第69話:白銀の教国
一、 長き階段と凍てつく空気
暗く冷たい石段を、一歩、また一歩と踏み締める音が響く。
海洋都市アクアリアの船長ギルが教えてくれた、防壁の最下層にある天然の海食洞。そこから教国ルミナの本土(地上)へと繋がる隠し階段は、まるで巨大な怪物の喉の奥を登っていくかのように、果てしなく、そして薄気味悪い静寂に包まれていた。
「……寒いね」
階段の先頭付近を歩くアルが、身を縮めながら小さく吐息を漏らした。
彼の口から出た息は、真っ白な結晶となって空中に舞い、すぐに音もなく消え去っていく。
エプロンの下に着込んだ厚手のシャツ越しにも、肌を刺すような鋭い冷気が容赦なく体温を奪おうとしていた。
「ああ。高度が上がるにつれて、教国の『神聖抑圧マナ』の濃度が劇的に上がってきている。……ただの冷気じゃねぇ、マナそのものが俺たちの体温を否定してきやがるんだ」
カルムが、アルの後ろから歩み寄り、自身の右拳にぽっと炎を灯した。
それは、彼が深海の死闘で掴み取った『群青と緋色の極光炎』であった。燃え盛る暴発的な炎ではなく、暖炉のように静かで、深く、優しい熱を持った火。
カルムがその拳をアルの背中にそっと近づけると、アルの身体を包み込んでいた凍てつく冷気が嘘のように溶け去り、ぽかぽかとした温もりが全身に行き渡った。
「ありがとう、カルム。すごく温かいよ」
アルが振り返り、ほっとしたように微笑む。
「へっ、これくらいどうってことねぇよ。お前が風邪でも引いたら、最高のメシが食えなくなるからな」
カルムは不敵に笑い、左手でアルの肩を軽く叩いた。
自分の炎が、仲間を温めるために役に立っている。その実感が、カルムの足取りを何よりも力強いものにしていた。
「ワタクシの環境センサーでも、外気温度そのものは極端に低くありません。……しかし、大気中に含まれるマナの波形が、人間の『感情』や『生体熱』を感知すると、それを中和・冷却しようと自動的に作用しています。……これが、主神アルファの管理プロトコル【大氷期】の予兆です」
オルタが、自身の小さな体に背負ったリュックの肩紐を握りしめ、ルビー色の瞳を明滅させながら報告した。
「その通りだ、オルタ」
最後尾を歩くエレナが、聖剣を杖代わりにしながら、重々しい声で頷いた。
「教国に近づけば近づくほど、怒りや悲しみはもちろん、喜びや愛情といった『熱』すらも、世界を乱すノイズ(バグ)として弾き出そうとする。……教国ルミナとは、そういう場所なのだ」
エレナの表情は、どこか硬かった。
かつて、自分が絶対の正義だと信じ、命を捧げていた故郷。しかし今、彼女は教国を裏切った反逆者として、この冷たい空気を肌で感じているのだ。
アルは、そんなエレナの顔を見て、何か温かい言葉をかけようとしたが――。
「アル! 頭上、残り五〇メートルで出口です!」
オルタの声が、階段の静寂を破った。
「よしっ。行くぞ、みんな」
アルが、腰の『黒鉄の包丁』の柄を固く握り締めた。
長く苦しい階段の果て。
そこには、分厚い白亜の石で造られた、巨大な隠し扉が重く閉ざされていた。
「俺が開ける。下がってな」
カルムが前に進み出た。彼は極光炎を纏わせた両手を石扉の隙間に差し込み、己の筋力とマナの熱膨張を利用して、ギギギギギギギ……と、何百年も開かれたことのない重い扉を、力任せに押し開いた。
眩いばかりの光が、暗い階段に一気に流れ込んでくる。
四人は、目を細めながら、ついにその隠し扉を抜け、教国ルミナの大地へと足を踏み入れた。
二、 感情なき白銀の世界
「……っ!」
外に出た瞬間、アルは息を呑んで立ち尽くした。
アルたちがこれまで旅をしてきた世界――スラム街の泥臭く淀んだ路地、ガレアの緑豊かな廃墟、アガルタの赤錆びた地下都市、そしてアクアリアの潮の香り漂う活気ある港町。
そのどれとも、根本から全く異なる光景が、彼らの眼前に広がっていたのだ。
