第6話:温かいスープの記憶
この話から1話まるっと投稿します。
投稿ペースは1日3回から2回に調整させてください。
12:00、18:00
よろしくお願いします。
一、 スラムの広場と大厨房
廃棄区画の泥と有毒な瘴気を抜け、アルとカルムが第十三スラム街へ戻ってきた頃には、上層の工場群が吐き出す赤黒い煙の合間から、かすかな夕闇の紫煙が垂れ込めていた。
二人が抱えてきたのは、巨大な布で厳重に包まれた【魔導鉄甲獣・アビス・クロウラー】の残骸から得た、大量の極上食材だ。
アルの『黒鉄の包丁』によって毒を完全に抜き去られ、滑らかな白身となって透き通るそのカニのような肉塊は、布越しであってもほんのりと温かく、甘く芳醇な生命の香気を漂わせていた。
「ただいま、トニ、マリア!」
バラックの前にたどり着いたアルが声をかけると、中でじっと待っていた子供たちが弾けたように飛び出してきた。
「アル兄ちゃん! カルムのお兄ちゃん!」
「おかえりなさい! 怪我はない!?」
「おう、無事だぞ。見てみろ、大漁だ!」
カルムが自慢げに肩の巨大な布包みをドサリと泥地に下ろした。
布の隙間から覗く、水晶のように輝く白い肉塊を見て、トニとマリアは「わぁ……!」と歓声を上げ、目を丸くして手で触れようとした。
「すごい……! こんなに大きなお肉、生まれて初めて見たよ!」
「アル兄ちゃん、これ、ホントに食べられるの!?」
「うん、すごく美味しいよ。今夜はね、バラックの中だけじゃなくて、スラム街の広場で大きな鍋を作ろうと思うんだ」
アルの言葉に、カルムが「あぁん?」と眉をひそめた。
「広場でだぁ? なんでそんな面倒なことすんだよ。俺たちだけで腹いっぱい食えばいいだろ」
アルは、黒鉄の包丁の柄にそっと手を触れながら、壊れかけたバラックの向こう側――ボリスたちの襲撃で家を壊されたり、寒さと飢えに怯えて暗闇の中で縮こまっているスラムの住人たちの姿を見つめた。
「カルム。お肉はね、たくさんあるんだ。僕たちだけじゃ食べきれないくらい。……それに、温かいものを一人で食べるより、みんなで食べた方が絶対に美味しいから」
アルの真っ直ぐな漆黒の瞳には、一切の打算もなかった。
カルムは呆れたように大きなため息をついたが、その口元にはどこか苦笑いが浮かんでいた。
「チッ……お前はホントにお人好しだな。まあいいや、俺に食わせる分さえ残ってりゃ好きにしろ。重たい大鍋を運ぶのは俺がやってやるよ」
「ありがとう、カルム!」
スラム街の真ん中にある、廃棄された錆びついた蒸気ボイラーの跡地。
そこが、今夜の即席の「大厨房」となった。
カルムがどかされた巨大なボイラーの鋳鉄製の蓋を、そのまま直径一メートルを超える特大の鍋として据え付ける。
トニやマリア、そしてアルの呼びかけに集まってきたスラムの子供たちが、壊れた家屋の廃材や乾いた木くずを集めてきて、鍋の下に積み上げた。
「おい……アルのガキ、本当にメシを配るつもりなのか……?」
「ボリスを倒したあの赤髪の男も一緒だぞ……罠じゃないだろうな……」
遠巻きに様子を窺っていたスラムの大人たちが、ヒソヒソと怯えたように囁き合っている。
スラム街において、「タダで食べ物を配る」などという親切は存在しない。何か裏があるか、毒が入っているか、奴隷として買いたたくための誘い水か。そうやって互いを疑い、傷つけ合って生きていくのが、神の管理から見捨てられた第十三スラム街の掟だったのだ。
しかし、アルはそんな周囲の猜疑心など意に介さず、静かに包丁を構えた。
トントン、トントン、トントン――――。
静まり返ったスラムの広場に、軽やかで心地よい刃の音が響き渡り始めた。
アルの手元で、黒鉄の包丁が吸い込まれるように極上の肉塊へと滑り込んでいく。
『真理の目』で見極めた筋に従い、身を崩さず、旨味が一番外へ溶け出しやすい厚さへと、削ぎ切りにされていく白身の肉。
さらには、スラムの住民たちが「こんなもの食べられない」と捨てていた根菜の皮や、路地裏に群生していた苦い野草。アルの手にかかると、それらの「ゴミ」に見えた食材の中にひそむ毒素だけが綺麗に削ぎ落とされ、味わい深い隠し味へと変貌を遂げていく。
【真理解体・下ごしらえ】。
アルの包丁の手さばきに合わせ、刃先からパラパラと舞い散る黄金色の光の微粒子。
それを見た大人たちの目が、次第に驚愕へと変わっていった。
「な……なんだ、あの包丁の動きは……」
「品物(肉)から……綺麗な光が溢れてる……!?」
パチパチパチッ!
