第1話
本作は情景や心理描写を丁寧に描いているため、長めの文章構成になっています。
お忙しい方は、会話文「 」、キャラクター名、心の声( )を中心に追っていただくだけでも、テンポよくストーリーをお楽しみいただけます。
英雄譚とは常に、誰かの流す血と涙を礎にして紡がれる。
ここは紀元前800年頃の古代ギリシャ。
クレタ島の王女アリアドネは、その残酷な世界の理を誰よりも深く理解していた。
異形の怪物ミノタウロスが蠢く大迷宮。
あの絶望の闇からテセウスを導き出したのは、彼女が命を懸けて紡いだ一筋の赤い糸だった。
彼は大英雄となり、彼女はすべてを捨てて彼に付き従った。
それが、モイライが定めた、完璧な悲劇のプロットであるはずだった。
しかし、辿り着いたナクソス島の砂浜で彼女が目覚めたとき、そこに大英雄の姿はなかった。
あるのは、冷たい波の音と、自分を置き去りにして遠ざかっていく黒い船影だけ。
「私は......ただの、使い捨ての道具だったのね」
アリアドネは泣かなかった。
クレタの王女としての気品が、裏切られたからと地べたに這いつくばって涙を流すことを拒んでいた。
彼女は美しい衣を正し、背筋をすっと伸ばしたまま、あてもなく歩き始めた。
ナクソスの乾いた砂を踏みしめる。
遠ざかる黒い船影は、彼女の心に刻まれた裏切りの証のように、水平線の彼方へと小さくなっていくばかりです。
誰もいない、見知らぬ島の海岸線。寄せては返す波の音だけが、静まり返った空間に響いています。
どれほど歩いたでしょうか。
容赦なく照りつける太陽と、心身を削る渇き、そして極限の空腹が、クレタの王女の体力を確実に奪っていきました。
背筋を伸ばしていたアリアドネの足取りが次第に狂い、ついに彼女は、ナクソス島の砂浜に崩れ落ちるようにして意識を失いました。
そして、その魂が冥府の底へと落ちていくさなか、その様子をじっと見つめる視線がありました。
漆黒の闇と、仄暗い生命の気配が混ざり合う境界。
アリアドネの倒れる姿を、静かに見下ろす一人の女神がいました。
冥妃ペルセポネです。
彼女は、横たわるアリアドネの魂を見つめながら、そっと胸の内で呟きます。
(……もしかしたらこの子は、私を縛り続ける、あのザクロの呪縛を解く鍵になるかもしれない……)
昏睡するアリアドネと、それを見つめるペルセポネ。
異世界の黄泉の入り口で、二人の時間が静かに交錯しようとしています。
ペルセポネは、昏睡するアリアドネの胸元に、自らの祈りとも言える一筋の希望の光を託しました。
そして、この異世界の境界である黄泉比良坂へと、彼女をそっと送り出します。
この国には、アリアドネと同じように配偶者に裏切られ、黄泉の主となった伊邪那美命がいる。
そして、そのすべての理を焼き尽くすほどの絶対的な光を持つ、天照大御神という存在がいる。
その大いなる力に、ペルセポネは自らのザクロの呪縛を解く奇跡を夢見たのでした。
やがて、アリアドネはゆっくりと瞼を開けました。
視界に飛び込んできたのは、ギリシャの乾いた大地とも、ナクソス島の砂浜とも違う、見たこともない湿った土の坂道でした。
そこはギリシャの冥府ではなく、どこか湿り気を帯びた、果てのない坂道の途中でした。
足元には黄泉比良坂の冷たい土が広がっています。
「私は……ハデス様の治める冥界に来てしまったのね……」
彼女は、ここが自分の知る冥府だと思い込み、自らの死を受け入れようとします。
その時でした。
ズシン、ズシンと、大気を震わせる不気味な地響きが轟きます。
坂の向こうから姿を現したのは、アリアドネの知識にはない、角を生やし、筋骨隆々とした異形の怪物、地獄の獄卒、鬼でした。
ケルベロスともミノタウロスとも違う未知の恐怖を前に、アリアドネは逃げる気力を振り絞ることもせず、ただ静かに覚悟を決めて目を閉じました。
しかし、迫り来る足音が不自然に止まります。
鬼は、目を閉じてもなお毅然としたアリアドネの、気品に満ち溢れた美しい佇まいに圧倒されていました。
その高貴な姿は、到底ただの亡者には見えません。
(……この御方は、我が主、伊邪那美様の特別な客人なのかもしれない……!)
勘違いした鬼は、途端に態度を和らげ、跪きました。
そして、怯えるアリアドネの体をそっと労わるように、丁重に抱え上げると、黄泉の主が待つ立派な屋敷へと連れて行き始めたのです。
鬼に連れられ、アリアドネが辿り着いたのは、地上のいかなる宮殿とも異なる、禍々しくも荘厳な佇まいの屋敷でした。
一歩足を踏み入れたその場所は、まさに生者にとっての地獄そのものでした。
煤けた黒い柱や梁には、現世で罪を犯したとおぼしき無数の亡者たちが、太い縄や鉄の鎖で容赦なく括り付けられています。
彼らは苦悶に顔を歪め、言葉にならない低い呻き声を漏らしながら、絶え間なく身悶えしていました。
壁からは、まるで彼らの怨念が染み出したかのような、陰惨で冷たい気が絶え間なく漂っています。
これまで見たこともない凄惨な光景と、鼻を突く死の臭気に、アリアドネは胸が締め付けられ、恐怖のあまり再び意識を失いそうになりました。
しかし、クレタの王女としての気高き誇りだけが、彼女の身体を辛うじて支え、崩れ落ちることを許しません。
鬼は、そんな彼女の怯えを察したのか、括り付けられた亡者たちの姿を彼女の目にさらさないように慎重に、そしてうやうやしく奥へと導いていきます。
怨嗟の呻きが響く廊下を通り抜け、アリアドネは奥の間へと通されました。
重々しい襖が静かに開かれ、ついにアリアドネは、黄泉の国を統べる伊邪那美命の御前へと出ることとなりました。
ひときわ深い闇と威厳が満ちるその部屋で、アリアドネは息を潜めます。
鬼は彼女に向かって「ここで待つように」と低い声で告げると、さらに深い奥の間へと姿を消していきました。
静まり返った部屋の中で、アリアドネの耳に、奥から微かな話し声が届きます。
「はて……妾に客人とな?」
それは、鈴の音のように清らかでありながら、地底の底まで響くような深い響きを持った声でした。
しばらくすると、部屋の奥に垂れ下がった御簾の向こうに、人影が揺らめきます。
アリアドネは息を呑みました。
これまでの人生で、多くの王族や神々を見てきた彼女でしたが、目の前の存在から放たれる気品は、今まで経験したこともない、ただごとではないものでした。
それもそのはず、そこに居られるのは、日の本の大母神、伊邪那美命その人であったからです。
御簾の奥から、イザナミ様が静かに問いかけます。
いつもご愛読いただき有難う御座います。
ペルセポネ様の導きによって日の本の黄泉へ。鬼の勘違いVIP待遇を経て、大母神イザナミ様との運命の出会いです。
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※エウリュディケは第二部以降に登場します。
本稿は第一部です。




