第26話 終わる日常
殺伐とした雰囲気と、血の匂いが充満した家の中。
彩花は、表情を無くしていた。
陥没しているのか目は黒く染まり、どこに焦点を当てているのかもわからない。
手に持った血のついた柳刃包丁を見て、俺は思わず後ずさる。
彩花が、その手で母と父を刺し殺した——!?
「彩花……?」
「おに……い……ちゃん」
彩花はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「……来るな」
いつも俺が腕の中に招き入れていたのは、あの屈託もない純粋無垢な笑顔を見せてくれる彩花だったはずだ。
だが、俺は今、妹を拒絶している。
なぜ、こうなった?
なぜ、幼稚園児に両親を殺すことが出来た?なぜ、俺の命を狙う……?
「オ……にい…………チゃん?」
血塗れの柳刃包丁を逆手に構え、彩花が一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。俺は思わず背を向けて駆け出した。
玄関で靴も履かず、外へと出る。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!」
後方から、彩花の狂ったかの様な笑い声が聞こえる。今まで聞いた幸せそうな笑い声じゃない。逃げる俺を嘲笑うかのような、悍ましい笑い声だ。
外にいた周りの住人が、裸足で走る俺と、血塗れの柳刃包丁を持った女の子を見る。
だが、死に物狂いで走り逃げていた俺にそんなことを気にしている余裕はなかった。
誰か助けて——そんなことを思うが、これで俺がそこらの住民の方へ行けば、彩花はもしかすれば関係もない人を刺すかも知れない。
「アヒャヒャヒャヒャッ!マッテーッ!!」
しばらく逃げるが、なおも彩花はそのスピードを緩めない。必死に空気を取り込んで走り続けても、まるで逃げられる気配がない。
無理に呼吸をし過ぎて脇腹が痛い。
やがて人気のない路地まで逃げてきたが、そろそろ限界だ。裸足で外を走ったため、足の裏に鋭利な小石などが刺さって痛みがある。
そんな俺の元に、彩花は無情にも駆けつけた。
そのまま、柳刃包丁を逆手に俺に襲いかかった。俺は飛びついてきた彩花を受け止める。仰向けになった俺の腹に馬乗りになり、柳刃包丁を振り下ろす彩花。
「はぁっ……いつもの……彩花に戻ってくれ!!」
切れた息を整えながら訴えかける様に言う。
だが、彩花は逆手に振り下ろした柳刃包丁を押し込み続ける。
振り下ろされた柳刃包丁を両手で押さえる。油断したら即座に腹を突き刺すだろう。それほど、柳刃包丁の刃先が俺の腹部に接近していた。
「ナンデッ!!ナンデェェェェェェッ!!!」
激昂するその修羅の如き相好に、もはや、彩花の面影は一ミリもない。今のこいつは、ただ俺を殺すためにただ刃を振い続ける化け物だ。
この小柄な体のどこから、こんな力が出るというのか。俺の力ではもはや押し返せないほど、こいつの力は強かった。
(やめてくれ……やめてくれ……!!)
「やめてくれっ!!」
俺の声はこいつにはもう届かない。
そうこうしている間に刃先が俺の腹部に突き刺さった。
「うぐっ…………」
痛い。
声が喉でつっかえる。
俺は、妹に殺されて人生を終えるのか?俺がここで殺されたら、こいつはどうする?
俺がここでどうにかしなきゃ、こいつは表に出て住民を殺すだろう。
「……彩花っ!元に戻れ!!うっ……」
力が入らなくなってきた。刃先がさらに奥に刺さり込み、視界が歪むような感覚がした。それでも今出せるありったけの力を腕に込め、刃を押し返す。
力を入れると腹部に激痛が走る。
苦しい、痛い。内臓を焼かれているかの様な、まるで感じたことのない未曾有の激痛が襲った。
一度押し返した刃だが、またすぐに彩花は俺の腹部に突き刺した。ついに腕に力を込められなくなった。
瞬間、彩花は柳刃包丁で俺の体を貫いた。俺を地面と串刺しにした。地面にも刺さるほどの怪力を前に、俺はなす術がなかった。
朦朧とする意識。
「彩花…………さい……」
ボヤけた視界はやがて暗く染まっていき、やがて完全に没した。その場で、俺は意識を手放したのだ。
***
「———いは?あー、なるほどね」
知らない声に、俺は起きる。
「お、起きたね。江東稔くん」
名前を呼ばれる。俺は目を開き、周囲を見渡した。見知らぬ場所、俺に話しかける見知らぬ誰か。
「……ここは?」
「ここは賢術の学府。って言っても、覚えてないか」
俺は確か、彩花に刺されて……?