カルムが、巨大な鋳鉄鍋の下の薪に、自身の赤い魔力炎で火をくべた。
弱火からじっくりと熱を伝え、適温を維持する「火加減」のコントロール。
鍋を満たした井戸水が沸き立ち、そこへアルが丁寧に下ごしらえを終えた肉と根菜、野草を投入した。
ジュワァァァァァァァァァァッ……!
その瞬間であった。
スラム街の暗闇を、そして住人たちの鼻腔と胸の奥底を、かつて誰も体験したことのない「芳醇な命の香り」が爆発的に突き抜けた。
二、 湯気と笑顔の食卓
「……っ!?」
冷たい鉄錆と油の臭いに塗れていたスラム街の空気が、一瞬にして一変した。
カニ肉の濃厚な旨み、根菜の優しい甘さ、そして野草がもたらす爽やかな香気が、温かな湯気となって空へ広がっていく。
「う……うそだろ……。これ、本当に料理の匂いなのか……?」
「お腹が……ぐうって鳴った……」
「こんな匂い……見たことも聴いたこともないぞ……!」
吸い寄せられるように、一人、また一人と、暗がりから住人たちが姿を現した。
骨と皮ばかりに痩せこけた男、病気で伏せっていた老婆、飢えで泣く赤ちゃんを抱いた母親。
彼らの手には、使い古されたボロボロのお椀や、凹んだ缶缶が握られていた。
アルは、大鍋から立ち上る黄金色の湯気を背に、優しい笑顔で住人たちに向き直った。
「みんな、温かいスープができたよ。火傷しないように、順番にお椀を出してね」
「あ、アル……本当に、俺たちにくれるのか……? 金も、栄養錠剤も持ってないんだぞ……」
震える声で尋ねる痩せた男に、アルは小さく首を横に振った。
「お金なんていらないよ。……温かいものを食べたら、お腹がいっぱいになって、少しだけ笑顔になれるでしょ? 僕は、みんなに『美味しい』って笑ってほしいだけなんだ」
アルがお玉ですくい、男の差し出したボロボロの缶缶へ、たっぷりと湯気の立つスープと大きな肉の塊を注ぎ入れた。
男は、信じられないというように缶缶を見つめ、震える手でそれを口元へ運んだ。
ズズッ……。
一口。
その瞬間、男の全身がビクッと跳ね上がった。
「あ……あぁぁぁ……っ! う、美味ぇ……っ! 美味ぇよぉぉぉっ!!」
男の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出た。
膝から地面へ崩れ落ち、缶缶を抱え込むようにして、がむしゃらにスープを啜り、ホロホロと溶ける肉を咀嚼する。
「温かい……! お腹の底が……胸の奥が……こんなに温かいなんて……ッ! 俺、生きててよかった……ッ!」
その男の姿を見て、他の住人たちも一斉にアルの元へと押し寄せた。
「私にもくれッ!」
「子供に……この子にスープを飲ませてやってくれぇッ!」
「順番だよ、みんなの分はあるから!」
アルは笑顔で、一人ひとりのお椀へ丁寧にスープを盛り付けていった。
カルムも、最初は不機嫌そうに腕を組んでいたが、住人たちがスープを飲んで「美味しい、美味しい」と涙を流す姿を見て、鼻の下を擦りながら不器用にお玉を手伝い始めた。
「へっ……だから言ったろ、アルのメシは世界一だってな! 残さず食えよ!」
暗く、殺伐としていた第十三スラム街の広場が、あっという間に何百人もの温かな歓声と、笑顔で満たされていく。
傷つき、絶望し、神の管理から見捨てられた人々が、一杯の温かいスープを挟んで、互いに顔を見合わせ、笑い合っている。
それは、神が何千年間も作り出せなかった、人間だけの「不滅の食卓」の光景であった。
三、 記憶の奥の黄金スープ
宴が一段落し、夜も深まった頃。
大鍋の薪の火が、パチパチと穏やかな音を立てて爆ぜていた。
腹を満たしたスラムの住民たちは、それぞれのバラックへ戻り、久しぶりの温かな安眠についている。
広場に残っていたのは、アル、カルム、そしてお腹をさすって眠りかけたトニとマリアの四人だけだった。
「ふぅ……美味かった。三杯食っても、まだ食えるな」
カルムが、最後のスープを干し、ふうっと息を吐いた。
「ふふっ、カルムは本当に食いしん坊だね」
