第19話 世界四位の旅館、その地下にも何かがいる
世界ランキング第四位、東雲小春。
そう聞いてから本人を見ると、何をしていても妙に意味があるように見えてしまう。
けれど実際の彼女は、俺たちを客室へ案内したあと夕食の配膳を手伝い、別の宿泊客に周辺の観光地を聞かれれば笑顔で地図を広げ、厨房から呼ばれれば小走りで戻っていく、ごく普通の旅館の娘だった。
「佐伯、見すぎ」
夕食の途中、向かいに座っていた九条に指摘されて、俺は慌てて小春から視線を外した。
「見てませんよ」
「さっきから東雲さんが通るたび目で追ってるだろ」
「未来で世界四位になる人ですよ。そりゃ気にはなるでしょう」
「その言い方、事情知らない人が聞いたら完全に別の意味ですよ」
凛が呆れたように言う。
確かに、若い女性をずっと目で追っていたと言われれば言い訳しにくい。
「別に東雲さん本人を見てるわけじゃなくて、どういう人なのかなと思ってただけです」
「それを本人を見るって言うんじゃねえの?」
「九条さん、今日なんか細かくないですか?」
「温泉入る前だから機嫌いいんだよ」
「普通逆じゃないです?」
俺たちのやり取りを聞きながら、瀬尾は料理を口へ運びつつ小さく笑っていた。
未来では、この四人と東雲小春が同じアーク・フロンティアに所属することになる。
ただし今は、向こうからすれば俺たちは単なる宿泊客だ。
その距離感が新鮮だった。
未来で重要人物になると分かっていても、何かを頼む必要もなければ、危険から連れ出す必要もない。普通に泊まって、普通に話して、帰る。
そんな出会いがあってもいい。
むしろ、これまでのほうがおかしかったのだ。
警備員へいきなり声をかけたり、事故に遭う人間を待ち構えたり、行方不明になる予定の父親を会社帰りに捕まえたりしている。
改めて並べると、よく誰にも通報されなかったと思う。
「どうかされました?」
不意に声をかけられて顔を上げると、小春が空いた皿を下げに来ていた。
「いえ。ちょっと自分の最近の行動を振り返ってました」
「旅行先でですか?」
「振り返りたくなることが多くて……」
小春は少し不思議そうな顔をしたあと、俺たちのテーブルを見回した。
「お食事、大丈夫でした?」
「めちゃくちゃうまかったです」
九条が即答する。
「特にこれ。豚肉のやつ」
「箱根山麓豚です。母の味付けなんですけど、気に入ってもらえたなら良かった」
「ご飯三杯食った」
「九条さん、それは私も見てました」
小春が笑った。
世界四位の探索者という未来を知らなければ、俺だってこの人が一年後に魔物と戦う姿なんて想像できなかったと思う。
未来は本当に分からない。
俺のスマホだけがおかしいだけで。
◇
異常に最初に気づいたのは、午後九時前だった。
温泉から戻ってきた九条が部屋でくつろいでいる横で、俺と瀬尾は昼間に箱根周辺で取った簡易観測データを確認していた。
今回持ってきたのは、榊原と神代から借りた小型の観測機器だけだ。
八王子や横浜で使った本格的な装置ほど精度は高くないが、前駆粒子と電磁変動の異常を見つける程度なら十分らしい。
「佐伯さん、これ見てもらえます?」
瀬尾がノートパソコンをこちらへ向けた。
昼間、旅館へ来る途中で何度か測定した記録が並んでいる。
「道路沿いは基準値とほぼ同じです。旅館の駐車場も少し高いくらい。でも、ここだけ妙に上がってます」
「どこ?」
「旅館の西側です。チェックインする前に九条さんが荷物を持った辺りで、一度だけ測定したでしょう」
確認すると、確かにそこだけ数値が違っていた。
八王子ほどではない。
横浜の接続直前と比べても遥かに低い。
それでも周辺平均のおよそ一・六倍。
「誤差じゃないですか?」
「俺もそう思ったんですけど、さっき廊下で機械を起動したら一・八倍まで上がったんですよ。建物の奥へ行くほど高くなってる気がします」
嫌な予感がした。
「ちなみに、旅館の奥って何があります?」
「さあ。厨房とか設備室じゃないですか?」
ちょうどそのとき、部屋へ戻ってきた凛が俺たちの会話を聞いた。
