第133話:誰も刈らない
父が、立った。
寝台の端に足を下ろして、そのまま立った。二百四十日、誰かの腕を借りなければできなかったことだ。
モーリスは床から起き上がると、まず上着を探しに行った。
その日常的な動作は、見たものを信じられない自分の心を少しだけ解してくれた気がする。
私は、唱える句を探していた。
人を送るのは私の役目で、その句なら諳んじている。何度も唱えた。ヴェルジュのときも唱えた。
だけど、送る相手を送らなくなったときの句は習っていないなと思った。
*
「ライアン」
「はい、父上」
「畑は」
二日前と同じことを、同じ順で聞かれた。途中に、間がなかった。
「北の畑は、まだ蒔いておりません」
「そうか」
「私が蒔きます」
「領主が鍬を持つと、民は明日を諦めるぞ」
そう言って父はニヤリと笑った。
私も笑った。
*
外が、騒がしくなった。
最初は一つか二つの声だった。それが増えて、館の壁を通るようになった。
「モーリス」
「見てまいります」
モーリスは、すぐに戻ってきた。
この男は、報せを順に並べる。私見を足さない。私が物心ついてから、その順が乱れたことは一度もない。
「……人が」
「人が、どうした」
「門の外に、人が」
*
私は廊下を走った。今日、二度目である。
門の外に、領の者が出ていた。畑にいた者も、家にいた者も、出てきている。報せは私より速く出たらしい。館の者の誰かが走ったのだろう。
誰かが泣いていて、誰かが笑っていて、誰かが膝をついて祈りを捧げていた。
「ライアン様!」
「旦那様は!」
「お立ちになったと!」
「まことでございますか!」
私はうなずいた。
このところ耳にしたことがないほどの歓声が上がった。
それとほぼ同時に、誰かが声を上げて指を指した。皆がその指の先を見る。私も見た。
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門を出て、なだらかに下ったところに、麦の広がりがある。
畑ではない麦だ。埋めた者の上に一握りずつ蒔いたもので、誰も刈らないから、年ごとに増えていく。
そこに、人が立っていた。
一人だ。
麦の丈はまだ膝までしかない。だから、腰から上が、全部見えた。
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ヴェルジュだ。
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私が、この手で穴に入れた。丁寧に入れて、土をかけた。かけてから、上に麦を一握り蒔いた。十日ばかり前である。
服に土がついていた。膝から下と、両の袖に。手の甲にも。
爪の間が、黒い。
私は、その爪を見ていた。
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誰も、こちらへは来なかった。
ヴェルジュも来なかった。動かないのではない。首を回している。麦を見て、館を見て、それから空を見た。ただ、歩き出さなかった。
領の者も、動かなかった。さっきまで泣いていた者が、泣きやんでいた。
その時、背中で、声がした。
「皆さん、これは奇跡です」
ベルナール様だった。いつからそこにおられたのか、私には分からなかった。
「恐れる必要はありません」
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ベルナール様は、麦のほうを見ておられた。
懐から小さな綴りを出して、何かを書きつけておられる。書いて、また顔を上げて、麦を見て、それからもう一度書いた。
私が見ているのに気づかれて、あの方は綴りを閉じられた。
「失礼を。癖でございます」
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麦の中で、女の子が二人、離れて立っていた。
上の子が十くらい。下の子は五つに満たない。ヴェルジュの孫だ。埋めた日にも、同じように離れて立っていた。
下の子が、ヴェルジュを指さして、何か言った。
あの日、上の子は首を振った。
今日は、振らなかった。
妹の手を取って、そちらへ歩いていった。二人が通ったあとの麦が、そのまま元へ戻った。
*
二人は笑顔だった。




