第92話:焦土の中の生還
一、 暗黒のどん底と、血と泥の呼吸
ポタッ……ポタッ……。
暗闇のどこかから響く、冷たい水滴の音。
それが、少年料理人アルの意識を、果てしない絶望の奈落からゆっくりと引き戻した。
「……あ……っ……」
口を開こうとした瞬間、喉の奥から激しい苦痛が走り、アルは吐き気とともに肺に残っていた血の塊を吐き出した。
ゴホッ、ゲホッ……っ!
血が地面に落ち、泥と混ざり合う生臭い匂いが鼻を突く。
全身が、まるで巨大な金槌で粉々に叩き潰されたかのように痛む。
指先一本動かすだけで、皮膚が引き裂かれ、折れた骨が肉を刺すような激痛が身体中を駆け巡った。
アルの胸の奥底にある『炉』は、冷え切った灰の塊のようになっており、一微塵のマナも、一欠片の熱も生み出してはくれなかった。
「……ここ……は……」
アルは、血と泥で固まりかけた右目を必死に開いた。
そこは、光の届かない漆黒の世界だった。
だが、目が暗闇に慣れてくると、周囲の空間がぼんやりと青白い「微光」を帯びているのが見えた。
教国の地上から何万メートルも下——奈落の底が崩落し、落ちてきた【忘却の深淵】の最下層。
かつて地下から吸い上げられていた原初マナの脈動が残る、荒涼とした「焦土の空洞」であった。
カルムの放った【全界焦土咆哮】と、崩落の衝撃によって周囲の岩盤はドロドロに溶けた後に急冷され、ガラスのように黒く尖った岩肌と、硫黄や熱気の混ざった白い蒸気があちこちから立ち上っている。
(僕……生きてる……?)
アルは、かすむ視界の中で自分の右手を見つめた。
血だらけで爪の剥がれた小さな右手。
そこには、三使徒の攻撃によって真っ二つに叩き割られた『黒鉄の包丁の柄』が、死後硬直のような強さで、今なお固く握り締められていた。
刃はない。
これまで数々の食材を裁き、仲間たちに温かいご飯を届けてきた自慢の刃は、影も形もなく砕け散っていた。
「……あ……カルム……! エレナさんッ……!」
自分の身体の激痛も忘れ、アルは血の混ざった泥の上を、肘と膝だけで這いずり始めた。
二、 生死の境界を彷徨う仲間たち
焦土の瓦礫のあちこちに、仲間たちの身体が打ち捨てられていた。
「カルム……ッ! 返事をしてよ、カルムッ!!」
最初に辿り着いたのは、相棒カルムの元だった。
カルムの姿は、あまりにも痛ましかった。
己の命と全マナを薪にして燃やした反動で、彼の右腕は肩から指先まで完全に黒焦げの炭と化し、触れればポロポロと灰となって崩れ落ちていく。
全身の皮膚は赤黒く爛れ、胸の上下は今にも止まってしまいそうなほど小さく、浅い。
アルは、震える手でカルムの首筋に触れた。
冷たい。
いつも太陽のように温かく、頼もしかった相棒の体温が、まるで冬の氷のように冷え切っていた。
だが——かすかに、本当に脈拍が途切れそうなほどかすかに、トクン……トクン……と心臓が動いていた。
「生き……てる……! カルム、生き……てるッ……!」
アルの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出し、泥で汚れたカルムの胸元に落ちた。
次に這い寄ったのは、エレナの元だった。
「エレナさん……っ!」
元・最高位聖騎士長として、どんな時も気高く仲間を護る不滅の盾であった彼女。
だが、今の彼女にその面影はなかった。
白磁の甲冑は跡形もなく砕け散り、両腕の骨は折れて不自然な方向に曲がっている。美しい白銀の髪は泥と吐血でドロドロに固まり、顔の半分はセラフィナに踏みにじられた激しい皮下出血で紫色に腫れ上がっていた。
彼女が誇りとしていた『星霜の聖剣』は、もうどこにも存在しない。
「……アル……殿……」
アルの手の温もりに反応したのか、エレナの紫に腫れた目蓋が、かすかに開いた。
喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れ出る。
「無事……か……。アル……殿……」
自分自身が今にも命を落としそうな死地にあるというのに、真っ先にアルの無事を確かめようとする彼女の優しさ。
「エレナさん! 喋っちゃダメだ! 僕……僕がなんとかするからッ!」
アルは声を上げて泣いた。
セリアも、瓦礫の陰で血を吐いて倒れていた。彼女の神聖回路は全破砕され、意識はないものの、かろうじて呼吸を繋いでいる。
そしてオルタは、素体の八割が破砕し、ルビー色の瞳の光は完全に消え去り、ピクリとも動かない。
全員、壊滅。
奇跡的に死を免れたものの、それは「奇跡的に生き残った」というよりは、「崩落によって死の直前で使徒の手から投げ出された」というだけに過ぎなかった。
仲間たちは一人として五体満足な者はいない。
武器は砕かれ、力は失われ、ここは光も食料もない極限の暗黒のどん底。
三使徒との戦いは、言い訳の余地すら存在しない、完膚なきまでの【完全敗北】であったのだ。
三、 焦土の泥と、這い上がる意志
「……ハァ……ハァ……っ」
アルは、膝をついたまま、焦土の天井を見上げた。
遥か頭上にあるはずの聖都ルミナも、神座の塔も、奈落も、いまや何の気配も感じられない。
自分たちは、世界から完全に切り離され、見捨てられたのだ。
(どうすれば……いいんだ……?)
