第二十五章 終わりの光景
半年が過ぎた。
芝山溶接工房は、地域の小さな配管修理屋として、ぼちぼち軌道に乗り始めていた。
近所の町工場、古い住宅、農家の井戸ポンプ、そんな仕事が口コミで舞い込んできた。
大きな儲けにはならない。
でも毎月、家賃と食費と健太郎の給料を払って、それで十分だった。
健太郎は想像していたより、ずっと筋がよかった。
最初の三ヶ月で、被覆アーク溶接の基本を習得した。
次の三ヶ月で、TIG溶接の初歩に入った。
俺は毎日、彼に現場を見せた。
手元を見せた。
手順を説明した。
数値の意味を教えた。
彼はよく、ノートを取った。
ある日の午後、俺は健太郎を、近所の老舗の機械工場の現場に連れて行った。
依頼は、十年前に別の業者が施工した、油圧配管の補修。
継ぎ目から、微量の漏れが出ている。
俺は健太郎に、まず現状を確認させた。
彼はしばらく、配管を観察していた。
それから首を傾げた。
「親方。これ、外側からビードを被せれば、止まるんじゃないですか」
「そうだな。一時的には止まる」
「一時的、ですか」
「そう。でも内側が、どうなってるか分からない」
「内側」
「ああ。たぶん内側がもう酸化で痩せてる。表面だけ塞いでも、母材がどんどん薄くなってる」
俺は健太郎の肩を、軽く叩いた。
「正攻法はこうだ。一度配管を切断する。内側を確認する。痩せていたらその区間だけ、新しい材料に置き換える。継ぎ目を開先取りして、内側に滑らかな裏波を打つ。それから外側を仕上げる」
「時間、かかりますね」
「ああ。三日はかかる」
「予算、合いますかね」
俺は笑った。
「それは社長と相談だ」
工場の社長は、五十代の寡黙な男だった。
俺の説明を最後まで聞いた。
それから頷いた。
「芝山さん。やってください」
「予算、結構かかりますよ」
「いいです。父の代からある工場です。あと三十年は使いたい」
俺は頷いた。
三日かけて、補修を終えた。
最終日の夕方、健太郎が初めて、配管の内側にビードを打った。
俺は隣で見守っていた。
彼の手は震えていた。
ビードは滑らかとは言えなかった。
まだ波模様にムラがあった。
現場規格で言えば、合格点ぎりぎり、というところ。
でも、彼は最後まで集中していた。
ビードが完成した時、健太郎はトーチを置いて、深く息を吐いた。
「……できた」
彼の顔は汗で濡れていた。
「親方、見てください」
「ああ」
俺は内視鏡で、内側を確認した。
まだ改善の余地はあった。
でも、初めての裏波としては悪くなかった。
「合格だ」
俺は頷いた。
「上等だ。よくやった」
「本当ですか」
「ああ」
健太郎はしばらく、その場で立ち尽くしていた。
それから両手で顔を覆った。
彼の肩が震えていた。
俺は何も言わなかった。
彼の、最初の裏波の、その重みを邪魔したくなかった。
仕事の片付けを終え、軽トラックで工房に戻る道。
健太郎は助手席でぽつりと呟いた。
「親方」
「ああ」
「これ、誰も見ないんですよね」
「内側、か」
「ええ」
俺はハンドルを握りながら、頷いた。
「見ない」
「俺、すごい綺麗なビードを打ったのに、見てもらえないんですね」
「ああ」
「それ、ちょっと、寂しいです」
「うん」
俺はしばらく無言で運転した。
夕暮れの街の灯が、次々と点いていく。
「健太郎」
「はい」
「内側のビードは、十年後に開けたとき、誰かが見るかもしれない」
「十年後」
「ああ。点検で内視鏡を入れる人がいる。その人はお前のビードを見て、何を思うだろう」
健太郎はしばらく考えていた。
「分かりません」
「俺は知ってる」
「何を」
「その人は絶対に、思うよ」
俺は運転を続けながら、ゆっくりと言った。
「『前にやった奴、いい仕事してたな』ってよ」
健太郎はしばらく無言だった。
それからふっと笑った。