アルは、鍋の焦げ付きを布で拭きながら微笑んだ。
カルムは、火の粉が舞う薪を見つめながら、ふと静かな声で問いかけた。
「なあ、アル」
「ん?」
「お前……なんでそんなに『スープ』にこだわるんだ? スラムのゴミ溜めで生まれて、魔力もなくて、周りからは空箱って叩かれてきたんだろ。普通なら、世界を恨むか、自分だけ腹いっぱいになればいいって思うはずだ」
カルムの問いに、アルの手がふっと止まった。
アルは、静かに夜空を見上げた。
分厚い煤煙の向こう側にあるはずの、見えない星々。
「……僕ね、自分の本当のお父さんやお母さんの顔を知らないんだ」
アルの声は、どこか遠くを旅するような、透き通った響きを持っていた。
「気がついた時には、この第十三スラム街の、ゴミ捨て場の冷たい泥の中に転がってた。寒くて、お腹が空いて……もう息もできなくて、死んじゃうのかなって思ってたんだ」
カルムは黙って、アルの横顔を見つめていた。
「でもね……その時、暗闇の中で、誰かが僕をそっと抱きしめてくれた気がしたんだ」
「誰かが……?」
「うん。顔も名前も思い出せないんだけど……その人がね、僕の口元に、一杯の温かいスープを運んでくれたんだ」
アルは、胸の前に両手を優しく重ねた。
その瞳には、懐かしさと、言葉にならない愛おしさが溢れていた。
「そのスープはね……すごく甘くて、香ばしくて、太陽みたいに黄金色に輝いてた。一口呑んだ瞬間、僕の冷え切ってた体の中に、あたたかい火がポッと灯ったんだ」
アルの胸の奥底の『炉』。
魔力ゼロのアルの肉体の中で、生命の情熱として燃え続けるその炉は、まさにその「最初のスープ」を呑んだ瞬間に芽生えたものだったのだ。
「『生きなさい』って……そのスープが、僕に教えてくれた気がしたんだよ」
アルは、カルムに向かって優しく微笑んだ。
「だからね、僕にとってスープは……命そのものなんだ。あの時、僕を救ってくれた温もりを……今度は僕が、お腹を空かせたみんなに届けてあげたい。……それが、僕の料理を作る理由なんだと思う」
「記憶のスープ……か」
カルムは、腕を組み、不器用そうに天井を見上げた。
「へっ……おめでてぇ話だな。どうせ生き倒れそうになったお前が見た、ただの都合のいい夢か幻覚だろ」
カルムはそう吐き捨てたが、その言葉には一切の棘はなかった。
カルムは、自分の胸元をトンと叩いた。
「だが……そのスープのおかげで、今のお前がいて、俺がこんな美味ぇメシを食えてる。……なら、その幻覚のスープを作った何処かの誰かに、俺からも礼を言わねぇとな」
「カルム……ふふっ、ありがとう」
アルは、嬉しそうに八重歯を見せて笑う相棒の顔を見つめた。
しかし――アル自身も、カルムも、まだ知る由もなかった。
アルの脳裏に刻まれていた、その「黄金色に輝く温かいスープの記憶」。
魔力も料理の概念も存在しないはずのこの管理された箱庭世界において、なぜアルの幼少期の記憶に「真なるスープ」が存在していたのか。
それは単なる夢でも、スラムの情け深い誰かの施しでもなかった。
数千年前。
第十三回目の世界が始まるより遥か昔――まだこの世界が神によって管理される以前の『最初の世界』において、主神アルファがたった一人で世界を構築しようとしていた頃に存在した、【創世の真理の味】。
そして、その味の記憶と『真理の目』をアルの魂に遺し、スラムの泥の中にアルを託して消えていった「ある存在」の伏線であったということに。
アルの胸の中で燃える『炉』は、世界を管理する神々の冷たい計算式を解体し、本来の世界の姿を取り戻すための、最初から仕組まれた「奇跡の種子」だったのだ。
四、 湯気の中に舞う微かな光
「ふぁぁ……お腹いっぱいで、眠くなっちゃった……」
トニとマリアが、アルの膝に頭を乗せて、すやすやと心地よい寝息を立て始めた。
「よし、バラックへ運んで寝かせてあげよう」
アルが優しく抱きかかえようとした、その時だった。
シュワァァァァァァァァァッ……!
