第9話:迫り来る使徒の影
一、 純白の執行者
ピシリ……、ピシ、ピシピシピシッ!
黒鉄の街、第十三スラム街。
アルとカルムが手作りで完成させたばかりの『食堂 アルとカルム』のすぐ目の前。泥水と砂利が混じる路地裏の空間が、まるで見えない巨大なガラスの壁であるかのように、不気味な亀裂を走らせていた。
「おい……空間が、割れてるぞ……?」
カルムは、自分の目を疑った。
両拳に赤い魔力炎を纏わせ、いつでも飛びかかれる体勢を取ってはいるものの、目の前で起きている現象は彼の理解を遥かに超えていた。
空間そのものにヒビが入り、その向こう側から、スラム街の暗闇とは対極にある「目を刺すような純白の光」が漏れ出しているのだ。
「カルム、下がって……! あれは、このスラムのモノじゃない!」
アルが、腰から『黒鉄の包丁』を引き抜きながら鋭く叫んだ。
パリーンッ!!
空間のヒビが限界に達し、耳を劈くような破砕音とともに砕け散った。
砕けた次元の隙間から滑り出てきたのは、二つの異形なる影であった。
身の丈三メートル。
一切の継ぎ目がない、絶対零度を感じさせる白磁の神聖装甲。背中には、幾何学模様を描く六枚の光の翼が、無機質な羽音を立てて明滅している。
顔面には目も鼻も口もなく、滑らかな鏡のような面に、ただ一筋の「黄金の縦線」だけが不気味に輝いていた。
神の理不尽なルールを体現する、主神アルファ直属の粛清兵器――【使徒】。
『――――空間転移完了。観測座標、第十三スラム街。……特異点(バグ個体)の目視確認に成功――――』
顔面の黄金線が明滅し、感情の欠片もない合成音声がスラムの夜空に響き渡る。
その声は空気を振動させているのではなく、アルやカルムの脳内に直接、冷たい氷の針を突き刺すように響いてきた。
「なんだ、こいつら……。魔導汚染獣か? いや……違う。こんなバケモノ、上層の工場だって作れねぇぞ……!」
カルムの額から、嫌な汗が流れ落ちた。
喧嘩屋としての本能が、全身の細胞を通して「勝てない」「逃げろ」と最大級の警鐘を鳴らしていた。目の前にいるのは、圧倒的な『死』そのものだ。
『――――これより、主神アルファ様の命に基づき……当エリアの【バグ個体】の排除、ならびに第十三スラム街全域の『初期化(全消去)』を開始する――――』
「全消去……だと?」
カルムの顔が怒りに歪む。
『――――肯定。当エリアにおいて、神の定めたエネルギー保存の法則に反する「非正規の創生波動」が連続して観測された。これは、世界の計算式を崩壊させる致命的なバグである――――』
使徒の一体が、アルが立っている食堂の方へとゆっくりと首(らしき部位)を向けた。
『――――原因は、そこの個体。魔力を持たぬ空箱でありながら、理を解体する力を有するエラー。……直ちに存在をゼロへと還元する――――』
「……神様が、僕を殺しに来たって言うの?」
アルは、黒鉄の包丁を両手でしっかりと構え、真っ直ぐに使徒の鏡面を見据えた。
膝は恐怖で震えていた。しかし、背後にある食堂には、眠っているトニとマリアがいる。今日、みんなが笑顔でスープを食べてくれた大切な食卓があるのだ。
「そんなの……絶対に、許さない。ここは僕たちの居場所だッ!」
アルの漆黒の瞳に、『真理の目』の黄金の輝きが強く灯った。
「へっ……チビの言う通りだぜ」
カルムが、恐怖を押し殺し、ニッと狂暴な八重歯を剥き出しにしてアルの隣に並び立った。
「神様だか使徒だか知らねぇがな……。俺たちの食堂の前で、勝手に消去だの初期化だの、偉そうに寝言ほざいてんじゃねぇぞッ!」
カルムの全身から、かつてないほど巨大な赤い魔力炎が噴き上がった。
「アル、俺が先に行く! 隙を作ったら、お前のその包丁で解体してやれッ!」
「待って、カルムッ! こいつらはアビスの化け物とは違う!」
アルが止める間もなく、カルムは地面を爆発的に蹴り砕き、白磁の使徒めがけて突進した。
二、 圧倒的な力の差
「オラァァァァァァァァッ!!」
深紅の流星と化したカルムの右拳が、凄まじい魔力の熱量を伴って、手前にいた使徒の顔面へと叩き込まれた。