「なんだこりゃあ……」
カルムも、驚きに目を見開いたまま声を失った。
白。
圧倒的な、狂気すら感じるほどの『白亜の世界』であった。
足元に広がる石畳は、一点のシミも汚れもない、磨き上げられた真っ白な大理石のような材質で敷き詰められている。
立ち並ぶ巨大な建造物群も、すべてが白を基調とした神聖金属と石材で構築され、幾何学的に、一ミリの狂いもなく整然と配列されていた。
屋根の形も、窓の大きさも、すべてが同一の規格で作られ、個人の個性や装飾といった「無駄」は一切存在しない。
空を見上げれば、太陽の光すらも、防壁から放たれる青白い神聖マナの結界を通して降り注いでいるため、温かみのある黄金色ではなく、手術室の照明のような冷たく無機質な光となって街を照らしている。
「土の匂いが……全くしない」
アルが、鼻をヒクヒクと動かして呟いた。
植物一つ生えていない。動物の姿もない。泥の匂いも、生活の匂いも、何一つ感じられない。
まるで、世界全体が巨大な「無菌室」の中に閉じ込められているかのような、恐ろしいほどの清潔さと冷たさだった。
そして、その白銀の幾何学都市の遥か彼方、大陸の中心部。
雲を突き抜け、天の頂すらも貫く圧倒的な巨大さでそびえ立つ、白亜の超巨大タワー。
遠く離れたこの場所からでも、その威容と、塔から放たれる凄まじい神聖マナの波動が、肌をビリビリと震わせるように伝わってくる。
「あれが……【神座の塔】」
アルは、その塔を真っ直ぐに見つめた。
あの冷たい塔の頂上で、自分の命を救ってくれた恩人が、たった一人で囚われ、世界を温めるために抗い続けている。
「……ようこそ、私の故郷へ」
エレナが、静かに彼らの横に並び立った。
その横顔は、かつての最高位聖騎士としての厳格さを取り戻したかのように、冷たく引き締まっていた。
「これが、主神アルファが君臨し、世界を管理する絶対聖域……白銀の教国ルミナだ。……君たちのような『体温』を持った人間にとって、これほど息苦しい場所は他にないだろう」
「ワタクシの生体回路も、この街の空間波形と激しいノイズを起こしています。……まるで、存在すること自体を否定されているような感覚です」
オルタが、自身の両腕を抱え込むようにして震えた。
「へっ、上等じゃねぇか」
カルムが、右拳の炎をさらに強く燃え上がらせた。
「どれだけ空気が冷たかろうが、俺のこの火は消えねぇ。……こんな気味の悪りぃ白装束の世界、俺の炎で全部あたたかく色付けしてやるよ」
三、 息を潜める街の人々
「隠れてッ!」
エレナの鋭い小声とともに、四人は巨大な白亜の柱の陰へと素早く身を隠した。
隠し扉から抜け出した場所は、どうやら巨大な神殿のような建物の裏手にあたるらしく、目の前には街の大通りが走っていた。
大通りを、教国の住人たちが歩いている。
アルは、柱の陰からそっと顔を出し、その光景を見て、再び強い衝撃を受けた。
「……みんな、同じ服を着てる」
大通りを行き交う何百人という人々は、老若男女問わず、全員が一切の装飾のない、全く同じデザインの真っ白な修道服のような衣服を身に纏っていた。
だが、アルが一番驚いたのは服ではなかった。
彼らの『顔』だ。
誰も、笑っていなかった。
誰も、怒っていなかった。
誰も、泣いていなかった。
隣を歩く者同士で雑談を交わすこともなく、ただ前だけを向き、一定の歩幅で、一定の速度で、まるでゼンマイ仕掛けの人形のように、無言で歩き続けている。
「おいおい……なんだよあいつら。生きてんのか?」
カルムが、信じられないものを見るように顔をしかめる。
「子供まで……あんな顔してる」
アルの視線の先には、両親らしき大人と手を繋いで歩く小さな子供の姿があった。
しかし、その子供も、スキップをしたり、おもちゃをねだったり、親の顔を見上げて甘えたりすることは一切なかった。ただ無表情に、親と同じペースで足を動かしているだけだ。