「さっき東雲さんが、源泉設備を見に行くって話してましたよ。お湯の温度が少し不安定になってるみたいです」
俺と瀬尾が顔を見合わせる。
九条も布団に寝転がっていた身体を起こした。
「また地下?」
「まだ決まってませんよ」
「でもその顔、もう行く気だろ」
「確認するだけです」
「ほらな」
俺だって、できれば今日は温泉へ入って寝たかった。
ただ。
八王子。
横浜。
そして箱根。
未来でダンジョンが出現する場所の近くで、同じ種類の異常が続いている。
しかも《旅館しののめ》周辺には、一年後の発生日直後に複数のダンジョンが出現する。
ここまで揃えば、確認しないほうが難しい。
◇
いきなり旅館の設備室へ入れてくれと言えば当然怪しまれる。
俺たちは小春を見つけ、まず昼間から地盤関係の簡易測定をしていたことを説明した。
もちろん未来の話はしない。
最近、地下で説明の難しい測定値が見つかる場所があり、箱根でも念のため確認している。
そこまでだった。
「地下の異常ですか?」
小春は驚いたものの、こちらが予想したほど疑わなかった。
「実は、うちも少し変なんです。源泉そのものじゃなくて、古い井戸のほうなんですけど」
「古い井戸?」
「今は使ってません。昔、祖父の代に掘った温泉井戸が一本あって、二十年くらい前に止めたんです。でもここ数か月、そこからたまに音がするって父が言ってて」
俺は背中に嫌な汗を感じた。
「どんな音です?」
「水が流れるような音らしいんですけど、配管はもう切ってあります。私も一度だけ聞きました」
「それ、設備室を見せてもらえます?」
「父に聞いてみます。ただ、狭いですよ」
小春が父親へ事情を説明すると、意外にもすんなり許可が出た。
温泉旅館は地下水や地盤の状態と無関係ではないため、無料で簡易測定してくれるならむしろ助かる、という程度の受け止め方らしい。
俺たちは宿泊客から一転して、全員で旅館の裏手へ回ることになった。
「お前、本当に旅行だけで終わらねえな」
九条が小声で言う。
「俺だって終わりたかったですよ」
「温泉もう一回入れるよな?」
「そこですか?」
「重要だろ」
この男の優先順位は、ときどき未来の世界二位とは思えない。
◇
源泉設備は、旅館本館から少し下った場所にあった。
小さなコンクリート造りの建物で、中には現在使用している配管やポンプ、温度管理設備が並んでいる。
異常があったのは、そのさらに奥。
古い金属扉の先だった。
「ここです。今の源泉へ切り替えてから、ほとんど使ってません」
小春が照明をつける。
狭い部屋の中央に、大きな金属製の蓋があった。
直径一メートルほど。
周囲はコンクリートで固められ、古い配管だけが途中で切断されて残っている。
「この下が古い井戸?」
「はい。数百メートル掘ってあったらしいです。ただ、今は完全に封鎖されています」
瀬尾が観測機器を起動する。
数値が表示された瞬間、俺たちは誰も喋らなくなった。
「……三・二倍です」
駐車場より高い。
旅館内よりも。
さらに。
「前駆粒子ですか?」
凛が聞く。
「榊原さんから聞いてる基準なら、そうです。ただ八王子の地下ほどじゃない」
俺はすぐ神代へ連絡した。
家族と過ごしているところへ申し訳なかったが、この数値を無視するわけにはいかない。
数分後。
神代と榊原を加えた通話が始まった。
『温泉井戸?』
画面の向こうで神代が確認する。
「使われていない古い井戸です。数百メートル掘ってあるみたいです」
『測定値を送ってくれ。位置情報も』
瀬尾がデータを共有する。
それまで黙っていた榊原が、しばらく数字を見たあと口を開いた。
『面白い』
「その感想、だいたい怖いこと起きる前なんですよ」
『地下深部の異常を、井戸が拾ってる可能性がある。穴そのものが原因じゃなくて、観測経路になってるのかも』
神代も同意した。
『八王子や横浜で異常領域が存在した深度と大きくは外れていない。正確な装置を持ち込まなければ断定できないが、箱根地下にも前駆領域がある可能性は高いな』
隣で聞いていた小春の表情が変わった。
「すみません。さっきから話してる、その前駆領域って何なんですか?」
当然の質問だった。