無力感が、アルの心を締め付ける。
包丁は折れた。
マナ(熱)を生み出す『炉』は空っぽだ。
怪我を治す魔法も、温かいスープを作る食材も、ここには何一つ存在しない。
このまま、全員で静かに冷たくなって死んでいくのを待つしかないのだろうか。
使徒たちの言った通り、自分たちがしてきたこと、仲間を護ろうとした覚悟なんて、最初から何の意味もなかったのだろうか。
(……違う)
アルは、石畳に伏せていた顔を上げた。
血だらけの右手に、残された『折れた包丁の柄』が食い込む。
(僕たちは……生きてる……!)
使徒たちの圧倒的な神威の前に、自分たちの火力(力)は一切届かなかった。
完璧に負けた。完膚なきまでに打ちのめされた。
だけど——命だけは、こうして繋がっている。
カルムの心臓は動いている。
エレナさんは、僕の名を呼んでくれた。
なら、諦める理由なんて、どこにもないじゃないか!
「ご飯を……作らなきゃ……」
アルは、血混じりの唾を吐き捨て、膝をガタガタと震わせながら立ち上がろうとした。
「みんなの……体温を……繋ぐための……ご飯を……ッ!」
料理人にできることは、これしかない。
剣が折れても、魔法が使えなくても、お腹を空かせて倒れそうな仲間に、命の温かさを届けること。
アルは、視界を確保するために額の血を乱暴に手ぐしで拭い、焦土の暗闇の中へと歩き出した。
足元は黒く尖った岩肌と、熱気を含んだ硫黄の泥。
アルは、地面に手をつきながら、必死に食材を探した。
(何かないか……? みんなの命を繋ぐものが……何でもいい……ッ!)
教国のペレットのような最高級の栄養素なんていらない。
ただ、生きるための、命を繋ぎ止めるための「熱」と「水分」があればいい。
暗闇を彷徨うこと十数分。
アルの『真理の目』が、かすかな黄金の反応を捉えた。
焦土の岩の亀裂。そこから吹き出す温かい原初マナの蒸気に当たって、ひっそりと生えていたのは——薄暗く青緑色に発光する【地下の極限苔】と、湿った泥の中に群生する見たこともない【灰色の粘性キノコ】であった。
さらに、その岩肌の表面には、かつて地下水が蒸発して固まったとされる【原初岩塩の結晶】が、びっしりと張り付いていた。
毒があるかもしれない。
普通なら、誰も食材とは呼ばないような、泥と菌の塊。
だが、アルの料理人としての直感が叫んでいた。
『これは、生きている。命の熱を持っている』と。
四、 泥水のスープと、繋がれた体温
アルは、爪を剥がしながらも、岩肌から原初岩塩の結晶を削り取った。
そして、発光する苔と粘性キノコを慎重に摘み取り、エプロンの破片に包んだ。
水は、岩の亀裂から滴り落ちる、かすかに熱を帯びた地下の雫。
調理器具なんてない。
アルは、周りに落ちていた崩落時の神聖金属のくぼんだ破片を拾い上げ、それを即席の「鍋」にした。
そして、手にしたのは——折れた『黒鉄の包丁の柄』。
刃は半ばから折れ、残っているのは柄の根元にこびりついた、数センチの歪んだ鉄の破片だけ。
「……これで、刻むッ!」
トントン、トントン……。
焦土の暗闇に、あまりにも不格好で、弱々しい「包丁の音」が響き始めた。
アルは、折れた包丁の短い鉄片を使い、粘性キノコと発光苔を細かく刻んでいく。
マナが使えないため、腕の筋力だけで刻む。手が痛む。血が滲む。それでも、アルは包丁を動かす手を止めなかった。
刻んだ食材と岩塩の結晶を、金属のくぼみに入れ、地下の雫を満たす。
火(熱)は、胸の『炉』からは出ない。
代わりにアルは、岩の亀裂から吹き出す温かい原初マナの蒸気の上に、その金属の鍋を直接押し当てた。
ジュウゥゥゥゥ……ッ。
湯気が立ち上る。
生臭く、泥の匂いが混ざった、お世辞にも「美味しそう」とは言えない不気味な湯気。
だが、そこには間違いなく、地熱によって温められた【命の熱】が存在していた。
