第105話:動かない身体と溢れる血
一、 崩壊する肉の器と、響く死の足音
ズズゥゥゥゥゥンッ……!!
『武神の孤島』を支配する十倍重力の絶対領域。
その黒曜石の大地の上に、一人の少年が無惨に横たわっていた。
もはや「横たわっている」という表現すら生ぬるい。十倍という常軌を逸した重圧と、巨大な魔物たちによる苛烈な破壊の果てに、カルムの肉体は文字通り地面へと【叩き潰され、へばりついていた】のだ。
「……ガハッ……! ゲボッ……ッ……」
口を開くたびに、肺から押し出された赤黒い血の塊が、黒い岩肌にドロリとこぼれ落ちる。
動かない。
指の一本、まぶたの筋肉すらも、己の意志で動かすことができない。
右腕は極限覚醒の代償で完全に炭化して肩から抜け落ちそうになっており、左腕は先ほどの激突で手首から肘にかけて原型を留めないほどに複雑骨折を起こしている。
さらに致命的なのは、二匹の大重甲蜘蛛による波状攻撃を受けた胴体だった。
背骨が軋みを上げてへし折れ、肋骨の何本かが内側に折れ曲がり、自身の内臓を傷つけているのが分かる。両足の太ももは魔物の牙に貫かれ、筋肉が完全に断裂していた。
肉体という名の器が、完膚なきまでに破壊し尽くされた状態。
マナ回路を失ったカルムにとって、それは即ち「絶対の死」を意味していた。
ギチギチギチ……ッ。
カルムの薄れゆく聴覚に、死神の足音が響く。
先ほど、カルムの決死のカウンターによって仲間を一匹地面に叩き落とされた魔物たち。
残る二匹の大重甲蜘蛛は、完全に無力化した獲物を囲むようにして、ゆっくりと、嬲るように多節の脚を蠢かせながら近づいてきていた。
(……クソ……が……)
カルムは、泥と血にまみれた左目だけをわずかに動かし、眼前に迫る巨大な黒曜石の甲殻を睨みつけた。
身体が動かない。
どれほど心の中で叫ぼうと、どれほど闘志を燃やそうと、切断された神経と粉砕された骨格は、カルムの命令を完全に拒絶していた。
脳からの電気信号が途絶え、肉体はただの「痛みを放つだけの肉塊」へと成り下がっている。
ズシンッ……。
一匹の魔物が、その太く巨大な脚を、カルムのすぐ横の地面に突き立てた。
十倍重力の質量を乗せたその一歩だけで、岩盤が陥没し、カルムの顔に鋭い石の破片が降り注ぐ。
シャアァァァァッ。
魔物の口から、硫黄の臭いがする生温かい息がカルムの顔面に吹き付けられた。
多重の冷酷な眼球が、カルムの血まみれの顔を見下ろしている。
その目にあるのは、強者としての圧倒的な優越感と、これから獲物の肉を喰らい尽くそうとする残酷な捕食者の歓喜であった。
(……笑って……んじゃねぇぞ……。……虫ケラの分際で……)
カルムは、心の中で悪態をついたが、それを声に出すことすらできなかった。
喉の奥は血で満たされ、肺は呼吸の機能すら失いかけている。
これが、この武神の孤島に踏み込んだ代償。
力を求め、マナ無き身で地獄へと足を踏み入れた修羅の末路。
カルムの肉体は、今まさに捕食者の牙によって完全にこの世から消し去られようとしていた。
二、 溢れ出る命の温度と、泥の味
ドクン……ドクン……ドクン……。
動かない身体の中で、ただ一つ。
カルムの心臓だけが、異常なほどの速さで脈打ち続けていた。
十倍の重力に抗って脳へ血液を送るため。
そして、全身に開いた無数の傷口から絶え間なく流れ出る血液を、少しでも補おうと必死にもがくため。
心臓は悲鳴を上げながらも、その生命維持のポンプを止めることはなかった。
だが、その努力も空しく、カルムの身体からは凄まじい勢いで血が溢れ出し続けていた。
地面に広がる赤黒い水たまり。
それは、カルムの命そのものだった。
マナがあれば、魔力で止血し、傷を塞ぐこともできたはずだ。しかし、今の彼にはその魔法が存在しない。人間の身体が持つ自然な血液凝固作用など、この十倍重力と重傷の前には何の役にも立たなかった。
(……血が……止まらねぇ……)
カルムは、自身の頬に触れる、その『温かい液体』の感覚をぼんやりと感じ取っていた。
自分の血。
生臭くて、鉄の匂いがして、そして……ひどく温かい。
この孤島の空気は、原初マナの毒とマグマの熱によって、肌を焦がすほどに熱い。
だが、地面に広がる自身の血の温かさは、それとは全く違う、命の根源から湧き出る【内なる熱】だった。
