っ直ぐに楓真の顔を見た。
「深層心理は隠しきれないね……うぬの技量ではまだ。うぬには……奇跡を授けよう」
廻途は明後日の方向へ手を伸ばす。
そして指先で何もない虚空をなぞる様に、楓真のいる方へ指を動かした。それに連動する様に楓真の目の前に、とあるものが静かに舞い降りた。
「あとは……うぬ次第だね……」
楓真の目の前のそれは、ミニサイズの箱舟だ。
その箱舟には、黄金の光を放つ球体が乗せられていた。楓真が黄金の球体に手を翳す。
「この身には余るほどの喜びでございます」
言うのと同時に、楓真が手を翳した黄金の球体が輝きを放った。
その輝きは楓真の全身を照らした。それは、廻途の権能が働く奇跡の光だ。
仄暗く辺りが見えない湖の上、跪く楓真の前で、文字通り奇跡が起こった——。
***
『万』学長室。
忌み子、篤馬波論が言葉を続ける。
「忌み子を宿した母胎は普通、胎内の忌み子から溢れ出す力に耐えられねぇ。どれだけ胎が強靭だとしてもだ。胎内で既に完全体になってたんなら尚更、産む前に溢れ出るあまりの力に母胎は忽ち崩壊するだろうよ」
「どれだけ胎が強靭でも?」
「あぁ。どんなに強靭だとしても、真っ先にそれ自体を蝕み壊すのが胎内の忌み子の力だ。なにせ、俺ら忌み子は世界から拒絶された存在だ。そりゃ無理もねぇだろうよ」
波論の言葉に、柊が僅かに首を傾げた。
「忌み子は、拒絶されたのに産まれたから忌み子なのか、それとも胎内に宿った時点で忌み子と判断されたら産まれにくいのか。どっちなんだろうね?」
ふと気になった時言った風に柊が呟いた。
んー、と捻り声を上げたあと、波論は吐き捨てる。
「めんどくせぇ理屈は好かねぇ。とりあえず寿命がなくて、途轍もねぇ力を持ってやがるバケモンは、どんな御託を並べようと忌み子だ」
その解釈は間違っていないだろうが、柊は疑問を払拭出来ずにいた。それを表情に貼り付けたままでいると、見かねた波論が溜息混じりに口を開いた。
「気になんならおめぇの出生でも調べてみな。なんかわかるかもしれねぇ」
「やっぱり忌み子として生きてきた年数が多い分、君の方が知識もあるね。そうだ」
柊がとある提案を持ちかける。
「俺と協定を組まない?君らの事情は大体把握したけど、実は先月から本部への疑問が払拭出来ずにいたんだ」
ふんっと柊を一瞥し、波論は嘲笑するかのような微笑みを浮かべた。
「悪ぃが俺は、君主にしか従わねぇ。協定組みてぇって言うんなら俺に力を示してみろ、忌み子の小僧。完全体だって言うんなら証明がてら、俺を使役してみろ。その後で考えてやるよ」
威圧的な言動だが、それに怯まず柊は頷いた。
有無も言わぬ柊の毅然とした態度に、波論が獰猛な牙を覗かせた。
「くっはは、決まりだな」
「ちなみに前に従えてた君主がいたら教えてよ。それを越えられるなら——」
「おめぇに越えられるほどやわじゃねぇ。虎殿のジジイが最初にして最後の君主だと確信してんだ。それをおめぇに覆せんのか?」
「わおっ」
食い気味に波論の口から出た名に、柊が目を見開いた。虎殿主帝を超えるとなれば並大抵のことではないことは柊自身もよく理解している。
「完全体の忌み子。殺す気で来いや。俺もそうしてやっからよ」
波論の身体から唯ならぬ気が溢れ出る。
それは殺気だ。
「覆してやるよ。そうすれば君は俺の犬だ」
「二〇年そこらの小僧がナマ言いやがる」
両者が全身から術水を放出する。
「え、ここで始めるのかね……」
静観していた哲夫が危機を察知し、学長室の端へ身を退いた。既に戦闘体制の二人に、哲夫の声は届かないだろう。
一方は蒼白き透き通った術水。
もう一方が右手を中心に放つ術水は、黒緑のオーラを帯びていた。放出された術水が漂い、学長室を静かに揺るがしている。
「合図は無しな」
彼の言葉と同時に、波論の右手の毒麟芽爪がギロリとした不気味な煌めきを放つ。
「火蓋は切ったぞ」
不気味な黒の閃光が迸る。
瞬間、学長室の四方の壁が真っ二つに切り裂かれた。その余波で学長室周辺の校舎が跡形もなく吹き飛ばされた。
「ひゅー、怖い怖い。外でやり合おうよ。いい場所を知ってるんだ」
「待ちやがれ」
学長は身を屈めて先ほどの爪撃を躱したようだ。四方の壁が跡形もなく吹き飛ばされ、周辺の校舎は斜陽に照らされた。
「だからあれほど言ったというのに……」
学府の消滅を危惧して学府の裏側へ回る柊を追い、波論はとっくに姿を消している。
天井の吹き抜けた学長室を見て、哲夫は溜息を吐くのだった。
忌み子たちが話す中、本部でも進む不安な雰囲気——




