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空の現場へ④

二日前。

 研究所の会議室には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。

 壁の大型モニターには、予想天気図と各種データが並んでいる。

 高気圧の張り出し。気温の上昇。湿度の推移。

 そして――風。

「前日、当日ともに、気圧配置は先日のケースと類似しています」

 優花が静かに説明する。

「気温も同程度まで上がる見込みです。地表温度も、日射条件から考えると近い値になるかと」

「湿度も、ほぼ同じレンジですね」

 井手が補足した。

 松岡が腕を組む。

「条件は揃っている。だが……」

 言葉を切る。

「再現性がない」

 誰も反論しなかった。

 志保が、少し身を乗り出す。

「でも、あの感じ……来るときは、分かると思います」

 その言葉に、玲奈が視線を向けた。

「分かる?」

「はい。あの風、軽くないです。流れるんじゃなくて、『落ちてくる』感じがある」

 志保は言葉を探しながらも、はっきりと言い切った。

 玲奈は一度、目を伏せた。

(感覚としては正しい……)

 だが、それを説明する言葉がない。

 優花が、静かに口を開く。

「類似条件は揃っています。ただ……発生確率を数値として出すことができません」

「時間帯の特定も難しいですね」

 松岡が続ける。

「日中の加熱がピークを迎える時間帯は怪しいですが、それも推定の域を出ません」

「海側の要因も決定打にはならないです」

 井手が言った。

 会議室に、沈黙が落ちた。

 誰もが分かっていた。

 ――条件は揃っている。

 ――だが、確信がない。

 玲奈は、ゆっくりと顔を上げた。

 モニターに映る天気図を見つめる。その奥に、現場の光景が重なる。

 倒れた看板。押しつけるような風。

 そして、志保の言葉。

 ――軽くない。

(もし、同じことが起きたら)

 人が集まる場所。ランナー。観客。設営物。最悪のイメージが、頭をよぎる。

(でも――)

 玲奈は唇を引き結んだ。

(説明ができない)

 しばらくの間、誰も口を開かなかった。

誰も動かない時間だけが、長く伸びた。

 玲奈は、ゆっくりと息を吸った。

 そして、吐く。

 その瞬間。

 ふと、玲美が抱き着いたときのぬくもりが蘇った。

(玲美のような子が、その場にいたら……)

 視線を、まっすぐ前に向けた。

「……明日」

 静かな声だった。だが、全員が顔を上げた。

「明日土曜日の気象条件が、今の予測のままなら」

 一度、言葉を区切る。

「イベント会社に、注意勧告を出します」

 空気が、わずかに張り詰めた。

「説明は、私がします。責任も、私が取ります」

 松岡がわずかに眉を動かす。井手が息を呑む。

 優花は、ただ静かに玲奈を見つめていた。

 志保が、小さく頷く。

 玲奈はさらに一歩踏み込んだ。

「これは、予測ではありません。判断です」

 言い切る。

 会議室が、完全に静まり返った。

 誰も反論しなかった。できなかった。

 数秒の沈黙の後――

「……分かりました」

 優花が、最初に口を開いた。

「条件の監視、継続します。現地の情報も、追います」

 志保が続く。

「風の変化、拾います」

「補助的なモデルも回してみます」

 松岡が言い、

「海側の変化も継続して見ます」

 井手が続いた。

 それぞれの役割が、自然に決まっていく。

 玲奈は小さく頷いた。

「お願いします」

 短く言う。それだけで十分だった。

 会議が終わり、メンバーが席を立つ。

 玲奈は一人、しばらくその場に残った。

 モニターには、変わらず穏やかな天気図が映っている。どこにも、危険は表示されていない。

(来るかもしれない)