鉄甲獣の分厚い戦車の装甲をも粉砕した、カルムの渾身の全開パンチ。
それがまともに直撃すれば、いかなる物質であろうとひしゃげて吹き飛ぶはずだった。
しかし。
ピタァッ……。
「な……にッ!?」
カルムの目が見開かれた。
彼の拳は、使徒の顔面からわずか数十センチの空中で、まるで見えない分厚いゴムの壁にぶつかったように、完全にその運動エネルギーを殺されていた。
衝撃波も、爆風も、熱すらも発生しない。
カルムが込めた莫大な赤い魔力の炎が、透明な壁に触れた瞬間に、ジュワッ……と音を立てて『無』へと分解・吸収されてしまったのだ。
『――――物理および魔力エネルギーの接近を感知。……拒絶障壁、展開維持――――』
使徒の無機質な声が響く。
「クソッ……! なら、これならどうだッ!」
カルムは空中で身を捻り、左拳、右蹴り、さらに渾身の肘打ちを連続して叩き込んだ。
だが、結果は同じだった。どれだけ打撃を加えようと、使徒の周囲を覆う絶対の壁『拒絶障壁』に触れた瞬間、すべての力は「存在しなかったこと」にされてしまう。
アルの『真理の目』には、カルムの攻撃がどうやって無効化されているかが、残酷なまでにはっきりと見えていた。
(ダメだ……! あの壁は硬いんじゃなくて、触れた力を『ゼロ』に書き換えるプログラムなんだ! 物理的な力任せじゃ、絶対に突破できないッ!)
「退いて、カルムッ!」
アルが黒鉄の包丁を構えて駆け出そうとした。
だが、使徒の反撃の方が早かった。
『――――不純な魔力波形。バグの抵抗と認定。……排除する――――』
使徒が、ただ無造作に、虫を払うかのように白磁の左手を振った。
ドガァァァァァァァァァァァンッ!!!!
「ガハァッ!?」
すさまじい衝撃。
使徒の手の甲がカルムの胴体に触れたわけではない。振られた手から放たれた「空間の圧力」だけで、カルムの肉体は見えない巨大なハンマーで殴り飛ばされたかのように弾け飛んだ。
「カルムッ!!」
カルムの体は、食堂の横にあった瓦礫の山をいくつも貫通し、数十メートル後方の廃材の壁に深く叩きつけられた。
「ぐ……ごふッ……!」
カルムが血反吐を吐き出し、そのまま瓦礫の中に沈み込んで動かなくなる。
たった一撫でされただけで、肋骨は何本も折れ、内臓に深刻なダメージを負わされていた。魔力回路も乱れ、赤い炎を維持することすらできなくなっている。
「バケモノ……が……。俺の拳が……全く通じねぇ……」
カルムの口から、戦意ではなく、初めて「絶対的な絶望」の色がこぼれ落ちた。
三、 崩れゆく日常
「何事だッ!?」
「爆発音がしたぞ!」
騒ぎを聞きつけ、広場の奥からボリスたち元自警団の男たちや、スラムの住人たちが次々と松明を手にして駆けつけてきた。
だが、彼らは路地裏に立つ「純白の異形」を見た瞬間、全員がその場に縫い付けられたように足を止めた。
人間の本能が、彼らの細胞レベルで理解させたのだ。
あれは、戦って勝てるような相手ではない。触れれば存在そのものが消滅する、神の威光そのものだと。
「ひぃッ……か、神様だ……」
「なんで、神様の使いがこんなスラムに……っ」
住民たちが恐怖で身を寄せ合い、ガタガタと震え出す。
ボリスは巨大な鉄パイプを握りしめたが、その手は尋常ではないほど震えており、一歩も前に踏み出すことができなかった。
『――――観測範囲内に多数の人間個体を確認。……すべて、バグに汚染された不要データと認定。初期化プロトコルを続行する――――』
もう一体の使徒が、スラムの住人たちが集まっている広場の方へと向かって、スッと右腕を掲げた。
使徒の指先から、眩いばかりの純白の光の球体が生成されていく。
それは熱を持たず、音も立てない。ただそこにあるだけで、周囲の空間が微かに歪むほどの、極限まで圧縮された『消去のプログラム』。
「ダメだッ! やめろォォォォォッ!!」
アルが絶叫した。
使徒の指先から、二本の強烈な「純白の光芒」が、広場の居住区画めがけて音もなく撃ち放たれた。
キィィィィィィィィィィィィン――――……ッ!