俺たちは顔を見合わせる。
説明していない。
そもそも説明できる言葉も、まだ世間にはない。
「地下で見つかってる、今まで知られていなかった異常な場所です。危険かどうかもまだ分かってません」
「うちの下にもあるかもしれない?」
「可能性はあります。ただ、今すぐ何か起きるという意味ではありません」
嘘ではない。
未来掲示板の記録では、箱根周辺で大規模な異変が起きるのは一年後だ。
もっとも、八王子や横浜の前例を考えれば、「一年後まで絶対安全」とはもう言えない。
「じゃあ、調べたほうがいいですよね」
小春は迷わなかった。
「それは俺たちで――」
「うちの旅館の下なんですよね?」
「そうですけど」
「だったら、うちも知っておきたいです。お客さんが泊まる場所ですから」
その返事を聞いて。
俺は少し驚いた。
未来で。
東雲小春がダンジョン発生直後から箱根の避難支援へ参加する。
その理由が。
少しだけ分かった気がした。
世界四位だからではない。
強い能力を持っていたからでもない。
今の時点から。
この人は。
自分が守る場所をちゃんと持っている。
「分かりました。ただし、調査するなら安全最優先です。危ない可能性が出たら、旅館側にもすぐ伝えます」
「お願いします」
「それと、一人では確認しに行かないでください。何か変だと思ったら必ず連絡を」
小春は一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「佐伯さん、心配性なんですね」
「最近、心配性にならないといけないことばっかり起きてるんです」
九条と凛が何も言わず頷いていた。
そこは援護してくれなくてもいい。
◇
測定を続けていると、一つ妙なことが分かった。
前駆粒子の数値は一定ではない。
数分ごとに少し上下している。
しかも。
古い井戸の周囲を移動すると。
場所によって反応が違った。
「こっち低いですね」
瀬尾が壁際へ移動する。
「二・四倍。蓋の正面だと三倍超えます」
凛も測定器の表示を覗き込む。
「方向があるんですか?」
『可能性はある』
通話越しに神代が答えた。
『八王子の前駆領域も完全な球形ではなかった。もし箱根の異常が細長い形なら、井戸の位置と向きによって数値に差が出てもおかしくない』
「じゃあ、この下のどこかに――」
小春が金属蓋へ近づこうとした。
「そこまでで」
俺が止める。
小春は素直に足を止めた。
「すみません」
「いや、俺が過敏なだけかもしれません。でも八王子で一度、壁が突然別の場所につながったのを見てるので」
「壁が?」
しまった。
言いすぎた。
小春が当然のように聞き返す。
俺は少し迷ったが。
今後この旅館を観測地点として使うなら、何も知らせないまま協力だけ求めるのも違う。
「詳しくは、まだ話せないことが多いです。ただ、地下の異常が一時的に普通じゃない空間へつながる現象を確認しています」
「普通じゃない空間……」
「俺たちは、仮に《前駆接続》って呼んでます」
小春は金属蓋を見た。
怖がっているようには見えなかった。
だからこそ。
少し心配になった。
「東雲さん。本当に近づきすぎないでくださいね」
「分かってます。私、そんなに無茶するように見えます?」
「未来だと――」
危ない。
九条が咳払いした。
俺は無理やり言葉を変える。
「……強そうなので」
「それ褒めてます?」
「たぶん」
「何ですか、それ」
小春が笑った。
危なかった。
危うく初対面二日目で「あなた世界四位になります」と言うところだった。
未来掲示板を持って十年以上生きている気分になっているが、まだ一か月も経っていない。
俺も学習途中だ。
◇
その後、急激な数値変化は起きなかった。
神代と榊原の判断でも、今夜すぐ接続する兆候はない。
後日、正式な機材を持って再測定することを東雲家へ説明し、俺たちは設備室を出た。
時刻は午後十時半を過ぎていた。
「温泉、まだ入れますよ」
小春が言うと。
九条が一番に反応した。
「行ってくる」
「今まで地下で謎の異常調べてた人の切り替えじゃないですよ」
「だからこそ入るんだよ。せっかく温泉旅館来てんのに調査だけで終わったら何しに来たんだ」