アルは、黒鉄の包丁の折れた残骸を使い、鍋の中身をじっくりと掻き混ぜ続けた。
「美味しく……なれ……。美味しくなって……みんなを……助けてくれ……ッ!」
マナの力ではない。
自分の血と涙、そして「生きてほしい」という泥臭い執念だけを込めた、極限のサバイバルスープ。
【真理創生・焦土の泥スープ】。
数十分後、緑色の湯気を立てる泥水のようなスープが完成した。
アルは、手製の木製お椀すら持っていないため、平らな石の破片にスープをすくい、倒れている仲間たちの元へと運んだ。
五、 絶望の焦土に立つ、小さな足跡
「エレナさん……飲んで……ッ」
アルは、血の海に横たわるエレナの頭を膝の上に抱え上げ、石の破片からスープを彼女の乾いた唇へとゆっくりと注ぎ込んだ。
ズズッ……。
泥と硫黄の臭いがする、苦くて、渋いスープ。
しかし、それがエレナの喉を通り、彼女の冷え切った胃袋へと届いた瞬間。
「……っ……ぁ……」
エレナの身体が、かすかに震えた。
スープに含まれていた原初岩塩のミネラルと、地熱の温かさが、彼女の生命活動の止まりかけていた心臓を、優しく叩いたのだ。
エレナの腫れ上がった瞳から、一滴の涙がこぼれ落ち、アルの血に濡れた手に伝った。
「温かい……。アル……殿……スープ……だ……」
「うん……スープだよ! 僕の作ったご飯だよッ!」
アルは、泣きながら笑った。
次に、カルムの元へ向かった。
炭化し、呼吸すら止まりかけていた相棒。
アルは、カルムの固く結ばれた唇を指でこじ開け、スープを少しずつ、焦げ付いた喉の奥へと流し込んだ。
ズズズッ……。
「……ん……がぁ……っ」
カルムの胸が、大きく上下した。
冷たくなっていた彼の皮膚の奥底で、スープの熱が触媒となり、死に絶えかけていた彼の毛術回路の残滓が、かすかにチリチリと音を立てて再始動を始めた。
「……まずい……ぞ……シェフ……。なんだ……この……ドロ……スープは……」
カルムが、塞がった右目をわずかに開け、血を吐きながら言った。
「ごめんね……今はあるものでしか作れなかったんだ……」
「……へっ……バカ野郎……。味は……最低だけどよ……。腹の底が……温けぇや……」
カルムの唇に、かすかな、弱々しい八重歯の笑みが戻った。
セリアにも、スープを飲ませた。
彼女もまた、スープの熱によって呼吸を取り戻し、かすかに指先を動かした。
壊れたオルタの元へは、スープを飲ませることはできない。
だが、アルはスープの湯気をオルタの破損した冷却ファンへと吹き働きかけ、その内部の補助結晶を地熱で保温した。
『――――警告……メインシステム停止中。……補助暖房反応を検知。……マスター・アルの……体温を確認……――――』
オルタの胸の刻印が、一瞬だけ、弱々しく光を取り戻した。
生き延びた。
神の絶対的な武力に完膚なきまでに敗北し、地下のどん底へと叩き落された四人と一機。
だが、少年料理人の振るう「折れた包丁」と「一杯の泥スープ」によって、彼らの命の灯火は、死の暗闇の中で確かに【繋ぎ止められた】のだ。
「ハァ……ハァ……っ」
アルは、空になった石の破片を置き、折れた包丁の柄を胸に抱きしめた。
周囲を見渡せば、そこは未だに光の届かない、過酷で荒涼とした焦土の暗闇。
自分たちの力は失われ、武器は打ち砕かれ、地上では使徒たちが世界を漂白しようとしている。
敗北の現実は、何一つ変わっていない。
だけど。
「……死んでない」
アルは、血と涙で汚れた顔を上げ、黒い岩肌の向こう側を見つめた。
「僕たちは……まだ、死んでないぞ……ッ!」
絶望の焦土の中に、少年料理人の小さな、だが確かな一歩の足跡が刻まれた。
ここから、己の無力さを噛み締め、使徒という理不尽な神の壁を越えるための、泥臭く過酷な「這い上がり」の物語が始まろうとしていた。




