鉄道連絡船 ③
「関釜連絡船最悪の悲劇が起きたのは、昭和18年、1943年の10月5日夜のことだよ。関釜連絡船の「崑崙丸」が対馬海峡で米潜水艦「ワフー」に撃沈されたんだ。「崑崙丸」は8000トン近い大型の最新鋭船だったけど、この事件で544名もの死者を出してしまったんだ。そして「崑崙丸」は戦争で最初に犠牲になった国鉄連絡船ともなった。もちろん、この事件が与えた衝撃は大きかった」
「そんなにたくさんの人が死んじゃったら、そうなるでしょうね」
桜は顔をしかめる。
「当時の日本は戦争中と言うこともあって、厳重な報道管制が敷かれていたんだけど、流石にこれだけの大事件は隠しきれないから、新聞でも大々的に報道されたそうだよ。まあ、それ以外にも日本側に衝撃を与えたのは、封鎖は完璧で絶対に米潜水艦を侵入させないと思っていた日本海に、その侵入を許しちゃったことだね。当時日本海は米潜水艦の艦長たちからも、『天皇の浴槽』とされて、聖域とみなされていたんだ」
「うわ~」
「で、当然ながら日本側は日本海の出入り口の警備を強化したんだ。で、帰り道の「ワフー」はこれに引っかかって、宗谷海峡で3隻の海軍の駆潜艇と水上機に滅多打ちにされて撃沈されちゃった」
「そう言うの何て言うんでしたっけ?・・・因果応報ですっけ?」
「まあそうとも言えるけど。でもね桜さん。戦争なんだよ。戦争なんて言うのは理不尽のオンパレードだから、因果応報が成立することなんてあまりないんだよ。現にこの後国鉄連絡船は一方的に戦争の影に追われる日々になっていくんだからね・・・それからちょっとこの「崑崙丸」と関わることだけど、第二次大戦中の米潜水艦、だけじゃなくてほとんどの国の潜水艦は無制限潜水艦作戦を採っていたんだよ」
「なんですか?それ?」
「本来の国際法の規定では、民間船舶を攻撃する際には事前に警告して、民間人に脱出する時間を与えるのがルールだったんだ。でも第二次大戦ではもうそれが守られなくて、軍艦だろうが民間船だろうが事前警告なしで一方的に撃沈されるようになったんだよ」
「ルール無視ってことですか?」
「そう言うこと。都市への無差別空爆だって、本来は国際法違反なんだよ・・・」
何か思うところがあるのか、木藤はそこで一端区切って話を続ける。
「で、話を元に戻すけど米軍が日本の商船を撃沈するようになった。で、今も当時もだけど日本は海外から資源を輸入しないと成り立たない国なんだ。でもその資源を積んだ貨物船やタンカーが撃沈されるから、日本国内では深刻な資源不足が発生したんだ。そこで考えられたのが、南方からの資源を商船を使わず、陸路を使って運ぶ方法だよ」
「え?陸路ですか?」
「そう。南方からの資源を、当時日本が占領していた中国大陸の鉄道を使って、中国を通りグルッと北に迂回して満州、そして朝鮮半島を伝って日本へと運び込もうって計画だね」
「なるほど、陸の上なら沈められる心配ありませんもんね。で、上手く行ったんですか?」
「ウンウン」
木藤は首を横に振った。
「当時の朝鮮半島の鉄道は既に戦時輸送体制下で輸送力は限界に来ていたんだよ。だからそこに南方からの資源輸送列車をぶち込むダイヤの余裕なんてなかったんだよ。例えば華北地域からの鉄鉱石輸送を船から鉄道に振り替えようとしたんだけど、結局計画の25%しか実現できなかった」
「あちゃ~、ですね」
桜が額に手を当てる動作をする。
「そう。それに、例え予定通りに朝鮮半島まで運びこんでも、どのみち日本本土へは船を使わないと運び込めないしね。付け加えるなら、確かに鉄道は陸上における大量輸送機関だけど、船程には荷物運べないしね。結局鉄道による迂回輸送は絵に描いた餅で終わったんだ」
「そうなんですね」
「そして関釜連絡船自体も、戦局の悪化の影響をモロに受けたんだ。さっき話した「崑崙丸」が撃沈された1943年10月以降は軍事輸送が優先になって、民間輸送は余裕ある場合だけに許可されるようになった。つまり、民間人が自由に利用することができなくなった。そして、1944年の末ごろから米軍のB29重爆撃機が本土に直接空襲を行うようになって、各地の港湾を機雷で封鎖するようになるともうダメだった」
「機雷ですか?」
機雷を知らないらしく、桜が首を傾げる。
「機雷ていうのは、機械水雷の略で、簡単に言えば水中版の地雷だね。予め水中に仕掛けて置いて、船が通りかかると爆発して沈める兵器だよ。大戦末期に米軍は、B29爆撃機を使ってこの機雷を日本近海、そこら中に投下したんだ。これでもう船は自由に動けなくなった。こうして関釜航路も昭和20年6月で運航が不可能となって、事実上鉄道連絡航路としての役目を終えたんだよ。そして復活できないまま8月15日に終戦になって、朝鮮半島は日本の統治から脱しちゃった。つまり、航路は自然消滅」
「戦争に負けて消えちゃったんですね」
「そう言うこと。戦前の欧州への連絡航路を担った花形航路の終わりは、あまりにもあっけなかったんだよ」
木藤は関釜航路の話をそう締めくくった。
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