浮世絵、襲来
※拙作『漫画、海を渡る』のネタバレを含みます。できれば同作を先にお読みください。
小説家になろう公式企画・秋の歴史、もとい秋の文芸展2026テーマは「旅」。
今回こちらの企画向けに、『漫画、海を渡る』という短編を投稿しました。
本エッセイはその作品についての解説、および執筆にあたって調べた蘊蓄を垂れ流していくものです。
さて、この「秋の文芸展」という企画。
文芸ジャンルなら何でもいいのですが、平井的には歴史一択です。
で、問題は何を題材にするかなのですが。
最初は素直に人主人公で考えていたのですが、これだ、という題材がなかなか思い浮かばず。
じゃあ、遠い国からやって来た、あるいは遠い国へ渡って行った物品が主人公というのはどうだろう、ということで思いついたのが浮世絵でした。
十九世紀のヨーロッパで紹介され、当時そしてその後の西洋美術史に多大な影響を与えた浮世絵。
それについて色々調べてみると、興味深いネタが山ほど出てきました。
まず、皆様は浮世絵が最初にヨーロッパに伝わった際陶磁器の包装に使われていたという話はご存じでしょうか。
私も以前何かで読んだことがありまして。
その時のイメージとしては、引っ越しの際に割れ物を新聞紙なんかで包むかんじですね。
しかし、実際のところはちょっと違っていたようです。
原宿にある浮世絵専門の美術館・太田記念美術館様の公式ブログ記事「浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。」(ttps://otakinen-museum.note.jp/n/n01248684801c)に、詳しい解説が載っています。
この記事にも引用されている、小山ブリジット著 高頭麻子・三宅京子訳『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』(平凡社刊)を最寄りの図書館で借りてきたので、少し長いですが全文引用してみましょう。
「また、年代記作家のレオンス・ベネディットによれば、ジャポニザンの一番手は、まちがいなく著名な版画家のブラックモンであるという。
一八五六年。この年号は確かなのだが、ブラックモンが月日まで確定できるかどうかは分からない。とにかく一八五六年のある晴れた朝、ブラックモンは版画の原板『家鴨たちが〔彼女を〕追い越していった』を携えて摺り師のドゥラートルのところへ出かけていった。そこで、運命のいたずらが、このデッサン画家、カラスやカササギや鵞鳥や家鴨の画家をたちまちのうちに日本への道に引き入れたのである。
実は、ドゥラートルのところでおしゃべりしているとき、ブラックモンは奇妙な綴じ方をされた赤い表紙の小さな本を見つけたのである。この本ははるか遠方から到来したものだった。柔らかで弾力的な材質だったため、日本の磁器製品の箱に仕切り材として入れられていたのだ。ブラックモンは、興味をそそられ、それをめくってみた。そして職人や曲芸師、子供、風景、昆虫、花などが、見事なまでに生き生きと表情豊かに描かれた、荒いタッチのデッサンに衝撃を受けた。「私にこれを譲ってくれ」とその場でドゥラートルに頼んだのだが、ドゥラートルは断った。だが一年か一年半ほどして、ブラックモンはその本が弟であるラヴィエイユの手に渡っているのを知った。(……)そしてついに彼はそれを手に入れたのである……。ブラックモンはすぐさま本をポケットにしまいこんで帰った。そしてずっと肌身離さず持ち続けたのである……。彼はその本を周囲の人に見せて回り、見せられた誰もが彼と同様に称賛の声をあげたのだった。」
(『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』P26~27より引用)
というわけで、一枚の浮世絵ではなく、冊子をバラしたものでもなく、一冊丸ごと、梱包時の仕切りとして差し込まれていたようです。
ただ、このベネディット氏の記述に対しては疑問も呈されています。
それがこちら。funaki_r様のnote記事「『北斎漫画』ブラックモン発見の通説」(ttps://note.com/riki_72/n/nc84169a1f3af)。
