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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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十三街道を小阪から

小阪から十三街道を東に向かっていった。

上小阪八幡神社があった。小さな神社で、江戸初期の創建と思われるものの詳細は不明だそうだ。

小坂神社あたりが下小阪、弥栄神社あたりが中小阪、このあたりが上小阪。宝持南交差点でバス通りを横切り、近畿大学の北側の道を進んでいった。

高速(近畿自動車道)やらなにやらで車でいっぱいの道に出ると、中環だった。ここには信号が無くて、少し北の巨摩橋西交差点で中環を渡った。巨摩と書いて「こま」、ここも高麗の関係なのかな。

今までの散歩で、百済とか高麗とか、朝鮮半島関係の地名が大阪にはけっこうあることが分かってきた。

応神天皇や仁徳天皇のとき、大陸あたりは政治的に不安定で、多くの人々が百済経由で日本に渡り、日本に帰化。後に天智天皇のころ、百済は滅亡して、その頃にも大量に移民がやってきた。百済の最後の王の息子(百済王善光)も日本に帰化。百済からの移民たちが住んだところは百済郷と名づけられて、各地にあった。その名残で、百済川とか百済大橋、南百済公園、高麗川、許麻(こま)神社(八尾市)なんかが今もある。

これから向かう高安も、そこに住んだ高安氏は後漢の皇帝の子孫だとか、高麗系だとか言われているみたい。高安にも渡来人が多く住んでいて、秦氏とか高麗系の人々が多く、高麗寺も建てられていたのだって。

高安も八尾市だし、渡来人の多かった一帯なのだろうな。前に八尾街道を歩いて知ったことには、八尾街道あたりは渡来人の多く住んだところ。雄略天皇の頃、渡来人たちが通って都に向かったという磯歯津(しはつ)道を一部ひきついだのが八尾街道だと言われている。

中環の横には第二寝屋川が流れていて、川沿いを十三街道まで戻っていった。農家と柿の木が似合いそうな、思いきり最近まで水田だった感じのところだった。

それなのに工場地帯になっていた。道には轢死したネズミの血だらけの死体がはりついていた。一帯はかつて河内国若江郡だったところらしく、古い建物もときどき現れて、古い集落だった感じがしていた。

古くて街道のいっぱい通る小阪も、元は若江郡だったみたい。


つきあたりまで進んだら、ここで交差するのは河内街道。前に歩いた暗越奈良街道歩きでも菱江のあたりで交差した街道だった。ここは菱江の南のあたり。

古い道標があり、ここを右折。しばらくは河内街道を南下して行くみたい。若江地蔵とある一角があり、地蔵がいっぱいいた。住宅地や工場地帯になっていく中で居場所をなくした地蔵たちが集められているのだろうな。

第二寝屋川を越えた。第二寝屋川はここを西に流れ、それから中環の手前で北に向かうみたい。ここまでは東大阪市で、第二寝屋川の南は八尾市だった。幸町交差点(21号八尾枚方線)も渡ってさらに南下すると、道幅が広くなり、右手に西郡天神社。

東にはきれいに山が見えているというのに、このあたりも工場地帯で、シンナーの匂いがきつかった。

しかし西郡って急だな。周囲には北郡や東郡があるではなくて突然に西だけ。

不思議に思っていたら、西郡(にしこおり)は、漢字が変わっただけで、元は錦織(にしこおり)のことらしい。錦を織る職能部民、錦織さんが住んでいたところで、楠木正成が建立したと言われる河内寺の1つ、西郡寺(錦織寺)があったところなのだって。

楠木正成は後醍醐天皇の忠臣として有名な人。

鎌倉時代、武士(鎌倉幕府)が政治を行っていた。昔みたいに天皇が政治を行うべきなんだと立ち上がった天皇や上皇(天皇を引退した人)もいて、後鳥羽上皇(承久の乱)とか後醍醐天皇とか。

