第201話 万化亭だけでなく、蒼蓉にも必要なもの
初日は追加の検査などで少し騒がしくはあったが、目覚めから一日以上が経過した今は静かなものだった。
申佑の部屋は万化亭の奥まった場所にあり、敷地外の声が届くことはない。
よほど派手な魔法や爆発物を使わない限りは路上の諍いすら音では気づくことができないだろう。そのため窓の外から聞こえるのは風の音くらいのものだ。
だが風の音が聞こえるからといって風通しが良いわけではない。
申佑は蒼蓉に責め立てられていた時に感じた風の感触を思い出す。
(意表を突くほどの強さはあったが、じつに清浄なものだった)
暗渠街を吹く風はどこか汚れている。
違法薬物や魔法により空気が汚染されている場所は特に顕著だ。
万化亭の存在する两百龍は申佑が若い頃に実施した対策のおかげで多少は『マシ』であり、それは今も維持されているようだったが、それでも好き好んで大きく深呼吸しようとは思わない。
しかし柚良が魔法で起こした風は――まるで表の世界で吹く風のようだった。
だからこそ驚いて静止したのだ。柚良も意図してのことだろう。
申佑も蒼蓉のように子供の頃は表の世界の常識と知識を学ぶために学校に通っていた。その時に感じた風にそっくりだ。
そう目を伏せ、もう一度開いた際に視界に入ったのは小型の冷風機だった。
これは柚良が薬を持ってきた際に追加で持参したものである。
氷の魔石を組み込んだ魔宝具の一種だという。
暗渠街も夏は暑いため、病み上がりとも言える申佑の体を気遣って作ったらしい。
そう、作ったのだ。柚良が個人で。この短期間で。
(薬もそうだった。彼女は当たり前のような顔をして様々な魔法と技術を駆使している。……さすが魔導師ユリアといったところか)
得手不得手はあるようだが、複数の属性を難なく使うという事前情報は間違ってはいなかったようだ。
そんな人間が一族に加わったのなら万化亭も更に盤石なものになるだろう。
ならば絶対に手放したくはない、と万化亭の大旦那としての顔を覗かせた申佑はすぐに眉を下げて指を組んだ。そして悩める迷い人のようにため息をつく。
彼女の存在は万化亭だけでなく、蒼蓉にも必要なものだ。
(むしろ――存在するだけで価値があると思える理由としては、こちらのほうが強いとさえ思う)
だというのに自分はどうだろう。申佑はそう視線を落とした。
意識は封印された瞬間から直接ベッドで目覚めた瞬間まで飛んでいるため、申佑の感覚では息子とはそう長く離れていたとは感じていない。
朝になって普段通り目覚めたら息子が数年分大きくなっていた、というような感じである。
だが封印前も親子らしい会話をしてこなかったせいか、今も自然なやり取りはできなかった。柚良に気を遣わせた原因でもある。
それを申佑は恥じていた。
しかし解消の手立ては思い浮かばない。——実際にはいくつかの手段は浮かぶが、不発に終わった時の目も当てられない惨状をクリアに予想できてしまうため二の足を踏み続けているのだ。
だがそんな前に進まない足踏みばかりしていて意味などあるものか。
そう申佑は口を引き結ぶ。
(この話は無言で流しても碌なことにならない、か)
あの時、柚良はハッキリとそう言った。
不躾とも呼べるほどの物言いだったが、申佑は以前から明朗で素直な話し方をする人間が嫌いではない。言葉の裏を読まなくても済むからである。
だからこそ自分も素直に受け止めようと思うことができたのだ。
あの娘ならどんな風に話すだろうか。
申佑がそんなことを考えたのと、部屋の扉をノックして本人が入ってきたのは数秒も間を開けずのことだった。
***
「先日はお薬を渡した後に時間を取れなかったんで、今日はゆっくりと話してみたいなぁと思いまして……体が辛くなければ宜しいですか?」
おずおずと問い掛けた柚良に申佑は少し迷った表情をしていた。
前回会ったのは目覚めた後に薬を届けた時だが、柚良は申佑向けに薬を微調整して調薬していたため遅い時間になってしまったのだ。
もちろん調薬は未だに不得手のため、何度も失敗したことで時間を食っていた。
そして寝る前には蒼蓉の愚痴を聞くつもりだったこと、そして早く休まなくては再び蒼蓉から雷が落ちる可能性があったことを考慮し――結果、渡した後に会話をする機会は得られなかったわけである。
今なら沢山話せるかもしれない。
そんな期待を込めたのだが申佑の態度は煮え切らない。
不器用なのは人嫌いだからかも? と柚良が大人しくここで退室するか迷い始めた時、やっと申佑が口を開いた。
「私としてはありがたいが、そちらは大丈夫なのか?」
「時間はたっぷりあるので大丈夫ですよ」
「いや、その、……私と話すことで蒼蓉に怒られはしないか」
申佑の質問の意図をようやく理解した柚良は、肩を揺らして明るく笑いながら先ほどと同じように「大丈夫ですよ~」と答える。
「無茶したら怒られますけど、お義父さんと話しに行ったくらいで怒られたりはしません。まぁ相手が焦榕さんで、行ったのが私ひとりとかだったら説教はされそうですけれど……」
「――焦榕は相変わらずということか」
申佑が現役だった頃の焦榕について柚良は知らないが、今と大差ない性格をしていたのかもしれない。
そう考えながら柚良は身を乗り出した。
「難しく考えなくていいですよ、まずはお義父さんの人となりを知りたいので。だからさっきみたいに焦榕さんの話や……昔の万化亭や暗渠街のことを教えてもらってもいいですか?」
「面白い話はできないが」
「ふふふ、ここは未知なることが多いのでどんな話でも大抵面白いです」
心配いりません、と柚良はドンッと胸を叩いてみせる。
再びしばらく沈黙した申佑だったが、それは初めよりも短い時間だった。
蒼蓉の緑色の瞳とは異なり青い瞳を柚良に向けて「わかった」と遠慮がちに頷く。
「……だが、退屈で仕方なくなったら遠慮なく言ってくれ。私は本当に」
話すことには向いていないから、と申佑は呟くように言った。