 玲奈は、静かに目を閉じた。

 そして、開く。

 その視線は、もう迷っていなかった。


イベント開催前日、午後。

 アトモス気象研究所の小会議室で、モニター越しの打ち合わせが始まった。

 画面の向こうには、イベント運営会社の担当者と、現地責任者が映っている。背後には設営途中の会場。青空の下、テントや看板が整然と並んでいた。

「本日はお時間ありがとうございます。アトモス気象研究所の藤堂です」

 玲奈が、落ち着いた声で切り出す。

「今回の件ですが、結論から申し上げます。明日の気象条件において、局地的な突風が発生する可能性を否定できません」

 画面の向こうで、担当者がわずかに表情を曇らせた。

「……突風、ですか。しかし、予報では晴れとなっていますよね?」

「はい。広域的な予報としては、安定した天候です。ただし――」

 玲奈は一度言葉を区切る。

「都市構造と地表加熱の影響により、局地的に下降気流が発生し、突発的な強風となる可能性があります」

「その発生確率は、どの程度でしょうか?」

 即座に返ってくる問い。

 玲奈は一瞬だけ目を伏せた。

 ――数字は出せない。

「現時点では、確率としてお示しすることはできません」

 沈黙が落ちた。

 画面の向こうで、担当者同士が視線を交わす。

「……申し訳ありませんが、それでは判断が難しいですね」

 やや硬い口調だった。

「明日のイベントは、数千人規模です。中止や変更となれば、影響も大きい。明確な根拠がない中での判断は……」

 声がかすれ、言葉が濁る。

 玲奈は、ゆっくりと息を吸った。 そして、静かに言った。

「最終的な判断は、お任せします」

 一拍。

「ただし」

視線をまっすぐ画面に向ける。

「突風の可能性は、考慮してください」

 声は強くない。だが、揺らがない。

「設営物の固定、導線の確保、場合によっては一部エリアの使用制限など、事前に対応を取ることで、被害を最小限に抑えられる可能性があります」

 言い切る。

 画面の向こうの担当者が、言葉を失ったように黙る。

 しばらくして、ゆっくりと頷いた。

「……分かりました。社内で再度検討します」

 通話が終わり、モニターが暗くなった。


 その日の夕方。

 志保の管理するアカウントから、簡潔な注意喚起が発信された。

「明日、横浜市内の一部地域で局地的な突風が発生する可能性があります。設営物の固定など、十分な対策をお願いします」

 すぐに反応がついた。


「え、晴れなのに?」

「でも、この前のやつ当たってたよね」

 賛否が、入り混じる。

 拡散は、思ったよりも早かった。


 当日。

 空は、変わらず青かった。

「建物の構造から、このエリアは大会開始直後に突風が吹く恐れがあります。テントや看板といったものは、しっかりと固定する必要があるかと思います」

 志保も現地で、大会本部に進言した。

 マラソン大会会場では、一部のエリアが閉鎖されていた。看板は低く設置され、テントは通常よりも強く固定されている。

 予定されていたプログラムのいくつかが、中止になった。

「過剰じゃないか?」

 観客の一人が不満げに言う。

「まあ、安全のためって言うしな」

 別の声が返す。

 ランナーたちは、スタートラインに並んでいた。カウントダウンの声が響く。周囲の観客は、晴天の下、笑顔でカメラを構えていた。

 そのときだった。

 志保の皮膚が、先に危険を知った。

(来る)

 空が一瞬、静止したかのように思えた。

――ドン、と、巨大な塊のような空気が落ちてきた。

 次の瞬間、風が走る。鋭く、強く、叩きつけるように。

 閉鎖されていないエリアの立て看板が、大きく揺れた。

 歓声が、ざわめきに変わる。

 だが――

 倒れない。

 固定されていた。テントも、持ちこたえる。

 風は数十秒で抜けていった。

 あとに残ったのは、ざわついた空気だけだった。

 大きな事故は、起きなかった。軽微な物損と、数名の転倒。

 いずれも重傷には至らなかった。

(これで、よかった)