後醍醐天皇は足利尊氏や北畠顕家、楠木正成らに幕府と戦わせ、幕府を倒すことに成功。鎌倉時代は終わり、後醍醐天皇は自ら政治を始めた(建武の新政)。

けれど武士をないがしろにしていて、不評だったみたい。

足利尊氏は後醍醐天皇と離反。後醍醐天皇を幽閉して、新たに光明天皇をたてた。

ところが後醍醐天皇は脱出に成功。吉野に至り、我こそは天皇なりと宣言。朝廷(天皇を中心としたグループかな)が京(北朝)と吉野(南朝)にあるって状態に(南北朝時代)。

北朝と南朝はこの後、長く戦いあった。

北畠顕家は石津で戦死し、楠木正成も戦死。

後醍醐天皇の多くいた息子たちも多くが戦いで命を落とし、南朝を継いだのは後村上天皇。けれど後醍醐天皇のときのような勢いはなく、住吉大社の社家、津守さんのおうちに住んでいたみたい。

散歩していると北畠顕家の墓や、亡くなったっていう石津、住吉大社なんかを通った。それで知ったことには、そんなことがあったみたい。

建武の新政の頃、楠木正成は河内国の守護や和泉国の守護などを兼任していたみたいで、西郡寺を建立したのはその頃だったのかな?

南北朝の戦いが始まると、南朝に縁のものの多くが焼かれてしまったらしい。西郡寺については不詳。

南北朝の戦いでは南朝の楠木正成の元、戦死している錦織さんもいるようだし、西郡寺も焼かれてしまったのかもしれないな。

手水鉢が存在感を放っていると思ったら、西郡寺の心礎石だったものだって。


神社を過ぎたらすぐの信号を左折して、東に向かっていった。河内街道とはここでお別れ。双子地蔵などがいたけれど、開発されてすっきりとした住宅街になっていた。

八尾北医療センターを過ぎたあたりから道がカーブを描き出し、2つに分かれて迷うところはみんな右手に進むというのを繰り返して進んでいった。玉串川とバス通り(15号八尾茨木線)を過ぎると公園(山本町北第二公園)があって、その先には大きなクスノキや貝殻地蔵があった。このあたりを掘ると貝殻がでてきたと説明にあった。

ここを南北に旧玉串川が流れていたと思われるそうだ。玉串川は長瀬川から二俣で分かれる川で、今はバス通りの横を行儀よく流れて第二寝屋川に注いでいる。

地名は福万寺町だった。由来となった寺があったのだろうけれど、よくは分からなかった。

三野郷だったこともあり、古代にはミノさんって豪族の支配地だったそうだ。

ミノさんの勢力地は河内国若江郡、渋川郡、河内郡、高安郡だったあたりだって。ミノ県主(あがたぬし)ともいい、前に暗越奈良街道歩きで行った花園ラグビー場の北の英田(あかだ)って地名も、この県(あがた)からきていると思われるそうだ。英田は河内郡だったところ。

県(あがた)は日本が律令制(隋や唐の真似)を採用し、国や郡(こおり)を定める前にあった分け方で、成立したのは古墳時代と思われるそうだ。県主はその県の主ね。

ミノ県は広く、そのトップがミノ県主で、後に河内国若江郡、渋川郡、河内郡、高安郡になったってことかな。八尾市の南部(志紀郡)を除くほぼ全域と東大阪市の北部(讃良郡)を除くほぼ全域みたい。


このあたりには大化の改新の頃の条里制の跡が残るそう。玉串川の東には福万寺城もあったらしい。

福万寺遺跡も見つかっていて、周囲の遺跡と同じに勾玉をつくっていた形跡が残っているそうだ。

十三街道は十三峠を通るから十三街道かな。かつては玉祖道と呼ばれる道だったそう。

大阪の玉造と高安の玉祖(たまのおや)神社をつないでいたのだって。そしてその道々に、勾玉を作っていた集落の形跡があるんだとか。

玉造は勾玉などをつくる玉作部の人たちが住んでいたところで、玉祖神社には玉造する人々の神が祀られているそうだ。そこに古くから通じていた玉祖道にも勾玉をつくっていた跡が・・・って、おとぎ話か!?

