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神殺しのフルコース ~少年料理人と修羅の創世食卓~  作者: solune
第4章:聖都ルミナ編

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第102話:踏み込んだ地獄

一、 圧殺の領域と、軋む骨の悲鳴

ドズゥゥゥゥゥンッ……!!


絶海の孤島——『武神の孤島』。

黒曜石と原初金属で構成されたその漆黒の大地に足を踏み入れた瞬間、カルムの全身を襲ったのは、目に見えない巨大な鉄の万力で上下から挟み潰されるような、圧倒的かつ理不尽な【重圧】であった。


「……ガハッ……! ゲホッ……ハァ……ッ!」


カルムは、立ち上がろうとした両膝を再び地面に叩きつけられ、口から赤黒い血を吐き出した。


重い。

ただ立っているという、人間にとって最も基本的な動作すら、ここでは命懸けの苦行となる。

血液が足元に溜まり、心臓が必死にポンプを動かしても脳まで酸素が回らない。

肺は肋骨の重みで押し潰され、一回の呼吸をするたびに、肺胞が破裂しそうな激痛が走る。


通常の環境の数倍——いや、この体感ではそれ以上の異常重力。

マナを持つ者であれば、体内に重力相殺のマナを循環させることでこの環境に順応することもできただろう。しかし、極限覚醒の代償としてマナ回路を完全に焼き切ってしまったカルムは、この島の圧殺の領域を、ただの【生身の肉体】のみで受け止めなければならなかった。


「……クソがッ……。一歩歩くだけで……骨が折れそうだぜ……」


カルムは、地面に左手をつき、歯を食いしばりながら何とか上体を起こした。


炭化して黒焦げになった右腕が、重力に引かれて肩から抜け落ちそうなほどの痛みを発している。

魔物(原初溶岩蛇)を殴りつけて火傷で爛れ、指が曲がった左手も、地面に体重をかけるだけで激痛が脳を貫いた。

五体不満足。マナ喪失。そして異常重力。

常人ならば、上体を起こすことすらできず、数分で内臓破裂を起こして絶命しているであろう極限状況。


だが、カルムの左目には、決して消えることのない【修羅の光】が宿っていた。


「……アルが……あの小さな体で……神様の法則を解体するって誓ったんだ。……俺がこんな所で、地面にへばりついてる場合じゃねぇんだよッ!」


カルムは、砕けそうな足の筋肉に、自らの精神力(ソウル)だけで強引に命令を下した。


ミシミシッ……!

骨の軋む不気味な音がカルムの体内から響き渡る。

彼は、左手で大地を押し、異常重力に抗って、再びゆっくりと、しかし確実に二本足で立ち上がった。


「……ハァ……ハァ……ッ……。……上等だ。……ここが地獄の一丁目ってわけか」


カルムは、血の混じった唾を吐き捨て、赤い蒸気に包まれた孤島の奥深くへと、重い一歩を踏み出した。


二、 孤島の生態系と、血の洗礼

ズンッ……。ズンッ……。


鉛を背負ったような足取りで、カルムは黒曜石の大地を進んでいった。

島には植物の影は一切なく、ただ黒く尖った岩山と、巨大なクレーターがどこまでも続いている。

空気は原初マナと硫黄ガスが混ざり合い、呼吸するたびに喉が焼けるように熱い。


(……この島には、何が隠されてやがる……? 神様どもをぶち殺す力が、どこにあるってんだ……?)


カルムは、かすむ視界を巡らせながら、警戒を怠らなかった。

これほど異常な重力と環境。当然、そこに生息する「何か」が存在するはずだ。


その予感は、すぐに最悪の形で現実となった。


ガサッ……。


岩陰から、低い摩擦音が聞こえた。

カルムが足を止め、左目を鋭く光らせると、黒曜石の岩盤の色と同化したような、体長二メートルほどの異形の生物が姿を現した。


六本の太い脚を持ち、全身が岩石のような硬い甲殻で覆われた【重甲蜘蛛(グラビティ・スパイダー)】。

通常であれば、これほどの重力環境下で生物が動くことは不可能だ。しかし、この孤島で独自の進化を遂げた魔物たちは、この異常重力を「標準環境」として適応し、強靭な筋肉と骨格を手に入れていた。


「……チッ。……お出迎えかよ」


カルムは、潰れた左手を軽く握り、戦闘態勢を取ろうとした。


シュンッ!!


カルムが瞬きをした、その一瞬。

重甲蜘蛛の姿が、ブレたように消えた。


「なっ……!?」


ドガァァァァァァンッ!!!!


