第106話:膝を折るな
一、 真紅の業火と、動かぬ修羅
ゴォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!
武神の孤島、十倍重力の絶対領域。
黒曜石の大地を焼き尽くすように噴き上がった【真紅の炎の柱】が、空間そのものを歪めるほどの熱波を放っていた。
カルムの全身から溢れ出した血が、マナではなく彼自身の『魂の執念』を触媒として発火した、極限の概念炎。
その直撃を受けた一匹の大重甲蜘蛛は、十倍重力で圧縮された鋼鉄以上の硬度を持つ甲殻をドロドロに溶かされ、悲痛な断末魔を上げながら地面でのたうち回っていた。
「ギ……ギャアァァァァァァァァァッ!?」
魔物の甲殻が内部から沸騰し、やがてその巨体は原初マナの蒸気の中に完全に溶け落ちて、黒い灰と化した。
残る一匹の魔物は、仲間の無残な死を目の当たりにし、本能的な恐怖で多節の脚を後退させた。
相手は、両腕を完全に破壊され、背骨も砕け、ただの肉の塊として血の海に倒れ伏しているだけの、最弱の獲物のはずだ。
それなのに、なぜ。あんなにも恐ろしい、理不尽な熱が放たれるのか。
「……ハァ……ッ……ガハッ……!」
炎の柱が収束し、赤い陽炎の中から、カルムが血反吐を吐きながら顔を上げた。
彼の肉体は、限界を超えた先にある【完全な崩壊】の只中にあった。
己の血と魂を直接燃焼させる『我流・神殺しの概念炎』の片鱗。それは、マナという安全装置を通さない、文字通り【命そのものを薪にする禁断の力】である。
一瞬発火させただけで、カルムの体内の細胞は凄まじいスピードで死滅し、視界は完全な暗闇と赤の明滅を繰り返している。
(……クソ……。……やっぱ、今のままじゃ……使い物にならねぇな……)
カルムは、動かない左目を無理やり見開きながら、己の現状を冷静に分析した。
魂の熱を、物理的な炎として放出することには成功した。
火力は申し分ない。使徒の防壁すらも焼き切れる可能性を秘めた、究極の温度。
だが、その炎を『操作する手段』が、今のカルムには全く存在しなかった。
マナ回路がないため、炎の形を整えることも、放出量を調整することもできない。
ただ、感情の爆発と共に血を撒き散らし、無差別に燃え広がるだけの「自爆」に近い現象。
こんな大雑把な力では、素早い魔物には当てられず、何より連発すれば数秒で自分の命が燃え尽きてしまう。
(……この炎を……手足の延長として、完璧にコントロールできねぇと……ただの打ち上げ花火だ……)
カルムは、血の海の中で、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、自らの身体に「命令」を下した。
二、 立ち上がる血ダルマ、絶対の拒絶
「……オ……オオオオオオオオオオオオッ!!!!」
カルムの喉から、再び獣のような低い咆哮が漏れた。
両腕は完全に破壊され、右肩からは炭化した肉がぶら下がり、左腕は骨が突き出ている。
背骨は折れ、両足の太ももは魔物の牙で貫かれている。
おまけに、ここは十倍重力の世界だ。
常識的に考えれば、立ち上がることなど100%不可能。
だが、カルムは。
ズルッ……ズルズルッ……。
岩肌に顎を押し付け、歯で地面の石を噛み砕くようにして、首と腹筋、そして千切れかけた両足の筋肉だけで、無理やりに、強引に、上体を起こし始めたのだ。
「……ギチチチッ!?」
残された最後の一匹の大重甲蜘蛛が、その異様な光景に怯え、威嚇の音を立てた。
ミシミシッ、バキバキバキッ……!
カルムの体内から、折れた骨がさらに砕け、ズレる凄惨な音が響き渡る。
十倍の重圧が、彼の身体を「立てるな」と容赦なく押し潰そうとする。
立ち上がれば、折れた背骨が神経を完全に切断し、二度と動けなくなるかもしれない。
だが、カルムは。
(……ふざけんな……。……俺が、こんな虫ケラの前で……這いつくばったまま終わるわけがねぇだろうがッ!)
カルムは、額の血管を限界まで膨張させ、全身の毛穴から血を噴き出しながら、ついに……その場に【二本足で立ち上がった】。
「……ハァ……ハァ……ッ……ハァ……っ」
それは、戦士の立ち姿とは程遠い、ただの血だるまだった。
両腕はだらりと垂れ下がり、身体は不自然に前傾し、足はガクガクと震えている。
だが、彼の左目に宿る【真紅の修羅の光】は、一切の揺らぎなく、正面の魔物を真っ直ぐに射抜いていた。
『膝を折るな』。
それは、カルムがスラムで生き抜くために、自分自身に課してきた絶対のルール。
相手がどれほど強大でも、どれほど理不尽でも、絶対に敵に背を向けず、膝を屈しない。
もし膝を折れば、それは自分の魂が敗北を認めたことになる。
(俺は……アルの相棒だ。神様を焼き殺すまで……俺の膝は、絶対に折れねぇッ!)
カルムの気迫が、十倍重力の空間そのものを歪ませるかのような錯覚を生む。
シャアァァァァァァァァッ!!
