第150話:地上の抵抗勢力
一、 アガルタの拡張と、最強の厨房
空を覆い尽くしていた紫色の重力雲が消え去り、アガルタの地上口に真の夜明けが訪れようとしていた。
東の地平線が淡い黄金色に染まり、澄み切った大気を通して、朝の光が黒曜石の大地を優しく照らし出し始める。
世界中からアガルタへ向けて、レジスタンスや離反兵、スラムの民など、無数の人間たちが集結しつつあるという報告を受けたアガルタの民衆たちは、一睡もすることなく、巨大な受け入れ態勢の構築に奔走していた。
「……そこの瓦礫の山、もう少し右へズラせ! 居住区のテントを張るスペースが足りねぇぞ!」
「地下の貯蔵庫から、麦と干し肉をあるだけ地上へ運び出せ! 万単位の人間が押し寄せてくるんだ、メシの準備を急ぐんだ!」
レジスタンスの老技師や兵士たちが飛び回り、怒号のような指示を飛ばす。
しかし、その声に悲壮感はない。誰もが顔を煤や泥で汚しながらも、その瞳には活力と、新しい世界を自分たちの手で作り上げるという強烈な希望の光が宿っていた。
「……おいおい、力仕事なら俺に任せとけ」
瓦礫の山を前にして汗を拭っていた男たちの前に、カルムがフラリと歩み出た。
彼は生身の右手を軽く振ると、指先から『赤蓮の概念炎』を極薄の刃のように放ち、数十トンはある巨大な大理石の瓦礫を、まるで豆腐を切るように十字に斬り刻んだ。
そして、切り分けられた瓦礫を左手の『理刃』の熱で一瞬にしてドロドロに融解させ、そのまま平らな石畳の地面へと成形し直してしまったのだ。
「……ほらよ。これでテント百張りは余裕でいけるだろ。基礎もしっかり固めておいたぜ」
カルムがニッと八重歯を見せて笑う。
「さ、さすがはカルム様……! 瓦礫の撤去と整地を数秒でやってのけるなんて……!」
男たちが目を丸くして驚愕する中、カルムは「様付けはすんなって言ってんだろ」と呆れたように頭を掻いた。
その傍らでは、少年料理人アルが、これまでにないほど真剣な顔つきで、巨大な即席厨房の指揮を執っていた。
「……ここからあそこまで、全部竈門を並べるよ! 鍋はアガルタにあるだけ全部出して! 食材の仕分けは、根菜チームと肉チームに分かれて並行作業で進めて!」
アルの声に従い、アガルタの女性たちや子供たちが、一丸となって食材の下処理を進めていく。
アルの黄金の左目——【真理の目】は、数万人の腹を満たすための最も効率的な調理手順と、食材のマナの配分を完璧に計算し尽くしていた。
「カルムの火があれば、どんな大量のスープでも一瞬で旨味を引き出せる! みんなが到着した瞬間に、一番温かくて美味しいご飯を食べてもらえるように、完璧な仕込みをするんだッ!」
戦うためだけの砦ではなく、すべての人を迎え入れ、癒やすための【世界最大の食卓】。
アガルタの地上口は、二人の少年の力と民衆の団結によって、急速にその姿を巨大な希望の都市へと変貌させつつあった。
二、 天門の沈黙、冷酷なる傍観者
一方、その頃。
地上から遥か彼方、星の成層圏に浮かぶ使徒たちの居城『天門』の中枢システムルーム。
そこは、地上の熱気と活気とは対極にある、絶対零度の静寂と冷酷な機械音だけが支配する空間であった。
巨大な水晶盤の前に立つ使徒エノクは、眼鏡の奥の瞳に一切の感情を浮かべることなく、地上のアガルタ周辺へと集まりつつある無数の光点(生命反応)を見下ろしていた。
『……バアルが消滅し、星喰いの楔が全損。……エラー個体・カルムの影響は、もはや局地的なものではなく、この星の全システムを侵食するパンデミックへと発展したわね』
使徒メリエルが、苛立ちを隠しきれない様子で、美しい指先でコンソールを弾く。
