初めての平群
玉祖神社を後にして、神立辻茶屋跡まで戻って考えた。
今日はここまでとして帰る? 最寄り駅は南西方向の服部川駅(近鉄信貴線)。先を進むと山を越えて、しばらくは駅はなく、平群駅か竜田川駅(近鉄生駒線)まで歩かなきゃ。
実のところたいして下調べはしていなかった。
どんな道か分からないけれど、竜田越レベルだといいな、あんなふうにほんの少し山道で、あとはほぼずっと住宅地かな?・・・えーい、行っちゃえ、と。
これが失敗だった。
辻茶屋を過ぎるとあとはただただ山道だった。人家はなく、勾配は長く、けっこうキツイ。
水呑地蔵(地蔵院)が最初の見所のようだったけれど、なかなかたどり着かなかった。「いちたら」と読める道標があって、これは櫟原のことかな? 辻茶屋の少し前から時々現れた地蔵たちは、ここでも時々現れた。
こんなに歩いてもまだ現れないってことはないだろうし、これは見落として通過したんだろうな、きっと・・・と思っていたら、やっと水呑地蔵。山の中のお寺みたいなところだった。
弘法水があって、十三街道を行く人々のために空海が祈祷して、湧くようになったと伝わるのだって。けれど今は「生で飲まないでください」。
空海の死後すぐの頃、真言宗の僧がここに地蔵を設置したのが地蔵院の始まりらしい。見晴らしのいいところだった。その後、地蔵院への道々にも人々によって地蔵が置かれたのかな?
それからまたけっこう歩いた。遊歩道とハイキング道とに分かれていて、ハイキング道のほうが十三街道。
そしてやっと十三峠へ。
かなり疲れていたし、時間は思いのほか遅くなっていた。十三峠の名の元になったという十三塚も見るつもりでいたのだけれど、峠にあると勝手に思っていたそれは、今来た道を引き返したところにあるらしく、知らず通り過ぎてしまったのかな? もう戻る気になれなかった。
十三塚は一か所に多くの塚をまとめて造ったもので、鎌倉時代に流行。どんな意味でつくられたかは不明だけれど、全国各地にあったそうだ。峠など、境目につくられていることが多く、けれど多くが壊されてしまっているのだって。山中にあって残されたここは文化財に登録されているそうだ。
この十三塚が十三街道の名の由来だろうと一般的には言われている。あとは「トミ」説もあるそうだ。
初代神武天皇が九州からやって来たとき、それを手助けしたという、先にこのあたりに暮らしていたニギハヤヒ。
当時、この一帯の王はナガスネヒコだった。ニギハヤヒの妻はそのナガスネヒコの妹、ミカシキヤヒメ。
ニギハヤヒとその息子、ウマシマジが神武天皇側につき、神武天皇はナガスネヒコを倒して、大和に入った。後にウマシマジは神武天皇の親衛隊長みたいなものになり、子孫が物部氏などになっていった。
義弟であるニギハヤヒと甥っ子であるウマシマジのまあ言えば裏切りで倒された、一帯の王だったナガスネヒコの別名はトミヒコ。妹の別名はトミヒメ(トミヤヒメ)。父はコトシロヌシだと言う。
一帯が「トミ」という地名で、そのことから二人がトミヒコ、トミヒメと呼ばれたと思われ、その「トミ」に十三の文字をあてたというのが少数派意見の「トミ」説。
峠に隣接して「みずのみ園地」があった。芝生展望広場も200m行けばあるようだった。けれどその道は下りで、ということは戻ってくるためにまた上らなければならず・・・やめとこ、とおかあさん。
そして山を下りて平群に。あとはそんなに時間もかからないはずだった。
峠あたりには地図がいっぱいはられていた。広域図、へぐり散策マップ、みずのみ園地の案内図。けれどみんなてんでばらばらに描かれていて、よく分からなかった。分からないのに、まあこっちだろうと深く検証もせずに歩きだしてしまった。
峠を越えた時には感動だった。
住所が奈良県生駒郡平群町になり、いきなりの下りで、眼下に遠く奈良が見えた。
ぐねぐねの車道をてくてく下った。途中、この道であっているのかな?と思いはしたけれど、一本道で、ひたすら歩くしかなかった。
そして看板に文字が。「ここは有料車両専用道路です。歩行者の通行を禁じます」。