大重甲蜘蛛が、カルムの放つ異常なプレッシャーに耐えきれず、恐怖を塗り潰すために、己の持つ最高速度でカルムへと突進を仕掛けた。
音速を超える、十倍重力下での必殺の体当たり。
両腕のないカルムには、防御する手段はない。
だが、カルムの左目は、その超スピードの突進を、驚くほど冷静に、スローモーションのように捉えていた。
三、 力の理、料理人の手さばき
(……速ぇけど……見えるぜ……)
カルムは、迫り来る魔物の動きの中に、ある『違和感』を感じ取っていた。
先ほど、二匹の連携攻撃でボロボロにされる直前。
カルムは、魔物の突進エネルギーを逆利用し、両足の膝で関節の『スジ』を蹴り上げるカウンターを成功させていた。
その時、カルムは無意識に、アルの『解体(料理)』の動きを脳裏に思い浮かべていたのだ。
アルは、ただの鉄の包丁で、巨大な魔物を解体する。
それは、力任せに包丁を振り下ろしているわけではない。
相手の筋肉の流れ、骨の構造、重心の移動。それらすべての『理』を見極め、最も力の入らない、最も脆い部分に、的確に刃を入れているからだ。
(……この虫ケラの動きも……同じだ。……力任せに突っ込んでくるだけじゃねぇ……。……あいつの身体が動くための『力の流れ』が、必ずある……ッ!)
極限の集中力と、死の淵で研ぎ澄まされた野生のカン。
カルムの左目は、十倍重力という負荷によって、魔物の動きの【中心軸】と【筋肉の収縮のタイミング】を、まるでレントゲン写真のように正確に読み取り始めていた。
(……右前の脚で地面を蹴り、重心を左にずらしながら……牙を上から振り下ろす……。……その瞬間、あいつの右胸の甲殻の下に……力の空白(隙)ができる……ッ!)
ドガァァァァァンッ!!
魔物が、カルムの眼前に迫る。
カルムは、両腕を垂らしたまま、全く動かない。
魔物の牙がカルムの顔面に突き刺さる、本当にコンマ数秒の世界。
カルムは、自分の身体を横に避けるのではなく。
折れ曲がった両足を使い、十倍重力の【重圧をそのまま利用】して、自らの身体を急激に真下へと「沈み込ませた」。
ズンッ!!
魔物の巨大な牙が、カルムの頭上の空気を切り裂く。
回避成功。だが、本命はここからだ。
カルムは、沈み込んだ体勢から、魔物の突進エネルギーが完全に前方に抜け切る瞬間——相手の『力の空白』が露出したその一点に向かって、自らの【頭部】を下から突き上げるように弾き飛ばした。
「オラァァァァァァァァァッ!!!!」
ゴシャァァァァァァァンッ!!!!
カルムの頭突き(ヘッドバット)が、大重甲蜘蛛の右胸の関節部分、甲殻の最も脆い継ぎ目へ、完璧なタイミングと角度で突き刺さった。
「ギギャアァァァァァァッ!?」
魔物の巨体が、自身の突進の勢いと、カルムのカウンターの衝撃によって、空中で完全にバランスを崩した。
カルムの頭突き自体に、甲殻を砕くほどの破壊力はない。
だが、相手の『力の流れ(スジ)』を完全に狂わせることで、十倍重力の空間において、相手自身のエネルギーを自壊させる【理の体術】を成功させたのだ。
ズドォォォォォォォォンッ!!!!
魔物は、十倍重力の地面に、頭から不様に叩きつけられた。
四、 折れない修羅と、不恰好な包丁
「……ハァ……ハァ……ッ……ハァ……っ」
カルムは、頭突きの衝撃で額から大量の血を流しながら、再びフラフラと立ち上がった。
視界は真っ赤で、もうほとんど何も見えない。
だが、彼の口元には、凶暴な笑みが張り付いていた。
(……やっぱ……アルの言ってた通りだぜ……)
スラム時代、アルが魚を捌くのを見て、「力任せにぶった斬ればいいじゃねぇか」と笑ったカルムに対し、アルはこう答えた。
『力任せじゃダメだよ、カルム。どんなに硬い食材でも、ちゃんとスジを見つけてあげれば、スゥッて切れるんだから。包丁は力で振るものじゃないよ』
その時は、何を言っているのか全く分からなかった。
だが、今なら分かる。
(……力任せじゃ……この島じゃ生き残れねぇ。……相手の『理』を見極め、そこを的確に解体する……。……それが、俺がこの島で掴むべき【新しい武(炎)】の形だ……ッ!)
地面に叩きつけられた魔物が、再び立ち上がろうと身をよじる。
だが、カルムは先ほどのカウンターで、確かな手応えを感じていた。
両腕がなくても、マナがなくても。
相手の理を見極める眼と、自分の魂を燃やす『概念の炎』があれば、この地獄でも十分に戦える。
「……来いよ。……今度は、お前のその硬てぇ殻ごと、俺の炎で『料理』してやるからよ……ッ!」
カルムの全身から、再び真紅の魂の陽炎が立ち上り始める。
今度は、無差別に爆発する炎ではない。
カルムの意志によって、魔物の『理』の一点へ向けて、極限まで圧縮して放つための、鋭く研ぎ澄まされた【見えない刃(炎)】の構え。
両腕を垂らし、血まみれで立つその姿は、およそ武術の構えとは呼べない不恰好なものだった。
だが、その気迫と、相手の動きを完全に読み切る左目の光は、かつて神と対等に渡り合ったという『古代の闘鬼』すらも凌駕するほどの、圧倒的な【修羅の完成形】へと近づきつつあった。
十倍重力の地獄において、膝を折ることを拒絶した男。
カルムは、己の無力さを骨の髄まで噛み締め、すべてを失った状態から、相棒の『料理(解体)』の記憶を頼りに、自らの魂を物理法則を超える最強の武器へと鍛え上げ始めたのである。




