08 マレンゴの戦い
……戦いは夕方までつづいた。
しかし、オーストリア軍三万一千に比して、フランス軍は二万三千。
どうあがいてもフランスには不利で、実際、午後二時頃にはマレンゴの村はオーストリア軍に占領されてしまう。
「後退せよ!」
しかたなく、フランス軍は三キロほど後退した。
衆寡敵せずとは、よく言ったものだ。
ナポレオンは歯がみした。
これでは、先年のカスティリオーネの戦いの逆だ。
あの時は、オーストリアのヴルムザーを、フランスのナポレオンが数の利を生かして攻め立てた。
「見ろ。思い知ったか」
オーストリアの指揮官、ミヒャエル・フォン・メラスもそれは同様で、彼はカスティリオーネのあだを討ったと――勝ったと、彼はこの時、帝都ウィーンへ勝利の報告を送ったほどだった。
……かくして、戦闘自体は午後五時までつづいていた。
ナポレオンは、今や死地に立たされていた。
このまま負けるか。
あるいは、やぶれかぶれの突撃を決めるか。
この時のフランス将校のうち、ミュラは後者となったら死ぬかと考えていたが、ランヌはまだ手はあるはずだと思っていた。
「なぜナポレオンはじりじり下がるばかりで、それ以外の動きをしないのか」
それがランヌの疑念の理由だった。
*
午後五時。
ついに、ナポレオンからの参謀将校は、リヴァルタという地に至った。
この地には、ナポレオンの本隊から離れたブーデ師団がいた。
この時、ブーデ師団は問題ではない。
そのブーデ師団と共に、ドゼーがいたことである。
「確かに、右の方――マレンゴから、砲声が聞こえる」
そう言った瞬間、ドゼーは右方への進軍を命じた。
暮れなずむ夕日。
灼熱の太陽は沈みつつあり、イタリアの乾いた大地は、暗くなりつつあった。
それでもドゼーは駆けた。
ブーデ師団も共にかけ、その兵、総勢五千。
「急げ!」
マレンゴ村が見えてくる。
村は、すでにオーストリア軍に占領されたらしく、黒に黄の二色旗が。
「三色旗は?」
ドゼーが戦場をうかがうと、三色旗――フランス軍は息絶え絶えと、退きつつあった。
追いついたブーデが、負けた、と言った。
夕日はすでに、その姿を隠そうとしている。
つまり、夜。
つまり、戦闘続行は不可能。
負けだ。
ブーデはそう言った。
「いや」
ドゼーは麾下三個連隊に突撃を命じた。
ブーデはうめいた。
ばかな、と。
しかしドゼーは叫んだ。
「まだ戦って、勝利する時間は残っている!」
戦場遥か向こうにいる、ナポレオンに届くように。
*
オーストリア軍指揮官、メラスは、信じられないものを見た。
少し前まで勝利をその手につかんでいた。
勝っていた。
そのはずなのに。
「何だ、あの黒髪の恐ろしい男は!」
ドゼー率いる三個連隊は、信じがたいことにオーストリア軍の最も分厚い、正面中央を狙った。
そのまま、錐を揉みこむように、三個連隊が三万一千のオーストリア軍を突破していく。
ぐいぐい、ぐいぐいと。
「今がその時だ!」
その台詞は、誰のものかわからない。
ナポレオンか、あるいは、彼に命じられ突撃したケレルマン准将か。
いずれにしろ、ケレルマン率いる重騎兵旅団は、この時――ドゼーの中央突破と同時に、オーストリア軍背後からの騎兵突撃を敢行し、オーストリア軍は一瞬で擲弾兵大隊を三個失ってしまう。
「ばかな!」
この瞬間、メラス率いるオーストリア軍は前後から挟撃により分断される。
そしてこの機をのがすナポレオンではなかった。
「全軍突撃!」
ドゼーとケレルマンが作った穴にフランス軍は集中攻撃をしかけ、オーストリア軍は敗走した。
*
勝った。
ドゼーが、そう思った瞬間だった。
胸の中心を、何か熱いものが通り抜けた。
通り抜ける瞬間、熱いものは躰を溶岩のように熱くする。
その一部は、口の中から、外へ出てきた。
「ドゼー!」
いつの間にやって来たのだろう。
ナポレオン・ボナパルトが、その葦毛の愛馬を駆って、近くまで来ていた。
どうやら、撃たれたらしい。
「ドゼー!」
「……不覚を取った」
勝った瞬間こそ、狙われて当然。
ドゼー――ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー・ド・ヴェグーは騎士であった頃に学んだ武の心得を失念していたことを認めた。
「ドゼー」
倒れ伏すドゼーを、ナポレオンはその胸に掻き抱く。
「ドゼー、君は……」
「いいんだ、ボナパルト」
私は、わかったと言ったのだから。
そういう、声なき声が、ナポレオンに聞こえた。
どうしてそこまで、とは問わなかった。
倨傲なナポレオンであるが、謹厳なドゼーとは、相通ずるものがあった。
それはなぜか。
こいつなら、やる。
そういう感覚があった。
それだけだ。
それだけだったが、それはドゼーだけに感じた。
「私もだよ」
そう言った気がした。
というのも、もうドゼーの目は、輝きを失っていた。
もしかして。
彼は。
「そのひとことだけを伝えたかったのかもしれない」
すでに駆けつけたミュラはその言葉を聞いたが、何を意味しているのかわからなかった。
次にやって来たランヌがすぐに十字を切ったので、彼も急いで、それにならったためだ。
だからその言葉はすぐに忘れられた。
だがナポレオンは忘れることはなかった。
なぜなら、彼の愛馬はこの時からこう名づけられたから。
マレンゴ、と。
……あるいはそれは、友の墓標代わりだったのかもしれない。
【了】




