第6話 悪魔の棲む家
「ない……。桶が、どこにもない」
セレナのかすれた声で目が覚めた。
いつもの叱り声ではない。
寝床から身を起こすと、セレナは部屋の中央に立ち、何もない空間へ手を伸ばしていた。水桶は、テーブルの上にある。昨夜、隠蔽を使いながら指一本ぶん横へ動かした。それだけだった。
「そこにあるよ」
僕が指差しても、セレナの目は桶に向かなかった。
「どこ? アンリ、どこにあるの?」
声が震えている。彼女は膝をつき、テーブルの下を覗き込んだ。椅子をどけ、壁際の布をめくり、寝床の藁までかき分ける。
桶だけではない。
皿も、鍋も、衣服も、部屋にある物のほとんどが、二人の認識から消えていた。
モンドが入口で立ち尽くした。
「家の中に……何もない」
その一言で、セレナの動きが止まった。
彼女はゆっくり周囲を見回し、顔から血の気を失った。
僕には全部見えている。
桶も鍋も、壁際に積んだ薪も、モンドの斧も昨日までと変わらずそこにある。
隠した物が消えたのではない。二人には、存在していること自体が分からない。
「アンリ」
セレナが僕を見た。目に浮かんでいたのは怒りではなかった。怯えだった。
「あなたなの? また、何かしたの?」
息が止まる。
「こんなことを人ができるわけがない」
モンドが僕とセレナの間へ立った。
「家妖精か、悪い精霊の仕業だ。アンリを疑うな」
「でも、この子が物を隠すようになってから……」
「二歳の子供だぞ」
セレナの膝から力が抜けた。床へ座り込み、両手で顔を覆う。
「どうして……」
僕がした。
そう言うべきだった。
けれど、説明できない。
隠蔽も、《全知の書》も、二歳の子供が持つには異常すぎる。
「村長に相談してくる。必要な物を借りよう」
モンドがセレナの肩を抱いた。
「アンリ。少しだけ留守番していてね」
セレナは泣き腫らした目で僕の頭を撫でた。
「疑って、ごめんなさい」
「……ううん」
二人が家を出たあと、僕はテーブルへ近づいた。
桶へ触れ、少し動かす。そして皿、鍋、衣服、斧。昨夜、隠蔽を施した物へ一つずつ触れ、位置を変える。そして全ての隠蔽を解除してから《全知の書》を開いた。
隠蔽Lv2。
探知技能が隠蔽を下回る場合、対象は視覚だけでなく、存在そのものを認識できなくなるとあった。
セレナとモンドの探知は、どちらもLv1だった。
昨日まで、隠蔽Lv1の物は二人にも見つけられた。
だから経験値が入った。
隠蔽がLv2へ上がった瞬間、見破れなくなった。
知識としては、最初から本に記されていた。相手の探知を上回れば認識されない。だからこそ『魔の森』の野営地を隠せる。
けれど僕は、「認識されない」という言葉を見えにくくなる程度にしか考えていなかった。目の前に桶があっても触れようとすら思えない。生活の痕跡が突然すべて失われ、自分の家が空っぽになったように感じる。
セレナの泣き声を聞くまでその恐ろしさを想像していなかった。
隠蔽した野営なら魔物は確かに見つけられない。
その確認はできた。
けれどそれを収穫だと喜ぶ気にはならなかった。
それに、新しい問題がある。
見破られなければ経験値は得られない。セレナとモンドを相手にする限り、隠蔽はもう育たない。
方法を考えなければならない。
だが、その前に二人へ何を言えばいい。
入口の革が持ち上がった。モンドとセレナが、新しい桶や食器を抱えて戻ってくる。
セレナは一歩入ったところで止まった。
部屋には、さっきまで見えなかった物が何事もなかったように並んでいる。
彼女の手から、新しい桶が落ちた。
「……戻ってる」
木桶が床を転がる。
「あなた」
セレナはモンドの腕へしがみついた。
「悪魔よ。この家には、悪魔がいる」
モンドの顔も青ざめていた。
それでも彼は僕を背へかばい、外へ向かって神父を呼んだ。
その日の午後、家中へ聖水が撒かれ、祈りの言葉が響いた。
僕は寝床の隅で膝を抱えた。
神父が何度祈っても、悪魔は出てこないし、退散しない。
悪魔など最初からいない。
いるのは、村を出たいという理由で両親の暮らしを壊した僕だけだった。