『エノク。このまま地上を放置するつもり? 奴らがアガルタで群れを成し、天門への反逆の軍を組織しようとしているのは明白よ。……今のうちに、天門に保管されている残りの戦略級神造兵器を全て投下して、あそこを更地にすべきだわ!』
メリエルの声には、隠しきれない焦燥が含まれていた。
不滅であるはずの同胞バアルが、ただの人間によって肉体もろとも解体され、次元の彼方へ消え去ったという事実は、彼女の絶対的な優越感を根底から揺さぶっていたのだ。
『……否だ、メリエル』
エノクは、コンソールから視線を外すことなく、冷ややかに答えた。
『特異点カルムの「概念を解体する炎」は、物理的な質量やマナの飽和攻撃では防ぎきれないことが、バアルの戦闘データによって証明された。……今、中途半端に兵力を逐次投入しても、彼の炎の餌食となり、いたずらにこちらのシステムリソースを消耗するだけだ』
『じゃあ、どうしろと言うの!? 奴らが天門まで登ってくるのを、指をくわえて待てと言うの!?』
『……その通りだ』
エノクの言葉に、メリエルが目を見開く。
『彼らが地上で結集し、一つの巨大な群れとなる。……それは我々にとって、計算外のバグを「一箇所に集めて一網打尽にする」ための、絶好のデフラグ(最適化)の機会でもある。
彼らがこの天門(神の領域)へと至るためには、必ず『星の軌道エレベーター(バベルの塔)』を起動させなければならない。……ならば、その塔の最上層に【絶対迎撃の箱庭】を構築し、彼らが登り切った瞬間を狙って、天門の全エネルギーを以て空間ごとフォーマットする』
エノクの眼鏡の奥で、無数の幾何学模様が冷たく明滅する。
『バグは、群れれば群れるほど、その処理を一度で済ませることができる。……地上のゴミどもがどれほど集まろうと、神の領域の高度には耐えられまい。……泳がせておけ。最後に笑うのは、完璧な計算だ』
神の使徒たちは、地上の熱狂をあえて静観し、天門攻略戦という最終局面に向けた、最も冷酷で巨大な罠を張り巡らせようとしていた。
三、 潮騒の反逆者、アクアリアの船団
天門の使徒たちが冷酷な計算を巡らせている間にも、地上の抵抗勢力たちは、それぞれの絶望を乗り越え、アガルタへ向けて怒涛の進軍を続けていた。
教国ルミナの大陸最南端に位置する、巨大な沿岸都市『アクアリア』。
数時間前、使徒エノクが重力楔を投下した際、狂乱した自然マナの影響で、この港町は数十メートルに及ぶ巨大な津波に飲み込まれようとしていた。
しかし、カルムが空を切り裂き、重力の法則を解体したあの瞬間。津波を形作っていたマナの暴走もまた嘘のように消え去り、海は本来の穏やかな姿を取り戻したのだ。
「……野郎どもッ! 帆を張れェェェェッ! エンジン(魔導機関)を全開にしろォォォッ!」
荒野と化した大陸の街道を、信じられない光景が進んでいた。
巨大なガレオン船の船底に、何十個もの魔導駆動の車輪を取り付け、陸上を地響きを立てながら爆走する『陸上戦艦』の群れである。
その先頭を走る旗艦の舳先に立ち、潮風ならぬ土煙を全身に浴びて豪快に笑っているのは、アクアリアの海賊船団を束ねる大男、船長バルバロスであった。
彼は、教国の厳しい海上管理に反発し、海を自由の象徴として愛し、教国の神殿艦隊と何度もドンパチを繰り広げてきた海の男たちの頭目である。
「……神様のバケモノが引き起こした津波から、俺たちを救ってくれたあの『紅い光』! そして、空が晴れた瞬間に胸の奥に届いた、最高に温かいあの熱(スープの体温)! ……俺の海の男としての勘が叫んでやがる! アガルタに、俺たちの命を賭けるにふさわしい、とんでもねぇ『本物の船長』がいるってなァッ!」