「え……?」
ボリスの横にいた住民の一人が、呆然と声を漏らした。
光芒が着弾した瞬間。
爆発音も、悲鳴も、熱すらも一切発生しなかった。
ただ、使徒が光芒を放った直線上に存在していた、何十軒ものバラック小屋が。
そして、逃げ遅れてその直線上にいた数人の住民たちが。
まるで、絵の具を真っ白な消しゴムで擦って消したかのように、一瞬にして【完全に消滅】したのだ。
あとに残されたのは、綺麗にえぐり取られたような、半球状の滑らかな巨大なクレーターだけ。
泥も、ゴミも、鉄くずも、そして命すらも。
原子の欠片すら残さず、完全に「無」へと還元されていた。
「あ……ぁ……」
ボリスが、自分のすぐ横にあったバラックが跡形もなく消え去った光景を見て、腰から砕け落ちた。
「に、逃げろォォォォォォォッ!!!!」
「神の罰だ! 俺たちは消されるんだぁぁぁッ!!」
パニックに陥ったスラムの住人たちが、悲鳴を上げながら四方八方へと逃げ惑う。
せっかくみんなで片付け、綺麗になりかけていた広場が、再び恐怖と絶望のるつぼへと叩き落とされた。
「どうして……っ。みんな、ただ温かいご飯を食べて、笑い合いたかっただけなのに……ッ!」
アルは、消滅したクレーターを見つめ、唇を噛み切るほど強く噛み締めた。
神の理不尽なルール。
魔力を持たない者は見捨てられ、少しでも幸せになろうとすれば『バグ』として消去される。
こんな世界は、絶対に間違っている。
『――――第一フェーズ、消去完了。続いて、特異点の完全排除を実行する――――』
使徒二体が、同時にアルの方へと向き直った。
四、 絶対零度の光芒
「アル兄ちゃんッ!!」
騒ぎで目を覚ましたトニとマリアが、食堂の奥から泣きながら飛び出してきた。
「トニ! マリア! 出てきちゃダメだッ! 後ろに隠れてて!」
アルは、子供たちを背中で庇うようにして、食堂の前に立ち塞がった。
使徒二体の指先に、先ほどバラックを消し飛ばしたものよりもさらに高密度に圧縮された、純白の消去光芒が集束し始める。
(僕が、止める……ッ! この食堂も、みんなの命も、絶対に消させないッ!)
アルの瞳に、『真理の目』の黄金の輝きが極限まで見開かれる。
アルの視界が、使徒の放とうとしている純白の光芒の内部構造を捉えようと必死に演算を始めた。
どんなに強大な力でも、この世界に存在している以上、必ず『因果の結び目』があるはずだ。
そこへ包丁を滑り込ませれば、解体できる。
そう信じて、光の内部を凝視した。
しかし。
(……見えない……!?)