要点としては、先の引用文からは漏れていますが、ベネディットの文には「『日本に居住しているフランス人』によって送り出されたもの」との記述があるのだそうです。
しかし、ベネディットが自信満々に断定している1856年、そのさらに1~2年ほど前(あるいはそれ以上に前)となると、日本に在住のフランス人というのは想定しがたいのです。
日仏修好通商条約の締結が1858年で、それ以降なら横浜などの外国人居留地で暮らすフランス人というのもいたでしょうが、1856年だと無理筋です。
なので、仮にこの一件が事実だったとしても、実際にはもっと後のことだったのではないかというわけです。
しかし、その一方で、ブラックモンの作風に北斎の影響がみられるのはたしかに1856年頃まで遡れるのではないかという指摘もあるようです。
となると、整合性を取るには考え方は二つあるでしょう。
まず一つ目。
ブラックモンが北斎漫画を入手したというエピソードは1856年よりだいぶ後だった。
しかし、当時すでに日本の文化がヨーロッパで紹介され始めており(1820年代に来日したシーボルトが浮世絵などを持ち帰っています)、ブラックモンもすでにその影響を受けていたという説。
二つ目。
日本在住のフランス人というのが間違いで、長崎のオランダ人経由でヨーロッパに渡ったという説。
フランス人だというのは誤記、もしくは実際にブラックモンないし先に入手していたドゥラートルがそう信じていたから。
一つ目の方が妥当なような気もしますが、自信満々に断言しているベネディット氏に敬意を表し、拙作では二つ目の説を採用しました。
しかし、長崎からオランダへ、ということになると、何故そんなところに北斎漫画があったのかという点が問題です。
文化文政年間(1804~1830年)には江戸では読み本やら浮世絵やら様々な出版文化が花開いたとはいえ、それはあくまで江戸でだけ。全国の書店に一斉に本が並ぶなんてことはありません。
シーボルトのように日本の文物を収集していた人物もいたかもしれませんが、陶磁器の梱包に使った――つまり手元にはあったけれどあまり価値は認めていなかった、という状況ですからね。
拙作ではそこのところを、長崎奉行の赴任に伴って江戸から下って来た人間が持ち込んだという設定にしました。
時代劇では、抜け荷で私腹を肥やす悪役ポジにされがちな長崎奉行。
実は江戸時代のほとんどの時期において、複数人体制だったというのはご存じでしたでしょうか。
私は知りませんでした(笑)。
主人公の吾輩こと北斎漫画の元の買い主・草深氏(元ネタは『吾輩は猫である』の苦沙弥先生)は、1853年に長崎奉行に着任した水野筑後守忠徳の家臣という設定です。
水野は長崎に来航予定のペリーとの交渉役を任されていたのですが、ペリーは下田に来航したため空振り。その代わり、ロシアのプチャーチン相手に対応することになりました。
で、下吏の草深氏たちも大忙しとなり、彼は「吾輩」を手放すこととなります。
さて、ここで問題です。
作中の「吾輩」――ブラックモンが手にすることとなる北斎漫画は、第何編だったのでしょうか。
「北斎漫画」と一口に言っても、1814年に刊行された初編が人気を呼んでシリーズ化され、次々に続編が刊行されていきます。
北斎の死去と同年の1849年に刊行されたのが第十三編ですが、当然最新刊である第十三篇だったのかというと(そう断定している文献もあるようですが)、そうとも言い切れないのです。
ベネディットが記す、北斎漫画に描かれていたという「職人や曲芸師、子供、風景、昆虫、花など」。
浮世絵夜話(Ukiyo-e night story)というサイト(ttps://nanimokawaranai.com/hokusai-manga/)で北斎漫画各編の内容を確認できるのですが、これで見てみると、私の見落としでない限り、昆虫が描かれているとはっきり断言できるのは、初編だけなのです。
正直ちょっと意外でした。
動物や鳥は複数の編で描かれているのにね。
北斎先生、虫にはあまり興味がなかったのでしょうか。
というわけで、「吾輩」は1849年よりさらに後に増刷された初編、という設定です。
版木が擦り減ったら彫り直して刷に刷を重ねたというのは事実のようですが、さすがにその時期に初編がまだ刷られていたというのはちょっと無理があるか?