大鍋の残り湯から立ち上っていた黄金色の湯気。
その湯気の粒が集まり、夜空の月光を浴びて、微かな光の帯を作り出していた。
「ん……?」
アルの『真理の目』が、ふと反応した。
その温かな湯気の中心。
人間たちの「美味しい」という感謝の情熱と、アルの再創生のマナが交差した空間に――。
ぽつん、と。
緑色の小さな、【一筋の光の芽(精霊の種子)】が、奇跡のように空間に浮かび上がり、クルクルと愛らしく舞い踊ったのだ。
「いま……何か光ったような……?」
アルが目を細める。
『ピキュ……?』
微かな、風の鈴のような甘い声。
だが、その光の芽は、アルが手を伸ばそうとした瞬間に、パッと弾けるように湯気の中に溶けて消えてしまった。
「どうかしたか、アル?」
トニをひょいと肩に担ぎ上げたカルムが振り返る。
「ううん……なんでもない。気のせいかな」
アルは頭を振った。
まだ芽吹いたばかりの、世界樹の精霊の気配。
やがて彼らの旅の途中で、四人目の大切な仲間として巡り会うことになる【精霊ポロン】の魂の芽生えが、アルのスープの温もりによって、このスラムの夜に静かに引き寄せられていたのだ。
温かな食卓。
仲間との絆。
そして、かすかに芽生え始めた希望の種。
スラム街の夜は、これまでにないほど穏やかで、優しさに満ちあふれていた。
五、 雲の上の純白の影
地上から遥か数万メートル上空。
黒鉄の街を覆う分厚い煤煙の雲を遥かに超えた、神々の領域『神界エデン』の下層境界線。
そこは、人間の住む地上とは完全に隔離された、絶対の白磁と黄金の光が巡る真空の回廊であった。
その回廊の空間が、ピリッ……と音を立てて、ガラスのようにひび割れた。
ひび割れの奥から滑らかに滑り出してきたのは――身の丈三メートルを超える、二つの純白の神聖存在。
背には六枚の幾何学の光翼が羽ばたき、身には一切の継ぎ目のない白磁の神聖装甲。顔面には目も鼻もなく、滑らかな鏡のような面に、ただ一筋の「黄金の縦線」が刻まれている。
主神アルファの直属粛清兵器――【第一使徒・神聖執行機】。
『――――観測領域・第十三スラム街の座標を特定――――』
使徒の顔面の黄金線が、不気味な七色の光を明滅させ始めた。
その思考システムには、先ほどアルがスラム街の広場で作り出した「再創生スープ」から放たれた生命マナの波形が、ハッキリと記録されていた。
『――――当エリアにおいて、管理コード【非正規の創生波動】の連続発生を確認――――』
『――――対象波動は、神の定めた物理法則(エネルギー保存の法則)ならびに、精神管理プロトコルを著しく阻害するバグ因子と判定――――』
使徒の手の中に、す……と一本の幾何学の槍が生成された。
その槍の先端から漏れ出すのは、触れた物質の分子結合を完全に解体・無へ還元する、絶対の「消去光線」。
『――――主神アルファ様の命に基づき……当エリアの【バグ個体・アル】の捕獲、ならびに第十三スラム街全域の『初期化(全消去)』を開始する――――』
『――――粛清シークエンス、起動――――』
不吉な純白の光が、二機の使徒の全身を包み込む。
彼らは無音のまま幾何学翼をはためかせ、地上――アルとカルムたちが眠る第十三スラム街めがけて、一直線に降下を開始した。
神の理不尽な滅びの足音が、すぐそこまで迫っていた。