(……俺の血って……こんなに熱かったんだな……)
カルムの唇に、血と泥が入り混じった不快な味が広がる。
土の味。泥の味。血の味。
それは、彼がかつてスラムの路地裏で味わった、あの忌まわしい『どん底の味』と全く同じだった。
マナを持たず、親もなく、ただのゴミとして路地裏に転がっていた幼い日。
あの時も、誰かに殴られ、血を流し、泥水を啜りながら死を待っていた。
自分は空っぽの器で、いつ死んでも誰も悲しまない、ただの野良犬だった。
あの時と、同じだ。
力を求め、仲間を護るために強くなろうとしたが、結局は神の理不尽と、この島の暴力の前に為す術もなく打ち砕かれた。
血を流し、泥を舐め、誰にも知られずに死んでいく。
(……結局……俺は……あのスラムの路地裏から……一歩も進んでなかったってことか……)
カルムの意識が、溢れ出る血と共に、深い、深い闇の底へと溶け出していく。
痛みすらも徐々に遠のき、冷たい麻痺の感覚が全身を包み込み始めていた。
死の境界線。
それを越えるのは、あまりにも簡単だった。
ただ目を閉じて、この痛みに身を任せればいい。そうすれば、重圧からも、無力感からも、すべて解放される。
魔物の巨大な牙が、カルムの頭部を完全に噛み砕こうと、ゆっくりとその顎を大きく開いた。
三、 捕食者の牙と、暗闇の走馬灯
シャアァァァァァァァァッ!!
大重甲蜘蛛の巨大な顎が、カルムの視界を真っ暗に覆い尽くした。
鋭い牙の先端からは、岩をも溶かす強力な消化液が滴り落ち、カルムの額に落ちてジュゥゥッと皮膚を焼く。
(……死ぬ……)
カルムの脳細胞が、完全なる死を前にして、最後の防御反応として【走馬灯】を再生し始めた。
フラッシュバックする記憶。
スラムのゴミ捨て場で、雨に打たれながら震えていたあの夜。
腹が減って、傷が痛くて、もう死ぬしかないと諦めていた時。
『……食べる?』
不意に差し出された、木のお椀。
そこには、泥だらけの小さな少年が、どこからか拾い集めてきたクズ野菜で作った、不格好で、だけど湯気を立てている温かいスープがあった。
『へっ……なんだお前……。俺を毒殺する気か……?』
『毒なんて入ってないよ。……僕が作ったんだ。美味しいかは分かんないけど……温かいよ』
恐る恐る口をつけたそのスープ。
味は薄く、野菜の皮の泥臭さが残っていた。
だが、そのスープが喉を通り、冷え切った胃の腑に落ちた瞬間。
凍りついていたカルムの身体の芯から、ブワァァァッ!と、爆発的な温かさが広がったのだ。
それは、ただのスープの熱ではない。
見ず知らずの野良犬である自分に、誰かが「生きてほしい」と願ってくれた、その【命の体温】だった。
『……お前、名前は?』
『アル。アルだよ』
『……へっ。俺はカルムだ。……お前、料理が作れんのか。なら、俺の胃袋を満たしてみろ。その代わり、お前を狙うクソ野郎どもは……俺の火で全部焼き尽くしてやる』
その日から、カルムの生きる意味が変わった。
ただ生き延びるためだけの人生から、「アルの作る食卓」を護るための人生へ。
あの小さくて、優しくて、誰よりも強い魂を持った相棒の背中を、この世界で一番安全な場所にするために。
走馬灯が、さらに加速する。
教国の地下、忘却の深淵への入り口。
三使徒に完膚なきまでに敗北し、右腕とマナを失った自分に、アルが泣きながら作ってくれた、あの『焦土の泥スープ』。
味は最悪だった。泥と硫黄の臭いがして、吐き気がするほど不味かった。
だが、あのスープには、スラムで出会った時と同じ……いや、それ以上の、強烈で狂おしいほどの『死なないでくれ』というアルの魂の熱が込められていた。
『僕も……強くなる。だから……絶対に生きて帰ってきてねッ!』
アルの漆黒の瞳。
血と泥にまみれながらも、絶対に神の法則を解体してみせると誓った、あの修羅の覚悟。
(……あいつが……あんなに泣いて……あんなにボロボロになって……誓ったんだ……)
走馬灯の映像が、突然、ピタリと静止した。
冷たくなりかけていたカルムの意識が、泥の底から、猛烈な勢いで急浮上を始めた。
四、 俺の血は、まだ冷たくねぇ
ギチィィィィィィッ!!
魔物の牙が、カルムの頭蓋骨を噛み砕く直前。
ドクンッ!!!!