 十キロの部参加を終えた志保は、スポーツドリンクを飲みながら、何事もなかったかのような会場を見渡した。


 その日の夕方。

 再び、SNSが動いた。

「風、やばかった」

「対策してなかったら危なかった」

「中止になったやつ、意味あったな」

「でも、やっぱり大げさじゃない?」

 評価は、割れたままだった。

 研究所の窓から、玲奈は黄昏の街を見ていた。

 昼間と同じ場所。だが、今は静かだった。


 背後で、優花の声がする。

「……結果としては、被害は最小限でしたね」

「そうね」

 玲奈は短く答えた。

「でも」

 優花が続ける。

「これで良かったのかどうかは、分かりません」

 玲奈は、少しだけ笑った。

「それでいいのよ」

 窓の外を見たまま、言う。

「分からない中で決めるのが、私たちの仕事だから」

「今回の件ですけど」

 美咲が口を挟んできた。

「『ウィークエンド・アース』で取り上げていいですか?プロデューサーの宮本さんも興味あるみたいですし」

「いいわよ。優花、情報提供できる?」

 玲奈が優花の方を向いた。

「わかりました」

「ありがとう。早速、企画書出すわ」

 美咲は足取り軽く、その場を立ち去った。

「玲奈さん。ありがとうございました」

 優花が丁寧にお辞儀をした。

「私が?何を?」

「今回、私は、自分が言い出したのに、風がどの程度の規模で吹くか、まったく言えなかったです。けど、玲奈さんは、その上で判断をして、被害を最小限に食い止めました。私には、まだ真似できません」

「優花……」

「これからも、よろしくお願いします。失礼します」

 笑顔で荷物も持つと、優花もその場を立ち去った。

(あの子ったら……)


 風は、もう吹いていなかった。だが、見えない何かが、まだそこにあるような気がした。

 玲奈は静かに目を細めた。

――いつか私たちが、この風に名前をつける日が来るだろうか

 彼女たちは、そこに意味を与えようとしていた。


 玲奈が帰ると、ちょうど玲美が風呂からでたところだった。

「おかえり、ママ!」

 玲美はまだ乾ききっていない髪のまま、玲奈に抱き着いた。

後ろからバスタオルを持った敏樹が近寄った。

「おいおい。ちゃんと髪を拭かないと……お帰り」

「ただいま。ごめんね、玲美の面倒ずっと見てもらって」

「いやあ、お袋もいたから……」

「玲美、今度のママのお休み、一緒にお買い物行きましょう」

「うん!」

「玲美、ほら、ちゃんと拭くよ」

「ママにふいてもらう!」

「玲美、ママは帰ってきたばかりだぞ」

「いいの。拭かせて」

 玲奈は笑顔でタオルを受け取った。

「玲美、おいで」

「うん!」

 笑顔で玲美が頭を差し出した。

シャンプーの甘いにおいがした。

 

「そうか。無事済んだか」

 所長室で玲奈から報告を受けた松島は、静かに言った。

「はい。一部には大げさという声もあったそうですが」

「それでいい」

 松島は深く頷いた。

「備えは無駄になったほうがいいからな」

「それはそうと」

 隣の吉村が口を挟んだ。

「君、土日も働いて七連勤だったんだろう?お子さん、まだ小さいのに」

「はい。決断したのは、私でしたので……夫や義母も、娘の面倒見てくれましたし……」

「代休は取っているんだろうね?」

「明日から二日間、お休みします」

「今日はもうあがりなさい」

 松島が優しい声で言った。

「え?まだ、お昼ですけど……」

「構わない。残業もしたんだろう?」

「はあ……」

「藤堂君」

 松島の声が重くなった。玲奈の背筋が思わず伸びた。

「はい」

「今回、よくわかっただろう?みんな、前に進んでいるんだ。君も、前に進みなさい」

 松島の目は、厳しくも温かかった。

「わかりました。ありがとうございます。失礼します」

 玲奈はいつものように一礼をして、所長室を出た。

「藤堂君、晴れたな」

 松島が小さく微笑んだ。

「晴れた?」

「ああ。戻ってきた当初、顔に元気がなかった。恐らく、自分の居場所はもうないのではないか、と思っていただろう」

「確かに、そんな雰囲気でしたが……よく気が付きましたね。所長も忙しくて、そんなに見ていたわけでもないのに」

 吉村の不思議そうな顔を見て、松島は笑いながら言った。

「空と一緒だよ」

「空と?」

「どんなに晴れているように見えても、雲があるとすぐわかるだろう?」

「はい」

「それと同じだ」

 松島は立ち上がり、窓の外を見た。

「これからも、楽しみだな」

 満足そうに言う松島の背中を、吉村はじっと見つめた。

その先を、まだ誰も知らなかった。

(空の現場へ 了)

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