でも、ベネディットがそう書いてるんだもん。
ちなみに、北斎漫画の値段については、版元の永楽屋に残されていた記録では1冊銀2匁8分(金1両=銀60匁=銭4000文なので、約187文)で売られていたようですが、まあこれは初刷りの値段で版を重ねたら当然安くなるのではないかということで、吾輩殿は銀1匁と設定しました。
ともあれ、草深氏に売り払われて焼き物の梱包の詰め物にされてしまった吾輩殿。
本当は、たとえば湯呑みセットのように複数の焼き物を箱詰めした際の間仕切りみたいなイメージが正しいのでしょうが、作劇の都合上、箱に入れられた焼き物は一個だけということにし、伊万里焼の花瓶・伊万里御前が誕生しました。
ご自慢の“耳”(もちろん持ち手のことですよ)で船員や港の人たちの会話も拾い集め、いろいろ解説もしてくれる便利キャラです(笑)。
あらためて調べてみると、江戸時代の長崎からオランダ本国までの航路は、とんでもなく時間がかかるものだったようです。
風の都合で出航時期も限られており、長崎を出るのは一年の中でも11~12月頃のみ。
そして3ヶ月ほどかけてバタヴィア(現在のジャカルタ)へ。
そしてバタヴィアからアフリカ南端回りでオランダへ、7ヶ月ほどの航海となるのですが、これの出航も11月頃のみ。
つまり、バタヴィアで次の冬まで9ヶ月ほど待たないといけないのです。
さすがにそんなところで延々足止めをくらうのは作劇上都合が悪いので、まあ劇中の頃ならもうオランダ本国と東インド会社間の航路は蒸気船が行き来していただろう、ということにしました。
そうして辿り着いたオランダ・アムステルダム。
うさんくさいフランス人商人に買われた伊万里御前とそのおまけの吾輩殿は、花の都パリで摺り師兼版元のドゥラートルのものとなります。
そしてそこで吾輩殿は、版画家のブラックモンと運命的な出会いを果たすのです。
ブラックモンがジャポニズム(「日本趣味」と訳されます)の最初の紹介者、第一人者であったかという点には疑義もあるようですが、実際彼が北斎漫画に描かれた鳥や草花などの影響を受けた作品を描き、また交流の深かった印象派の画家たちに影響を与えたというのは事実です。
かくして吾輩殿は無事理解者と巡り会い、絵手本としての本懐を遂げたのでした。
めでたしめでたし。
ちなみに、本作のオチの部分は、こちらの動画にヒントをいただきました。
「【美術館ロケ】家長むぎと儒烏風亭らでんが名画鑑賞!深掘り対談も!?【#にじクイ 特別編】」(ttps://www.youtube.com/watch?v=Yq0l40IwPEg)
にじさんじ所属のVtuber家長むぎちゃんと、ホロライブ所属の儒烏風亭らでんちゃんによる、箱根にあるポーラ美術館の見学ロケなのですが、この中で、ルノワールが画家になる前は陶磁器の絵付けをしていたが機械化に伴って職を失った、ということが語られます(2:21あたりから)。
ん? それっていつ頃の話? と思って調べてみると、まさにこの時代のこと。
機械化によって職を失い画家に転職したルノワール。
機械化された絵付けのデザインを手掛けることで(当時はまだ珍しかったらしい)、ビジネスチャンスを掴んだブラックモン。
でも今日画家として名を残しているのはルノワール、という対比が非常に面白く思われ、オチに使わせていただきました。
この場を借りまして、むぎちゃんとらでんちゃんにお礼申し上げますm(_ _)m
まあ、彼女たちがこの駄文を目にすることは100%無いでしょうが。
で、ここからは完全に余談なのですが。
私、最近儒烏風亭らでんちゃんにハマっておりまして。
皆様は彼女のことをご存じでしたでしょうか。
Vtuber事務所最大手ホロライブ内のReGLOSSというユニットに所属しているらでんちゃん。
大変美術に造詣が深く、それ以外の分野でも非常に博識で、リアルで学芸員資格も取得していて、美術系の発信を積極的に行う、大注目の学術系Vtuberです(そういうカテゴリが本当にあるんです)。
デビュー当初は破天荒(型破り)キャラで行こうとしたら、周囲がぶっ飛んだキャラだらけだわ、根が真面目なことがバレてしまうわで迷走し、開き直って元々やりたかった美術系の発信に舵を切ったら、美術館とのコラボが次々に実現。
今や飛ぶ鳥を落とす勢いならぬ美術館公式HPのサーバーを落とす勢いで、本来の意味での破天荒キャラなどと呼ばれています。
(破天荒⇒唐の時代、荊州からは科挙合格者が出ず、「天荒の地」と呼ばれていたが、初めて合格者が現れ、天荒が破られたと皆喜んだことから、「今まで人がなし得なかったことを初めて行うこと」、「前人未到の境地を切り開くこと」の意。「型破り」の意味で用いるのは本来誤用)
単に美術系のネタを発信するだけでなく、美術品の保護活動などにも積極的に関わっている彼女に、是非皆様も注目してみてください。
参考にさせていただきました文献およびサイトの執筆者ならびに関係者各位に、この場をお借りしましてお礼申し上げます。