バルバロスが巨大な戦斧を振り上げると、陸上戦艦に乗った数百人の荒くれ者の船乗りたちが、一斉に野太い歓声を上げた。
「「「アイアイサーーーーッ!!!!」」」
「……教国の連中に海を縛られ、神様に命を弄ばれる時代は終わった! 俺たちは自由だ! アガルタに集まった仲間たちと一緒に、今度は俺たちが神様の居城(空の船)を沈めにいくぞォォォッ!」
大地の海を爆走するアクアリアの船団。
彼らは、海の男特有の強烈な連帯感と、どんな荒波にも屈しない豪快な生命力を武器に、アガルタという新たな港へ向けて、猛烈な速度で突進を続けていた。
四、 聖都ルミナの離反者たち
一方、アクアリアの船団とは全く異なる、整然とした規律を保ったままアガルタへ向かっている集団があった。
教国の首都、聖都ルミナの近郊に広がる森の中。
白銀の甲冑を黒い布で覆い隠し、教国の紋章を自らの剣で削り落とした数百人の兵士たちが、一切の私語を発することなく、黙々と行軍を続けていた。
彼らは、元神殿騎士団の若手将校レオニス率いる『ルミナの志願兵』たちである。
彼らは元々、神の威光を信じ、使徒たちを絶対の正義として崇拝していた誇り高き騎士たちであった。
しかし、特異点カルムの排除を巡る戦いの中で、使徒たちが人間を「エラーを吐き出すゴミ」としか見ておらず、躊躇なく都市を破壊し、無実の民衆を虐殺する光景を目の当たりにし、自らの信じていた正義が完全に偽りであったことを悟ったのだ。
絶望に打ちひしがれ、自決すら考えていた彼らの心を救ったのは。
カルムが空を切り裂いたあの『紅い光』と、彼らがかつて最も尊敬し、背中を追い続けてきた元聖騎士団長、エレナ・ルミナスの生存の報せであった。
「……急げ。我々には、一刻の猶予もない」
先頭を進む若き将校レオニスが、血の滲むような声で部下たちを鼓舞する。
「我々は神の嘘に加担し、多くの無辜の民を苦しめてきた。……その罪は、一生消えることはない。……だが、あの紅い光とともに胸に届いたあの温もりは、我々のような罪深き者にも『まだやり直せる』と、そう語りかけてくれている気がしたのだ」
レオニスは、自らの腰に差した剣の柄を強く握りしめた。
「……エレナ様は、教国を追われながらも、本当の意味で民を護る『不滅の盾』としてアガルタで戦い抜かれた。……我々も、彼女の下へ馳せ参じよう。神のための狂信の剣ではなく、人間の未来を切り拓くための、真の騎士の剣となるために!」
「「「ハッ!!」」」
森の中に、彼らの固い決意の返事が静かに、しかし力強く響き渡る。
彼らは、懺悔と贖罪の念を胸に抱きながらも、その瞳にはかつての教国時代にはなかった「自らの意志で考え、自らの意志で護る」という、本物の騎士道精神の炎を燃え上がらせていた。
アクアリアの船団の豪快さとは対極にある、静かで強靭な決意の軍勢。
彼らもまた、アガルタの地でエレナの下へと合流すべく、歩みを早めていた。
五、 アガルタに迫る無数の熱、一番乗りは……
そして、再びアガルタの地上口。
夜が完全に明け、朝の陽光が広場の隅々までを明るく照らし出した頃。
「……カルム、アル! 地平線の向こうから、凄まじい土煙が近づいてくるぞ!」
見張りの塔に立っていたレジスタンスの戦士が、声を裏返らせて叫んだ。
アガルタの結界の内側で、朝食のスープの仕込みを急いでいたアルが、顔を上げて地平線の彼方を見つめる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…………ッ!