今は不法投棄NGの中国語のポスターが貼られていたりして、信じられなすぎて途方に暮れた。


「右十三街道 左大阪道」と書かれた古い道標があった。その一本右手の道を東へ。

右手に北山本小学校。田舎の感じの道を行き、恩智川を福栄橋で渡った。恩智川に注ぐ箕後川が東から直線で流れてきていて、その北が東大阪市、南が八尾市になっていた。

箕後(みのご)川もミノ県主のミノからきているのかな。横小路とかいうあたりから流れてきているらしかった。

この北側の池島町には野鳥天国なるところがあるようで、気にはなりつつ東へ。野鳥天国って、分かる気がした。野鳥が飛んでくるにふさわしい感じのところだった。(恩智治水緑地(の一部?)が野鳥天国と当時呼ばれていたみたい。)

けれどもう少し東に進んで行くと、ここも工場地帯になってしまっていた。

見渡す限りたんぼだったのだろうけれど、そこに工場が建ち、そこに向かって大型トラックが走って、野鳥の飛来してきていたのだろう田んぼは、すっかり変わってしまったんだな。

右手には福栄町緑地。公衆トイレの便器が取り外されたままだったり、ゴミ捨て禁止の貼り紙が目立っていたり、緑地というには緑は少なくて、微妙なところだった。周辺には人っ子一人いなかった。

左手には集落が見え、池島環濠集落だったところらしい。

外環に出る前に右手に公道が現れて、そちらに。カーブして街道らしい道だったけれど、両脇は工場ばかり。


外環の向こうに道は続いていたけれど、外環に分断されて、渡る信号はなくて、いったん南の信号で外環を渡ってから続きを進んだ。このあたりで貴島病院が目立っていた。

それから横切った狭いバス通りは東高野街道。東高野街道は生駒山地の西麓部を南に向かい、高野山を目指すという道。

東高野街道を過ぎるとゆるい上り道になっていった。山の連なりが近かった。

前に暗越奈良街道を歩いて山に近づいていったときは紅葉の秋で、だんだん大きくなる山にわくわくした。今回は冬の終わりとあってか、わくわくはなかった。季節と気分って、関連しているんだな。

地名は八尾市楽音寺だった。楽音寺ってお寺があったからのようだけれど、詳細は不明。

しばらく行くと池があり、池のほとりに、田舎にぽつんと建つ一軒家だったのだろうなあと思われる朽ちた旧家があり、その横には貴島タイヤ商会の文字の消された元商店。ここの息子か親戚かが貴島病院の院長になったのかな。

道がつきあたると右折。このあたりから道はグネグネで、どこを歩いているのか分からなくなっていった。素直に道なりに進んでいったら南に向かっていたようで、途中からは池が多くて、お地蔵さんもいっぱいだった。

心合寺山(しおんじやま)古墳の案内があって、行ってみると、すぐのところに素敵な古墳があった。

そんなに巨大ではない。仁徳天皇陵とか応神天皇陵とか見てきた目には。

けれど中河内では最大の前方後円墳らしかった。広い公園として整備されていて、古墳もほぼ木の生えていない姿できれいに再現され、保全されていた。芝生で覆われた部分と葺石で覆われた部分があり、円筒埴輪なんかが並べられていた。

学習館もあって、埴輪のストラップや勾玉作り体験などもできるようだった。広いわりには人はいなくて、古墳に上ってみると(わたしはバッグで)空が広かった。いいところだなあ。

心合寺山の名は飛鳥時代の頃、このあたりにあった心合寺(しんごうじ)からきていると思われるそうだ。心合寺、楽音寺、福万寺、お寺が多かったところなのかな。それとも寺の名で呼ばれることの多い地方だったのかな。

心合寺は河内の秦寺(秦氏の氏寺)で、秦興(しんこう)寺とか秦公(しんこう)寺とかだったのが漢字が変わったのではないかという説もあるらしい。説というか、推理かも。


古墳は5世紀初め頃のものだそうだ。応神天皇や仁徳天皇の頃かな。古墳も応神天皇陵と同時期で、仁徳天皇陵より少しだけ早いくらいの築造かな。

楽音寺大竹古墳群を構成する古墳の1つ。古墳群には他に西の山古墳、向山古墳などがあって、4世紀(3世紀後半?)から5世紀にかけてつくられているそうだ。

周辺で勾玉をつくっていた形跡があることから、勾玉をつくっていた人々を統べていた王だったのじゃないかという説もあるみたい。

玉造をする人たちは、原石を産出する地域を中心に弥生時代の前から存在していて、それを5世紀後半になって、朝廷が部民として組織化していったと思われるのだって。5世紀後半は雄略天皇とかの時代かな。