「調査ですよ」
「最初お前、普通の客として泊まるって言ってたよな?」
「……温泉行きましょうか」
「最初からそう言え」
瀬尾が笑い。
凛も呆れながら部屋へ戻っていった。
俺も一度はその後を追おうとしたが。
スマホが震えた。
未来情報が更新されたときにだけ出る。
あの通知だった。
「またですか……」
ここで見るか。
明日にするか。
少し迷った。
けれど。
今夜観測した情報を全部保存したあとだ。
もう未来を見ても問題ない。
俺は廊下の端へ移動し、未来掲示板を開いた。
《旅館しののめ 前駆接続》
検索する。
以前は出なかった結果が。
いくつも表示された。
最上部。
『〖資料〗箱根第一民間前駆観測点』
「……民間観測点?」
開く。
『名無しの探索者:2036/09/24 22:48
ここ今でも残ってるのすごいよな』
『名無しの探索者:2036/09/24 22:49
旅館として営業しながら地下観測所やってるからな』
『名無しの探索者:2036/09/24 22:49
アーク初期の箱根拠点』
『名無しの探索者:2036/09/24 22:50
東雲家がずっと管理協力してる』
未来が。
また変わっている。
元の未来では。
ここはただの旅館だった。
ダンジョン発生後に避難所となり。
その縁で小春がアークへ入った。
今は違う。
一年前から。
すでにアークとつながっている。
さらに読む。
『名無しの探索者:2036/09/24 22:52
断界の覚醒地点でもある』
俺の指が止まった。
覚醒地点。
未来の小春が能力を得た場所。
それは知っている。
一年後。
箱根で。
そう思っていた。
次の書き込みを見るまでは。
『名無しの探索者:2036/09/24 22:53
正確には初回発現地点な』
『名無しの探索者:2036/09/24 22:53
2026年9月24日』
「……今日?」
声が出た。
俺は投稿の日付を確認する。
間違いない。
二〇二六年。
九月二十四日。
今日。
『名無しの探索者:2036/09/24 22:54
公式のダンジョン発生より342日前』
『名無しの探索者:2036/09/24 22:55
世界初の《前駆覚醒》』
心臓が強く鳴った。
これまで。
能力が覚醒するのは。
ダンジョン発生日以降だと思っていた。
九条も。
凛も。
神代朔夜も。
未来ではそうだった。
でも。
歴史を変えた結果。
世界で最初の覚醒者が。
一年早く生まれる。
しかも。
それが。
「東雲さん……?」
旅館の奥から。
大きな金属音が響いた。
直後。
女性の短い悲鳴。
俺は考えるより先に走った。
九条と凛も部屋から飛び出してくる。
「佐伯!」
「設備室です!」
階段を駆け下り。
裏口から外へ出る。
源泉設備の建物へ向かう途中。
小春が立っていた。
無事だ。
怪我もない。
ただ。
自分の右手を。
呆然と見つめている。
「東雲さん!」
「佐伯さん……」
「大丈夫ですか? 何があったんです?」
「私にも、よく分からなくて……」
小春が視線を落とした。
地面には。
さっきまで一本だったはずの。
古い鉄製の手すりが落ちている。
二つに分かれて。
切断面は。
錆びた金属とは思えないほど。
真っ直ぐだった。
九条が近づきかけて。
足を止める。
「これ、お前がやったのか?」
「触ってません。そこを通ろうとしたら、服が引っかかりそうだったから、邪魔だなって思って……」
小春自身が。
一番信じられないという顔をしていた。
俺だけは。
何が起きたのか知っている。
未来ランキング世界第四位。
《断界》東雲小春。
物質を切るのではなく。
境界そのものを切断する探索者。
その力が。
ダンジョン発生まで三百四十二日を残した夜に。
本来の歴史より。
一年近く早く。
目を覚ました。
未来を変えれば。
人を救える。
それは分かった。
でも。
俺はまだ。
もう一つ分かっていなかった。
未来を変えれば。
未来の力まで。
こちら側へ早く引き寄せてしまうことがある。
ダンジョン発生一年前。
世界初の覚醒者が。
誕生した。