「親方、それ、いい言葉ですね」
「俺の所長が言ってた言葉だ」
「所長」
「俺の現場の、上司だった人だ」
健太郎は頷いた。
「親方もいつか誰かに、そう思ってもらえる仕事をしてきたんですか」
「分からん」
俺は答えた。
「分からないけど、書き続けてる。日々の作業を、手帳に。そうしないと、自分の仕事を自分で信じられなくなる気がして」
「ああ」
「健太郎。お前も書け。手帳を書け。誰のためでもなく、自分の仕事を自分で信じるために」
健太郎は深く頷いた。
「はい、親方」
工房に戻った。
俺は健太郎を、先に二階の部屋に行かせた。
自分は一階の作業場の、机の前に座った。
古い革表紙の手帳を、机の上に出した。
爆発の日に、現場で泥にまみれたあの手帳。
今は引き出しの奥にしまってある、過去の記録。
俺はページをめくった。
最後の作業記録から、空白のはずだったページ。
いや。
あの見覚えのない筆跡が、確かにあった。
病院で目覚めた直後、涙ではっきり読めなかった、あの一行。
俺は手帳を、明かりの下に近づけた。
文字は丁寧な、流麗な女性の筆跡だった。
日本語ではなかった。
でも不思議に、意味が分かった。
『あなたの仕事を、私たちは、千年、覚えています』
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
夢じゃなかったんだな、と思った。
ヴェントーラの井戸ポンプ。
古代魔導機関。
聖剣の修復。
地下牢の夜の、ルクレイアの面会。
神殿での書類の整理。
グレイモール要塞の防衛。
世界の裏側の、二十メートルの裏波。
すべて、確かにあった。
俺は手帳を机の上に置いた。
しばらく両手で顔を覆っていた。
涙は出なかった。
ただ、深い深い安堵が、胸の奥に広がっていた。
窓の外、夕暮れの空。
地球の、ただ一つの月。
その下で、街の灯がゆっくりと輝いていた。
「ルクレイア様」
俺は誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「ありがとうございました」
風が窓を軽く揺らした。
夜の静かな風だった。
俺は立ち上がって、新しい手帳を開いた。
今日の作業を書き始めた。
日付。気温。湿度。健太郎の、初めての裏波の品質評価。
現場の社長の感想。
健太郎との、軽トラックでの会話。
それから最後に、ペンを止めて、こう書いた。
『健太郎、初の裏波。誰にも見えない場所で、世界を支える人間が、また一人、生まれた』
ペンを置いた。
立ち上がって、手帳を閉じた。
古い手帳の上に、新しい手帳を重ねて、引き出しにしまった。
階段を上がる、健太郎の足音が聞こえた。
二階で彼が、自分の手帳を開く気配がした。
俺は微笑んだ。
明日も現場がある。
誰にも見えない場所で、誰にも知られない仕事を続ける。
でも、それでいい。
俺は知っている。
誰にも見えない裏側こそ、世界を支えている。
そして誰かがいつか、必ずそれを見つけてくれる。
たとえ千年後だったとしても。
窓の外、月が静かに空に上がっていた。
俺は明かりを消し、二階の自分の部屋へ向かった。
明日の朝もいつものように、現場用の作業着に着替える。
工具袋を肩にかけ、軽トラックに機材を積む。
現場に向かい、トーチを握る。
いつもと同じ、誰にも見えない仕事を続ける。
俺のこれからのすべての毎日が、きっとそうやって繰り返されていく。
それで十分だった。
階段を上がる足を止めて、俺はもう一度振り返った。
工房の薄暗い作業場の、その奥に、自分の溶接機が二台、静かに置かれていた。
明日の出番を待っていた。
俺は頷いた。
「行ってきます」
誰もいない作業場に向かって、俺はそう言った。
風が窓を、もう一度揺らした。
遠くの誰かが囁いたような、温かい風だった。
(了)