『――――大通りを歩く住民の生体データをスキャン中……――――』
オルタが、ルビー色の瞳を明滅させ、小声で報告した。
「彼らは……生命活動は正常に行われていますが、脳波の『感情野』におけるマナの変動が、不自然なほど完全にフラット(平坦)に固定されています」
「固定されてる……?」
「はい。教国の神聖抑圧マナによって、喜怒哀楽といった感情の起伏が、発生する前に強制的に中和・抑制されているのです。……彼らは、悲しみや怒りを感じない代わりに、喜びや楽しさも一切感じることができません」
オルタの言葉に、アルの胸がギュッと締め付けられた。
スラム街の人々は、お腹を空かせて怒り、泣いていた。
アクアリアの人々は、海竜に怯え、そして最後には腹の底から大声で笑い合っていた。
それは、人間が生きている証の『体温』だ。
だが、この教国の人々には、その体温が全く感じられない。ただの、歩くための機械になってしまっている。
「……教国において、感情の揺らぎは、争いを生み、完璧な計算式を狂わせる『罪』だ」
エレナが、柱の陰で、苦しげに言葉を紡いだ。
「幼い頃から、徹底した教律と抑圧マナの環境下で育つことで、彼らは『何かを感じる』という機能そのものを退化させていく。……主神アルファが理想とする【絶対の静止(大氷期)】とは、誰も争わず、誰も苦しまない代わりに、誰も笑わない……この凍りついた平和のことなのだ」
四、 奪われた食卓と料理人の怒り
「そんなの……平和なんかじゃないよ」
アルの、低く、しかし怒りに満ちた声が響いた。
普段は誰よりも優しく、温厚なアルの漆黒の瞳に、激しい『炉』の炎がチリチリと燃え上がっていた。
「そんな風に心を凍らせて、ただ息をしてるだけなんて……生きてるって言えないよ」
アルは、大通りを歩く人々を見つめた。
彼らの手には、買い物の荷物などは一切なかった。市場のような場所も、屋台の匂いも、この街には一切存在しない。
「エレナさん。この街の人たちは……ご飯はどうしてるの?」
アルが尋ねた。
エレナは、少し目を伏せ、辛そうに答えた。
「……この街に『料理』という概念はない」
「え……?」
「教国ルミナにおいて、食事とは、肉体を維持するための『栄養摂取』という作業に過ぎない。味付けや盛り付けといった装飾は、人間の欲望(感情)を刺激する罪悪とみなされる。……街の住民には、一日に二回、神託機関から完全に成分計算された『味のしない白いペレット(栄養固形物)』と、浄化された水だけが配給される」
「味のしない……ペレットだけ……!?」
アルの瞳が、驚きに見開かれた。
「家族で食卓を囲むことも、誰かのために味付けを工夫することも、美味しいと笑い合うことも……この国では、すべてが不要なノイズとして禁止されているのだ」
その言葉を聞いた瞬間。
アルの胸の奥底で、料理人としての魂が、かつてないほどの激しい怒りと悲しみで爆発しそうになった。
美味しいご飯は、人の心を温める。
冷たい世界で、凍えそうになった命を繋ぎ止めてくれる。
アル自身が、スラムのゴミ捨て場でそのスープに命を救われ、その温かさを繋ぐために包丁を握ってきたのだ。
それを、「欲望だ」「ノイズだ」と言って、人間から根本から奪い去るなんて。
「……許せない」
アルは、腰の『黒鉄の包丁』の柄を、ギリィッと強く握り締めた。
「ご飯を食べるのは、作業なんかじゃない。命と命が繋がって、ありがとうって笑い合うための、一番大事な時間なのに……。それを奪うなんて、絶対に間違ってるッ!」
アルの体から、微かにだが、黄金の温かなマナの波動が漏れ出した。
それは、教国の冷たい抑圧マナに真っ向から反発し、周囲の空気をチリチリと温め始める。
「おいアル、落ち着け! マナを漏らすなッ!」
カルムが慌ててアルの肩を掴む。
しかし、遅かった。
五、 監視の目と白銀の追跡者
ピィィィィィィィンッ!!!!