アルは戦慄した。
使徒の放つ消去の光。そこには、アルがアビスの魔導汚染獣の体内に見たような「魔力の筋」や「毒のアクの結び目」が、一切存在していなかったのだ。
あるのは、ただ純粋な『無』。
すべてをゼロにするという計算式だけが、のっぺりとした球体となって存在しているだけで、包丁を入れるべき「隙間(筋)」がどこにもない。
完璧に計算され尽くした、神の絶対的な暴力の塊。
『――――消去――――』
使徒の指先から、二筋の純白の光芒が、アルたちへ向けて音もなく撃ち放たれた。
「【真理解体】――――ッ!!」
アルは、結び目が見えないまま、己の命の熱『炉』を全開にして、黒鉄の包丁を光芒へ向かって振り下ろした。
無理やりでもいい。この光を切り裂かなければ、みんなが死ぬ。
料理の基本から外れた、ただの「力任せの防御」。
カァァァァァァァァッ!!
黒鉄の刃と、純白の消去光線が激突した。
「う、あぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
アルの両腕の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚から毛細血管が破裂して血が噴き出す。
黒鉄の包丁は、かろうじて消去の光を食い止めていた。アルの『命の熱(炉)』が、包丁を通じて神の『無』のプログラムと真正面から拮抗しているのだ。
だが、結び目を切っていない力任せの防御では、圧倒的な質量の差を覆すことはできない。
ミシッ……ミシッ……。
アルの足が泥に深くめり込み、黒鉄の包丁の刀身が、少しずつ、少しずつアルの顔面へと向かって押し込まれていく。
(熱が……足りない……ッ! 僕の力じゃ……この理不尽を、捌ききれないッ!)
アルの視界が、消去光線の放つ絶望の白に染まっていく。
腕の感覚が麻痺し、意識が遠のきそうになる。
「アル兄ちゃぁぁぁぁんッ!!」
背後で、トニとマリアの悲鳴が聞こえる。
「アル……チキショォォォォォォッ!!」
遠くの瓦礫の中から、カルムが折れた体を引きずりながら、血の涙を流して叫んでいる。
だが、誰一人として、アルを助けに入ることはできない。
近づけば、その瞬間に消去の光に飲み込まれ、ゼロにされてしまうのだから。
(ダメだ……包丁が、弾かれる……っ!)
神の絶対的な暴力の前に、少年料理人の包丁は無力なのか。
泥水とパンの味を忘れ、ようやく手に入れた温かい食卓は、このまま完全に消去されてしまうのか。
純白の光がアルの黒鉄の包丁を弾き飛ばし、その小さな身体を完全に飲み込もうとした、まさにその絶体絶命の瞬間。
アルの瞳が、最期の抗いとして見開かれた。
キィィィィィィィィン――――ッ!!
天空から。
分厚い煤煙の雲を切り裂いて。
使徒の消去光芒を真横から両断するような、目も眩むような『青白銀の幾何学極光』が、一直線にスラムの広場へと撃ち降ろされたのだ。
ズバァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!!!!
「な……ッ!?」
アルを押し潰そうとしていた使徒の純白の光芒が、その青白銀の極光の刃によって完璧に弾き飛ばされ、上空へと逸れて爆発した。
『――――予期せぬ高位聖術の介入を検知――――』
使徒の顔面の黄金線が、僅かに揺らぐ。
土煙と光の粒が舞い散る中。
アルの目の前に、静かに舞い降りた一つの影があった。
眩いばかりに磨き上げられた、白銀の聖騎士の甲冑。
風になびく美しい銀髪と、神聖な青い瞳。
その手には、先ほどの極光を放った、幾何学模様の光を纏う巨大な『聖剣』が握られていた。
「……間に合ったか」
凛とした、しかしどこか悲哀を帯びた女性の声。
彼女は、アルたちを背中で庇うようにして、上空の使徒たちへと鋭い視線を向けた。
「神の御遣いよ。……罪なき民を虫ケラのように消し去るのが、あなた方の言う『救済』か」
アルは、息を荒げながら、膝をついたままその気高き騎士の背中を見つめた。
それは、アルたちが後に深く関わることになる、教国ルミナの最強の盾。
【聖騎士長エレナ・ルミナス】。
絶望の淵に立たされた第十三スラム街に、不滅の騎士の極光が介入した。
神の使徒との、真なる戦いの火蓋が、いま切って落とされようとしていた。