このあたりで原石がとれ、玉造をする人たちが住んでいたのかな。玉は古墳などにもよく納められているし、装飾品でもあっただろうから、要人のために大量生産されたのかな。

このあたりはミノと呼ばれていて、ミノの王が各地の豪族に勾玉を配っていたのかも・・・。けれど5世紀後半頃に朝廷が力を強め、ミノにも手を伸ばしたとかかな。

そして難波に宮がおかれると、玉作の人々は宮の近くにも住むようになって、それが大阪の玉造・・・なのかな?


古墳の北側の道を東に向かい、それからじぐざぐと交差しあう道をあちこち曲がりながら進んだ。迷路のようだったから、どこをどう進んだのかもよく分からない。

大きな旧家の建ち並ぶ高台で、別世界に迷い込んだみたいな感じだった。

いろは文五郎の碑や向山瓦窯跡を通った。向山瓦窯跡は向山古墳だった。心合寺山古墳より古い前方後円墳だったけれど、平安時代から鎌倉時代にかけて瓦を焼く窯として再利用されて、形がほぼ残っていないそうだ。

瓦窯跡は平安時代末期のものと説明されていて、わたしには見てもよく分からなかったのだけれど、今も一部残っているらしく、平安時代ってやっぱりそう昔でもないんだな、と思った。

このあたりに愛宕塚古墳(これは6世紀頃の円墳)もあるようだったけれど、迷路の中で探しだす自信がなくてスルー。

向山古墳からお地蔵さんの並ぶ道を上っていった。お地蔵さんと、白黒の鳥によく会った。ピキキキと鳴いていた。

それから神立(こうだち)辻茶屋跡に出た。ここを右手(南)に行くと玉祖神社。左には古い道標に大阪道とあった。

十三街道沿いとあって、ここにかつては茶屋が並んでいたのだって。今ではちょっと信じられなかった。人も車も通らないひっそり閑とした細い山道の辻だった。この先は山の中で、そこを進んで山越えするのが今の十三街道。

辻に在原業平と茶屋の娘との「悲恋」が解説されていた。

「伊勢物語」という古典に、稀代のプレイボーイのあれこれが「むかし、男ありけり」と始まる物語で描かれていて、そのモデルと言われるのが在原業平らしい。天皇の孫(祖父は平城天皇、父は阿保親王)にしてイケメンで、けれど祖父は上皇になってから乱を起こした人だったから、時の天皇の政敵にはならぬよう、政界とは距離をおいて風流に生き、いろんな女性との浮名も流したという人だそう。

「ちはやぶる神代もきかず竜田川」の歌を詠んだ人。

伊勢物語でも「むかし、男」が竜田川に行って、「ちはやぶる神代もきかず」と詠んだことになっていて、そのことでもモデルは在原業平だとされているのかな。別の章では「むかし、男」が玉祖神社に参拝に行って、高安の茶屋で娘を見初め、通い詰めた話があるそうだ。

それがここというわけかな。在原業平は自宅のある天理から通ってきていたらしい。けれど娘が釜から直にご飯を食べているのを見て幻滅。恋は終わったそうだ。

それが悲恋? と思いつつ十三街道を外れて右折。南下して、気になる玉祖(たまのおや)神社へ寄り道。

南には下りの道だった。またこの坂を戻ってくるのか・・・と、おかあさん。

地名は神立。名前からして普通じゃないけれど、何なんだろう、この感じ・・・。この世じゃないような、時間の流れも止まっているような感じ。

坂に建つ古い家々の間を、古い時代からの風が吹きわたっているような。


玉祖神社は、そんな風の吹く坂の上に鎮座する神社だった。

神社にもそれぞれの顔があるって気がつくようになってきたこの頃だったけれど、ここはざっくばらんな、人徳のあるおじいちゃんみたいな神社だった。どことも知れぬところを歩いてきた先で、「よく来たな」と現れた、地に足のついたおじいちゃんのような。