次の瞬間、カルムの身体は、凄まじい衝撃と共に後方へと十メートル以上吹き飛ばされていた。


「がはぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


黒曜石の地面を何度もバウンドし、岩壁に激突してようやく停止する。

肋骨が三本、同時に折れた。

カルムは、血を吐きながら、何が起きたのかを必死に理解しようとした。


速い。異常なまでに速い。

あの蜘蛛の魔物は、この異常重力下において、まるで羽虫のような超スピードで移動し、カルムの腹部に強烈な体当たりを叩き込んだのだ。


「……ハァ……ハァ……っ……。……そうかよ……」


カルムは、岩壁に背を預けながら、狂気じみた笑みを浮かべた。


「この島で生き抜くために……進化の過程で、筋肉の密度と瞬発力が、バケモノみたいに跳ね上がってやがるんだな……」


この異常重力を克服し、日常的に飛び回っている魔物たち。

彼らの身体能力は、地上の魔物とは次元が違う。教国の聖騎士が放つ最高速度の突進すら、この島の魔物にとっては「止まっている」ように見えるだろう。


シャアァァァァッ!!


重甲蜘蛛が、獲物の弱り切った姿を見て、再び超スピードの突進を仕掛けてきた。


「……舐めんじゃねぇぞ、虫ケラがッ!」


カルムは、壁を蹴って回避……しようとした。

だが、彼の肉体は、異常重力に縛られ、脳の命令通りに動かなかった。


ドグァッ!!


「ぐあぁッ!」


今度は左肩を削り取られるような痛撃。

カルムの身体は再び空中に舞い、地面に叩きつけられた。


「……クソ……ッ! 身体が……重くて、反応できねぇ……!」


カルムは、泥と血にまみれた顔を上げ、迫り来る死の影を睨みつけた。

右腕はない。左手は潰れ、身体は重力に縛られ、魔物のスピードには全くついていけない。


これが、踏み込んだ地獄の現実。

彼は今、文字通り【最弱の獲物】として、この孤島の生態系の最底辺に位置していたのだ。


三、 意地の左拳と、絶望の硬度

「ギチギチギチ……ッ!」


重甲蜘蛛は、カルムがもう動けないと判断したのか、今度はゆっくりと近づき、その巨大な牙でカルムの頭部を噛み砕こうと顎を開いた。


(……ここで……終わるかよ……ッ!)


カルムは、迫る巨大な牙を左目で捉えながら、地面に投げ出されていた左腕の筋肉に、ありったけの力を込めた。


魔物が牙を振り下ろす、その瞬間。


「オラァァァァァァッ!!」


カルムは、重力に逆らい、下から跳ね上げるようにして、潰れた左拳によるアッパーカットを重甲蜘蛛の顎下へと叩き込んだ!


ガキィィィィィィィィィンッ!!!!


しかし。

カルムの拳が魔物の甲殻に激突した瞬間、彼を襲ったのは、硬い岩盤を全力で殴りつけたような、信じられないほどの【絶望的な硬度】であった。


「……なっ!?」


「ギシャアァァッ!」


重甲蜘蛛は、カルムの渾身の左拳を受けても、数歩後ずさっただけで、その甲殻には傷一つ付いていなかった。

逆に、カルムの左手は激しい衝撃によってさらに骨が砕け、拳の形を完全に失うほどのダメージを負ってしまった。


「……硬てぇ……。……なんだ、このデタラメな硬さは……ッ!」


カルムは、痛みで顔を歪めながら、相手の異常な防御力の理由を瞬時に悟った。


(……この島で生きていくために……重力に耐えるため、甲殻の密度そのものが、鋼鉄の何十倍にも圧縮されてやがるんだ……!)


スピードだけでなく、防御力も桁違い。

マナによる防壁を展開しているわけでもないのに、純粋な生物としての進化の果てに、使徒の概念装甲にも匹敵するほどの物理的な硬度を手に入れているのだ。


「……ハァ……ハァ……っ。……冗談じゃねぇぜ……」


カルムは、折れ曲がった左手を庇いながら、後ずさった。

攻撃が、全く通じない。

今のカルムの打撃力では、この島の最底辺の魔物一匹すら倒すことができない。

火力不足。

三使徒との戦いで味わったあの絶望が、再びカルムの魂に重くのしかかる。


『カルム殿……。今の俺たちじゃ、アル殿の背中を護れねぇんだよ』


己自身の言葉が、呪いのようにリフレインする。

俺は、強くなるためにここに来た。

だが、強くなるためのスタートラインにすら、立てていないじゃないか。


四、 逃走と、這いずるプライド

シャアァァァァッ!!