突然、白亜の街の静寂を切り裂くように、無機質で高い警報音が鳴り響いた。
大通りに一定間隔で設置されていた、街灯のような白い柱の先端が、一斉に赤く発光し始める。
『――――警告。第肆セクターにおいて、未登録の生体熱反応(感情ノイズ)を検知。……教律違反レベル、特A。直ちに排除シーケンスへ移行します――――』
街中に響き渡る、教国の自動アナウンス。
その声に反応し、大通りを歩いていた無表情な住民たちが、一斉にピタリと足を止め、無言のまま、建物の中や物陰へと、まるで統率されたアリの群れのように整然と退避を始めた。
「チッ……! やっぱりこの街全体が、バカデカい監視装置になってやがるのか!」
カルムが、舌打ちをして拳を構える。
「申し訳ありません、アル! ワタクシの隠蔽プロトコルでは、アルの放った強い感情のマナ(体温)を完全に遮断しきれませんでしたっ!」
オルタが、焦ったようにホログラムパネルを操作する。
「ううん、オルタのせいじゃない。僕が怒りを抑えきれなかったからだ。……ごめん」
アルが、包丁を抜き放ちながら謝った。
「謝っている暇はないぞ! 来るッ!!」
エレナが聖剣『星霜』を構え、三人の前に立ち塞がった。
ズザザザザザザッ!!
アルたちが隠れていた神殿の裏手、大通りの両側から、純白の甲冑に身を包んだ兵士の一団が、足糸一つ乱さぬ完璧な陣形でなだれ込んできた。
その数、ざっと五十名。
彼らの甲冑の胸には、教国ルミナの主神アルファを象徴する、冷たい幾何学模様の紋章が刻まれている。
彼らの顔は、感情を持たない街の住民たちと同じく、氷のように冷たく、一切の迷いも恐怖もない、完全なる「排除の機械」の目を持っていた。
「【神聖騎士団】の防衛部隊か……!」
エレナが、歯を食いしばる。
かつて自分が率いていた組織。その冷酷な陣形を、彼女は誰よりも熟知していた。
「標的、四名。うち一名、元・最高位聖騎士長エレナ・ルミナスと確認」
騎士団の先頭に立つ小隊長らしき男が、無感情な声で告げた。
その手には、神聖マナを帯びた長槍が握られている。
「教律により、異端者ならびに反逆者を、即刻排除する」
騎士団が、一斉に長槍を構え、アルたちへ向かって無言のまま殺到してきた!
「……やらせるかよッ!!」
カルムが、真っ先に前へ飛び出した。
彼の右拳に、群青と緋色の極光炎が爆発的に燃え上がる。
「お前らのその冷たい氷の甲冑ごと……俺の炎でドロドロに溶かしてやるよッ!」
【我流神殺・群青緋炎弾】ッ!!!!
カルムの拳から放たれた極光の炎弾が、冷たい白銀の街を焦がし、迫り来る聖騎士団の陣形へと真っ直ぐに叩き込まれた!
ついに足を踏み入れた最終決戦の地、絶対聖域【教国ルミナ】。
感情と食卓を奪われた無機質な世界で、少年料理人の怒りと不滅の体温が、神の冷酷な計算式に真っ向から牙を剥く。
チーム『最高の厨房』と教国との、世界の温度を懸けた全面戦争が、いよいよ激しく幕を開けたのであった!