高安の村々の氏神だそう。

ほどほどでいい感じの広さに境内には玉光滝や豊臣秀頼寄進の灯籠があった。大きなクスノキは根元に大きな石を抱え込んでいて、男根崇拝のちょっとした説明。

そして黒いきれいな鶏がいっぱい放し飼いされていた。天然記念物の黒柏鶏(くろかしわけい)だそうだ。

玉祖神社の鎮座は奈良遷都の年、710年だそう。山口県の玉祖神が大阪にやって来て、住吉神を頼ったそうだ。住吉神には恩智神を紹介されて、恩智神を頼ってきてここに鎮座したのだって。元々玉作の人々が住んでいたこともあって。

神の話になっているけれど、実のところは玉祖神を祖神とする山口からやって来た人々の話なのかな?

玉祖神はニニギの降臨に伴ってきた神の一人で、玉造の人々の祖先とされるそうだ。

710年、もう勾玉も流行らなくなっていた頃だろうな。仏教が浸透していくと、勾玉は忘れられていったみたい。


散歩しているとアマテラスとかスサノオとかヒルコとか、神話に関することも度々目にするので、ちょっとかじった。ニニギも神話によく出てくるキャラクターで、アマテラスの孫。

日本神話では、イザナギとイザナミが次々に世界をつくっていったことになっている。島々を産み、本州を産み、たくさんの神々を産んだ。

神々の中では最初にヒルコを産み、それからアマテラスとスサノオとツクヨミを産んだ。

アマテラスは太陽の神。

天でスサノオが暴れ、アマテラスが洞窟の中に隠れてしまい、世界が闇に包まれたことがあった。これは困ったと神々が協議。長鳴鳥を鳴かせたり、アメノウズメが洞窟の外で踊ったりし、外が賑やかになって、何事かとちょっと顔をのぞかせたアマテラスを力自慢のアメノタヂカラオが引き出した。

「アマテラスの岩戸隠れ」とか呼ばれる、有名な事件。

このとき、アマテラスを岩戸から出すために、あれやこれややってみた中で、玉祖神も呼ばれ、勾玉をつくっている。それが三種の神器の1つ、八尺瓊(やさかに)勾玉。

イシコリドメって人も呼ばれ、鏡をつくっている。これも三種の神器の1つ、八咫(やた)鏡。

この事件などあってスサノオは天から追放されて地上に。スサノオは出雲でヤマタノオロチと戦い、クシナダヒメを助けて妻に。ヤマタノオロチから出てきた剣をアマテラスに献上。これも三種の神器の1つ。

そしてスサノオの息子のオオクニヌシが地上の王になった(オオクニヌシの国造り)。

アマテラスはオオクニヌシに地上を自分の息子に譲ることを所望。結局息子ではなく孫のニニギが地上に降臨(オオクニヌシの国譲り)。

そのとき、アマテラスは3つの宝をニニギに持たせた。それが三種の神器。

ニニギのひ孫が神武天皇となり、それからその子孫が代々天皇に。三種の神器を受け取った者が次の天皇にってことになっている。

天皇が交代するには三種の神器の受け渡しが必要で、南北朝時代にもそうだった。

足利尊氏は後醍醐天皇を幽閉して光明天皇を新しい天皇にするために、後醍醐天皇に三種の神器の引き渡しを要求し、後醍醐天皇はそれに応じて、光明天皇が誕生。けれど吉野に脱出した後醍醐天皇は、あれは偽物だ、本物の三種の神器はまだ自分が持っている、と宣言し、朝廷が2つになってしまったのだって。

そして「アマテラスの岩戸隠れ」のとき、闇の中で時を告げた長鳴鳥というのが、黒柏鶏だといわれているのだって。

山口県の佐波(さば)ってところの原産で、山口県の玉祖神社でも飼われているのだとか。

ざっくばらんでありながらただ者でない感じを漂わせ、ミステリアスなところだった。

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