重甲蜘蛛が、反撃が効かないことを確信し、容赦のない連続攻撃を仕掛けてきた。


「……チッ!」


カルムは、岩の陰へ転がるようにして回避した。

無様だ。格下の虫ケラ相手に、地面を這いずり回って逃げることしかできない。

かつては、極光炎の一振りでこんな魔物は一瞬で消し炭にしていたというのに。


(……逃げるしかねぇ……! 今の俺じゃ、こいつを倒すことは絶対に不可能だ……!)


カルムの野生の本能が、生存のための逃走を選択させた。


彼は、異常重力に押し潰されそうになりながらも、岩山とクレーターの複雑な地形を利用して、重甲蜘蛛の視界から逃れようと必死に走り出した。


ドガァァンッ! バキィィンッ!


背後で、重甲蜘蛛が岩盤を粉々に砕きながら追ってくる。

カルムは、息が切れ、血を吐きながらも、足の筋肉を悲鳴を上げさせて逃げ続けた。

プライドなど、とうの昔に粉々に砕け散っている。

今はただ、生きて、アルの元へ帰るための「次」へ繋ぐためだけに、泥にまみれて逃げる。


「……ハァ……ハァ……ッ……!」


どれほど逃げただろうか。

カルムは、黒曜石の岩山に空いた狭いクレバス(亀裂)を見つけ、そこに身体を滑り込ませた。

クレバスの入り口は狭く、巨大な重甲蜘蛛の身体では入り込むことができない。


「ギチギチ……ッ!!」


重甲蜘蛛は、入り口でしばらく威嚇の音を立てていたが、やがて獲物を諦め、別の獲物を探すように立ち去っていった。


五、 絶望の確認と、修羅の胎動

「……ハァ……ハァ……ハァ……っ……」


カルムは、クレバスの奥深く、暗く冷たい岩肌に背中を預け、ずるずると崩れ落ちた。


「……助かっ……たか……」


カルムは、天井を見上げながら、虚ろな声で呟いた。


自分の無力さを、これでもかというほどに思い知らされた。

この『武神の孤島』は、ただの地獄ではない。マナを持たない生身の人間にとっては、生きていること自体がバグであるような、絶対的な死の世界だ。


異常重力。

超スピードと超硬度を持つ魔物たち。

そして、自分は右腕を失い、左手も潰れ、魔法も使えない。


「……俺は……ここで、何ができるってんだ……」


カルムは、真っ赤に腫れ上がり、指が折れ曲がった左手を見つめた。

これでは、拳を握ることすらできない。殴れば殴るほど、相手ではなく自分の骨が砕けていく。

圧倒的な壁。

三使徒との間に感じた絶望的な戦力差と、同じ種類の壁が、再びカルムの前に立ち塞がっていた。


(……アル……。……俺は、お前に背中を預けてもらう資格なんて……ないのかもしれねぇな……)


カルムの左目から、一滴の涙がこぼれ落ちそうになる。

自分の弱さが、不甲斐なさが、悔しくて、悔しくてたまらない。


だが。


ドクンッ……。


カルムの胸の奥底で。

先ほど、死の海で原初溶岩蛇を殴り飛ばした時に一瞬だけ噴き出した、あの【真紅の熱線(魂のオーラ)】の残滓が、小さく脈打った。


カルムは、ハッと目を見開いた。


「……そうだ。……俺は……まだ、終わってねぇ」


カルムは、潰れた左手を、折れた骨が皮膚を突き破らんばかりの力で、無理やりに、強引に『拳』の形へと握り込んだ。


メキメキメキッ……!

凄まじい激痛が走るが、カルムは歯を食いしばり、顔を歪めたまま笑った。


「硬てぇなら……あの甲殻ごとぶち抜く火力を出せばいい。速ぇなら……重力に逆らって、それ以上のスピードで動けばいい。……マナがねぇなら、俺の『命』を燃やして、新しい炎を創り出すだけだッ!」


この島は、地獄だ。

だが、神の理不尽を解体するためには、これくらい狂った地獄で、己の肉体と魂を極限まで叩き直す必要があるのだ。


「待ってろよ、アル。……俺は、絶対に逃げねぇ。……この地獄の底で、神様をぶち殺す【我流の炎】を、必ず手に入れてやるッ!」


カルムの左目に、再び強烈な、決して消えることのない修羅の光が宿った。


クレバスの外では、異常重力が空間を歪め、さらなる強力な魔物たちが咆哮を上げている。

腕を失い、魔法を失った少年は、己の無力さを噛み締めた上で、この絶対の地獄に真っ向から挑む決意を固めた。

彼の孤独で壮絶な『修羅の修練』は、いま、血と泥にまみれた最底辺から、本格的なスタートを切ったのである。

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