有料車両専用道路を歩いてしまっていたようだった。しかし車一台通るじゃなし、わたしたち専用道路のようだったな・・・。
ちょうどここで一般道とつながっていて、とりあえず有料車両専用道路を下りて、ここはどこだと一般道を歩いていった。
どうやらわたしたちは信貴生駒スカイラインを歩いて、東に下るつもりが、南下していたようだった。道理でなかなか山を下っていけないわけだった。けれど南下していたと知ったのも後の話で、この時はどこを歩いているかも分からず、途方に暮れた。あたり一帯人も人家もなかったし。
とりあえず歩いていると、服部川駅への道標があった。神立からの最寄り駅だ。今更引き返すのもしゃくだから、反対に、奈良に下りて行くのだろう道に進んでいった。
そしてやっと山を下っていったのだけれど、人家も人もなかなか現れなかった。「大道」と道標はあった。けれどなんの足しにもならず、とりあえず進んだ。そしてやっと足の下に集落が現れた。
なんだろう、高低差の激しい中、水とともにあるみたいな窪地に相当に古そうな集落があった。なんだろう、池の底に眠っていた大昔の集落が姿を現わした夢を見ているみたいだった。
久安寺という集落のようだった。
素盞鳴神社と思しき神社も下に見えていた。
下りて行ってみたい誘惑はかなり大きかった。けれど下りたら最後、面白くてうろうろして、道は複雑そうだから迷いに迷って、帰りがいつになるかも分からないというのをひしひしと感じた。
またやって来よう、と、誘惑を振り切って、そのまま集落の外枠みたいな高いところにある車道を進んでいくことにした。
車道は分岐していて、やっと出会った人に道を尋ねた。人慣れしていない感じの中年の人は「あっちの道は」「この道を」と教えてくれたけれど要領を得なかった。あっちにも道はいくつかあるし、この道も分岐していくし、結局どの道を行けばいいのかよく分からなかった。
へぐり散策マップにしろ「⇒大道」にしろ、平群は知らない者には大雑把すぎたなあ。あまりよそ者がやって来ないところで、よそ者を意識していない案内になっているのかな?
ただものでない感じがすごくした久安寺について家に帰ってから調べたけれど、ほとんどなにも分からなかった。
ただ分かったのは、久安寺で高安城かと思われる遺構が見つかったってこと。服部川と久安寺の間にある高安山の山頂あたりを南に行ったところのようだった。
八尾市に「高安城を探る会」なる市民グループがあって、その人たちが建物の跡を発見。天智天皇が築かせたという高安城に関わる遺構じゃないかと話題になったそうだ。
実のところはもう少し後の時代の倉庫の跡だったみたいだけれど。
広い道をてくてく行くと、コミュニティバスの通る道に出た。終点は平群駅のようで、バス通りを進むと駅に行けるというわけ。ただ、すごい遠回りをするのかもしれない・・・。
バスに乗れるものなら乗りたかったけれど、2時には最終便が出ていて、もうとっくに2時を過ぎていた。人に道を尋ねようにも人の姿は皆無。迷子になるよりはましかと思って(すでに迷子だけど・・・)、参ったなあと、バス停をたどって歩いた。
久安寺久保入口バス停から平群農産物直売所みたいなところを曲がり、旧西小学校バス停方面へ。
通学路とある道を行けども行けども小学校は現れなかった。通学路にはふさわしくないような、イノシシだって出そうな雰囲気の道だった。そしてやっと現れた西小学校は廃校になっていて、「140年ありがとう」と書かれていた。
それからやっと平群駅へ。このあたりに旧西小学校と旧東小学校が合併した平群小学校があるようで、もしかしたら久安寺からもここに通うのかな? 大阪市内と比べての校区の広さにはちょっと心配になるくらいだった。
平群駅周辺はなあにもない田舎だった。
いやはや、しかしいっぱい歩いたなあ。
前の暗越奈良街道と言い、山越えする道は間違えるとつらいものがあるなあとしみじみ思った。スマホももっていないからなあ。けれどまあ、そういうのも決して嫌いではないのだ。