遠くの大地を揺るがすような地響き。
それは、統制の取れた軍隊の行軍音でもなければ、魔導兵器の駆動音でもなかった。
まるで、無数の野獣の群れが、獲物を見つけて一斉に荒野を駆け抜けてくるような、野蛮で、無秩序で、しかし圧倒的な生命力に満ち溢れた足音の奔流。
「……なんだ、あの連中……!? マナの波長がメチャクチャだぞ!」
レジスタンスの老技師が、魔導望遠鏡を覗き込みながら青ざめた。
「武器も統一されてねぇ、鉄パイプや鎖、折れた大剣なんかを振り回しながら走ってきやがる! ……まさか、使徒の残党の狂戦士部隊か!?」
周囲の兵士たちが、反射的に武器を構え、緊張の面持ちで防御陣形をとろうとする。
エレナもまた、大盾の破片を手にし、スッと目を細めて前線へと歩み出た。
だが、その緊張した空気を。
竈門の前で火の調整をしていたカルムの、腹の底から湧き上がるような笑い声が吹き飛ばした。
「……ククッ。……ハハハハハッ! 警戒なんて必要ねぇよ、エレナ。武器を下ろせ」
カルムは、立ち上がると、自らの黄金の左目——【解体眼】で、迫り来るその土煙の正体をはっきりと捉えていた。
その波長、その荒々しさ、そして何より、彼らの魂から溢れ出している『理不尽に噛み付いてやる』という怒りと反骨精神。
それは、カルムにとって、この世界のどこよりも馴染み深い、ある意味で「故郷」の匂いそのものであった。
「……カルム? 知り合いなの?」
アルが、首を傾げながらカルムの服の裾を引く。
「……ああ、知り合いも知り合いだ。俺が武神の孤島へ落ちる前……毎日毎日、路地裏で顔を合わせては、血みどろの殴り合いをしてた連中だからな」
カルムの言葉に、アルの【真理の目】も、土煙の中にいる集団の姿を捉え、ハッと目を見開いた。
「……あ! あの人たち……!」
「……ああ。世界中のどの勢力よりも早く、一番乗りでアガルタの結界に辿り着きやがった。……やっぱり、あいつらは『喧嘩の匂い』を嗅ぎつけるのだけは、誰よりも早いみたいだな」
カルムが、最高に不敵な八重歯を覗かせて笑う。
六、 土煙の中から現れる影
ドザァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
アガルタの地上結界のすぐ外側。
凄まじい勢いで走ってきた先頭の集団が、ブレーキをかけきれずに瓦礫の山へと激突し、盛大な土煙を巻き上げた。
「……ゲホッ、ゴホッ! 痛ぇなクソッ! 誰だこんなとこに石っころ置きっぱなしにした奴は!」
「テメェが前見てねぇからだろうが! どけ、俺の足を踏んでんぞ!」
「あぁ!? やんのかコラ! 神様ぶっ殺す前にテメェをミンチにしてやろうか!」
土煙の中から聞こえてくるのは、教国の人間たちが聞けば顔をしかめるような、下品で、乱暴で、しかし底抜けに明るい罵声の応酬であった。
煙が晴れ、彼らの姿がアガルタの民衆たちの前に露わになる。
上半身裸に革のベストを羽織り、全身に無数の喧嘩傷と入れ墨を刻み込んだ男たち。
巨大な鉄骨を肩に担いだ女。
鎖のついた鉄球を振り回すモヒカンの若者。
その数は、ざっと数千人。
彼らこそ、かつて教国ルミナの最下層で泥水を啜り、神の恩恵から完全に見放されながらも、自らの拳と意地だけで生き抜いてきた——【スラムの喧嘩屋たち】であった。
「……おいおい、ずいぶんと立派な砦じゃねぇか。ここが『アガルタ』って隠れ里か?」
集団の先頭。
首に太い鎖を巻き、背丈ほどの巨大な大剣を地面に突き立てた、スラムの喧嘩屋たちのリーダー格である赤髪の大男が、アガルタの結界を見上げながらニヤリと笑った。
「……空のバケモノ(重力楔)がぶっ壊れたと思ったら……こんな美味そうなスープの匂いが風に乗ってきやがったからな。居ても立ってもいられなくて、全員で走ってきちまったぜ」
赤髪の大男が、アガルタの広場を見渡し、そして。
岩山の上に立つ、真紅と緋色の炎を背負った少年の姿を見つけて、その凶悪な目を三日月の形に細めた。
「……なんだ。どこの英雄様が神様をぶっ飛ばしたのかと思えば……スラム(うち)のテリトリーで一番手を焼かせてた『狂犬のガキ』じゃねぇか」
「……誰が狂犬だ、この脳筋ゴリラ。相変わらず頭悪そうなツラしてんな、ザクス」
カルムは、かつてスラムで何度も縄張りを争って殴り合った男、ザクスの顔を見て、最高に楽しそうに鼻で笑った。
「へへっ、ご挨拶だなカルム! 孤島の底に落ちて死んだかと思ってたら、ずいぶんとデッケェ火を扱えるようになったじゃねぇか!」
ザクスが大剣を肩に担ぎ直し、スラムの数千の喧嘩屋たちが、一斉にカルムへ向けて凶悪な笑みを浮かべる。
「……俺たちも混ぜろよ、カルム! 神様の居城に殴り込みに行くんだろ? スラムの特等席を、俺たちが一番前で確保してやるぜ!」
一番乗りで到着した、最も野蛮で、最も血の気の多いスラムの喧嘩屋たち。
彼らの放つ圧倒的な熱量と生命力が、アガルタの地に新たな爆発的な活気をもたらす。