カルムの心臓が、これまでとは全く違う、爆発的な鼓動を打った。
(……俺は……スラムの路地裏で死んでたはずの命だ……)
カルムは、動かない身体の中で、目を見開いた。
(アルのスープが……俺の冷てぇ血を、温めてくれた。……俺に、生きる意味と、護るべき相棒をくれた……ッ!)
地面に広がる自分の血。
溢れ出し、命を削っていくその赤い液体。
そうだ。
この血は、ただの泥水じゃない。
アルが温めてくれた血だ。アルが繋いでくれた命だ。
俺の体内にマナはもうねぇ。右腕も左腕も使い物にならねぇ。
だけど……この【血の熱】だけは、誰にも奪わせねぇッ!
(腕が砕けたから何だ! 足が動かねぇから何だ! 十倍重力が何だってんだッ!)
カルムの魂の奥底で、完全に消え去っていたはずの『炉(闘志)』が、猛烈な摩擦音を立てて火花を散らした。
魔物の牙が、カルムの額の皮膚に触れ、血が噴き出す。
(俺は……アルの相棒だ。あいつが強くなって帰ってくるまで……俺が、あいつの背中を護る【最強の火】になるって誓ったんだよッ!!)
カルムの左目に、これまで以上に凶暴で、凄絶な【真紅の修羅の光】が宿った。
肉体が動かない?
ならば、肉体という器を捨てて、魂そのものを物理的な力として顕現させろ。
マナという外部エネルギーに頼るのではなく。
己の命、己の血、己の魂を直接燃焼させることで生み出す、究極の【我流の炎】。
「……オ……オオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
カルムの喉の奥から、血の泡と共に、獣のような低い咆哮が漏れ出した。
五、 動かない身体の底で燃えるもの
その異変に、魔物たちは本能的な恐怖を覚えた。
シャアァァァァッ!?
カルムの頭部を噛み砕こうとしていた大重甲蜘蛛が、突然動きを止めた。
いや、止められたのだ。
カルムの身体は、指一本動いていない。
しかし、彼の全身から溢れ出た大量の血が、黒曜石の地面に広がったその血溜まりが。
突如として、ボコボコと異様な音を立てて【沸騰】し始めたのだ。
「……ギチ……!?」
魔物が後ずさろうとする。
だが、遅い。
「……燃えろ」
カルムの左目から、真紅の光が溢れ出す。
その光に呼応するように、地面に広がっていたカルムの【血】そのものが、マナとは全く異なる強烈な発光現象を引き起こし、真っ赤な【概念の炎】となって爆発的に噴き上がったのだ!
ゴォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
「ギギャアァァァァァァァァァァァッ!?」
カルムの身体を中心に巻き起こった真紅の炎の柱。
それは、熱というよりも、カルムの『絶対にアルの元へ帰る』という魂の執念が、物理法則を捻じ曲げて実体化した【我流・神殺しの概念炎】の片鱗であった。
カルムの頭部を噛み砕こうとしていた大重甲蜘蛛は、その真紅の炎に触れた瞬間、十倍重力で鍛え上げられた絶対の甲殻ごと、内部からドロドロに溶かされ、悲鳴を上げながら後方へと吹き飛ばされた。
ズドォォォォォォンッ!!
炎の柱が収まり、赤い蒸気が立ち込める中。
カルムは、相変わらず血の海に倒れ伏し、四肢は完全に破壊されたままだった。
しかし、彼の全身からは、マナとは違う、強烈な【魂の陽炎】が立ち上っていた。
「……ハァ……ハァ……っ……」
カルムは、潰れた左目で、燃え盛る自分の血を見つめた。
(……これだ……。……マナじゃねぇ……。俺の命そのものを……直接燃やす火……!)
それは、まだ不完全で、命を削る諸刃の剣。
一度使えば、残されたわずかな生命力すらも根こそぎ持っていかれる禁断の力。
だが、カルムには分かった。
この理不尽な十倍重力の地獄で、神の法則に抗うための唯一の武器は、この【己の血と魂を燃やす炎】しかないのだと。
「……来いよ……化け物ども……」
カルムの唇が、狂気と闘志に満ちた凄絶な笑みを形作った。
「俺の血は……まだ、一滴も冷めちゃいねぇぞ……。……お前らの甲殻ごと……この島ごと、全部焼き尽くしてやる……ッ!」
動かない身体。溢れ出す血。
すべてを失った修羅の少年は、絶望のどん底において、ついに己の魂を直接武器とする【真の覚醒の領域】へと足を踏み入れようとしていた。
背骨が折れ、両腕を失い、死の淵にあっても、彼の心は決して膝を折ることはない。
ここから始まるのは、一方的な蹂躙ではない。
カルムという名の極限の修羅による、血に塗れた反撃の幕開けであった。