殺されてはいなかったのか?状況が飲み込めない。
「俺は柊波瑠明。具合悪くない?大丈夫?」
「波瑠明、目覚めて早々色々喋りすぎだ」
柊さんの後ろで椅子に座っていたもう一人の男の人が言った。
「あの人は枢木迦流堕。これから君の先生になる人だよ」
「まだ入学が決まったわけではないだろう。ほら見ろ、江東くんも困っている」
「いや、俺はその……」
柊さんは、俺が気を失った後のことを細かく説明してくれた。
俺は彩花に危うく刺殺されそうになったところを、柊さんと枢木さんに助けてもらった。
どうやら彩花は、魔術骸と呼ばれる化け物に身体を乗っ取られており、俺や両親に襲い掛かったのだと言う。
「そうだ……彩花は、彩花はどうしましたか?」
俺がそう問うと、二人は表情を曇らせた。
まさか、と思いつつ俺はもう一度問う。
「彩花は……?」
「……」
彩花は、魔術骸に身体を乗っ取られる前から既に殺されていたと言う。死んだ彩花の皮を被った魔術骸が、俺を襲ったのだと伝えられた。
柊さんと枢木さんも、魔術骸だけ摘出して彩花を救おうとしてくれたみたいだが、殺されてからあまりにも時間が経っていたため、救うに救えなかった。
——俺は腹の底から、抑え切れなそうな怒りが込み上げてくる感覚を覚えた。
「ごめんね、稔くん」
柊さんがそう言った後、俺に向かって頭を下げた。それに続いて、後ろの枢木さんも。
「……」
無論、彩花を救おうとしてくれた二人に怒りを覚えているわけではない。むしろ感謝している。最後まで彩花を救おうとしてくれたことに対して。
怒りを覚えているのは他でもなく。
「柊さん。俺、この先何をしていけばいいんでしょうか……家族を失って、何も出来ずに——」
「復讐したいって、思わない?」
唐突に柊さんがそんなことを言った。俺は言葉を切って、真っ直ぐに柊さんを見つめる。
「……復讐?」
「そう。稔くん次第だけどね。俺や枢木についてきてくれるなら、その復讐だってきっと果たせる」
「……どうすればいいんですか」
復讐。
俺に残された道は、もうこれしかないのか。
いいや。両親を殺し、無惨にも殺された俺の妹の身体を好き勝手に弄んだやつらを、ぶっ殺すことができるのなら——。
「改めて紹介するよ。ここは賢術の学府『万』。魔術骸に対抗できる人間を育成すべく国が設立した機関。君にはここに入学してもらって、賢術師としての道を歩んでもらうことになる」
賢術師?どこか聞き覚えがある。
よくわからないが、ここに入学すれば復讐が果たせると言うことか。
「そして君は幸い、適正の赤子として生まれてきた人間。覚えてるかい?君には、賢術師としての適性があるんだ」
「俺に……ですか?」
「そう。記録にも残っている。二月八日一九時二〇分、江東孝介と江東紗香の間に適正の赤子として生まれた刻み入りの人間、それが君、江東稔と言う人間なんだよ」
なんだかよく分からないが、柊さんの言っていることが本当なら、ここは俺にとって持ってこいの場所じゃないか。
奴らをぶっ殺すために、俺はここに入学するべきなのだろう。そう思った瞬間、俺は考える脳に反して、本能的に口を開いていた。
「入学したいです。柊さん、枢木さん」
「覚悟の決まった、いい目をしている。波瑠明、彼の入学にわたしは賛成だが」
「俺が誘ったんだよ?否定する理由なんてない」
***
俺の幸せな日常は、ある日突然、魔術骸という怪物によってぶち壊された。
もう、俺には家族とのひと時なんて一生訪れない。俺の幸せな人生を、日常をぶち壊しにした奴らを、俺は許さない。全ての魔術骸を殺すまで、俺は諦めるわけにはいかない。
そう思って、俺は死に際にも必死に打開策を探して、窮地を何度も乗り越えてきた。
しかし、この生き物を目の前にした時、咄嗟に思った。戻ってきてくれたんだ、と。
三年前の記憶が頭をよぎった瞬間、俺は無意識に涙を流していた——。
懐古する悲劇の記憶。
謎の魔術骸、産女と相対した稔の心中は——