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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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東洋のマンチェスターだったところ

小さな公園が現れて、今度は「栗本鐵工所発祥の地」の碑があった。

栗本鐵工所って新炭屋町に明治42年に創立。水道とガス用の鋳鉄管の製造を始めたらしい。近代水道の始まりの頃。

明治の頃までずっと、下水処理もひどいもので、ねずみがいろんな怖い病気を伝播しまくっていたらしい。大雨が降ると、大阪市内はほぼ低地だったから、すぐ浸水して汚物が浮遊するような状態だった。井戸水を使い、不衛生だったし、水道は待ち焦がれられていたものだった。

ガスもそうなのだろうな。たきぎで炊飯したりしていたのかな?

栗本鉄工所は今も鋳鉄管のシェアはクボタに次いで2位らしい。南の千島、柴谷(住之江区)、加賀屋(住之江区)にも工場ができ、事業拡大していった。

昭和44年に本社を北堀江に移転。千島工場も平成14年に撤廃したそうで、今は碑だけが残る。工場の跡地は千島ガーデンモールになっているそうだ。


大阪はかつて「大大阪」と称されるくらいに栄え、工場と人口密度と公害などで「東洋のマンチェスター」とも称されていたそうだ。マンチェスターはイギリスの都市で、綿工業などで産業革命の中心になったところ。

蒸気機関を動力とした工場制機械工業が始まった頃のことね。

日本でも大阪では木津川周辺に工場が林立。三軒家に大阪紡績工場(今の東洋紡)ができてから、鉄工所、製鉄所、造船所、自動車工場なども次々とつくられ、職を求める人々が押し寄せたのだって。


川に三軒屋水門なるものが見えた。水色のアーチ状のもの。

洪水から守るためのものらしい。アーチ状なのは、普段は下を船が通れるようにしているから。

右手に化粧地蔵。覗いてみると、お化粧しているみたいな小さな顔が見えた。

このあたりは、川の近くだからかお地蔵さんが多かった。道なりに進むと、前方に千島公園が見えてきた。


このあたりに落合上渡船場の案内板があった。

運河に囲まれた大正区には、かつては多くの渡しがあったそうだ。船の運航を妨げるとして橋はかけられず、代わりに渡し舟が活躍したのだろうな。

昭和の時代になってからは市が直営するようになったのだって。渡船場は約30。木津川沿いに大規模工場が林立していたという時代、人々でにぎわい、通勤にも使われたのだろうな。

今では大正区は大阪市の中で一番人口が少ない区だそうだ。それでも7ヶ所の渡船場が残り、無料で市が運営。自転車ごと乗りこめて、通勤時間帯には多くの人が利用するんだって。


大正区と港区を結ぶのが甚兵衛渡船。

大正区と西成区を結ぶのが4本あって、北から落合上(千島~北津守)、落合下(平尾~津守)、千本松(南恩加島~南津守)、木津川(船町~平林)渡船。

あと2本は大正区内の、新しく造成された島への渡しで、鶴町に渡る千歳渡船と船町に渡る船町渡船。

もう区外にも1つ、此花区と港区を結ぶ天保山渡船があるそうだ。

中には、渡船のすぐ上に橋が造られているところもあるそうだ。でも橋があんまり高くて長いので、船を利用する人が多いのだって。


千鳥公園は広かった。

ここに大阪市内で2番目に高い山があるらしく、わたしも登頂するつもりでいた。ポタリング(自転車散歩)する人たちの間では、「大阪市の山を巡る」ポタとか、渡船場ポタとかもメジャーなのだって。

ここの昭和山は地下鉄工事で掘った土を盛って造った山らしかった。ちなみに1番高いのは鶴見新山で、鶴見緑地にあるそうだ。元はゴミ処理場だったらしく、ゴミを焼却したあとの灰などを盛って造ったのだって。

昭和山を目指して歩いているうちに迷子になった。う~ん・・・今回はパスしよう。


千島公園の南側を西に進み、大正警察署前交差点を過ぎて行くと、産土神社があった。開発が進みすぎた中で取り残されているように、唐突に現れた感じだった。

天保3年(1832年)創建。昭和の時代に移転してきたそうだ。ここらの新田(小林新田・岡田新田)の守護神だったらしい。新田開発に際して勧請したのだろうな。

そのまま西に進むと川のようなところに到着。川沿いが緑地になっていて、公衆トイレの向こうには桟橋が見えた。

ここは大正内港であるらしい。大阪港の一部なんだって。

この西に大阪湾があって、北から尻無川が流れてきて大阪湾に注いでいる。その尻無川と東の木津川を東西に直線につなぐ大正運河があったそうだ。千鳥土地(株)と大阪木材市場土地(株)によって造られ、大規模な材木市場や貯木場があって、いくつも橋がかけられていたのだって。

けれどほとんどが埋め戻され、西の一部だけが残った。貯木場は住之江区の平林などに移っていったんだって。

工場の林立する大正区は元々低湿地だというのに地盤沈下もあって、洪水などのたび被害を受けていたらしい。そこで港の横に、大正内港なる船の入ってこれる部分をつくった感じかな、ごそっと土をとって、その土で大正区内に盛土をすることになったらしい。

大正運河の残った部分もこの大正内港の一部にとりこまれたみたい。


桟橋って、もう少しおしゃれなものだと思っていた。

けれどここでは、橋も、停泊している船も、錆び付いている感じ。桟橋には自転車やバイクが止められ、船は桟橋に垂直にところ狭しと並んでいて、なんだか古い長屋(船)と路地(桟橋)のようになっていた。

向かいには遠く大きな橋が見えた。ピンクの橋とブルーの橋。

これから千歳橋を渡るつもりでいたので、どちらかが千歳橋だろう。ピンクかブルー、どっちかな?と楽しみだった。

大正内港に沿って西に向かう感じで、ずっと内港沿いの緑地を歩いた。

自転車のおばさんもいたし、テニスコートにはいっぱいの若者の声も響いていた。それでも、おじさんのイメージの町だった。作業着姿のおじさんが一番似合う。

内港の向こうに見えるのが工業地帯だからかな。夕暮れにはきれいなのかもしれない。けれど昼間には殺風景だった。

地名は北村だった。大正区は開発者由来の名前が多いみたいで、北村や泉尾は新田開発した北村さんの姓と出身地から。リトル沖縄があるらしい平尾も開発した平尾さんから。恩加島も開発した岡島さんからで、小林も岡島さんの出身地からの命名だそうだ。

鶴町と船町はもっと後の大正時代あたりに開発されたところ。


西に行くと尻無川と大正内港に囲まれて行き止まりになる。西には港区、南には鶴町。

渡船場の矢印も見えて、これは鶴町に向かう千歳渡船場ね。けれど鶴町には橋で渡ろうと決めていた。

橋への階段が現れた。階段で上って行った上がどうなっているのかは全く見えなかった。見上げると、自転車用のスロープもある長い階段の向こうに、長くて高い橋があった。橋の色はブルーだった。


おかあさんと散歩に行った先で、吊り橋なんかを渡ることもあった。河内国分から青谷に渡る吊り橋とか、山にハイキングに行った先でとか。

なんてことなくすいすい歩いた。でもここでは、おかあさんにだっこをせがんだ。本当は吊り橋ではないのだろうな。けれどまるで、都会にかかった巨大な吊り橋のようだった。

車道と歩道が分離されていて、横を通る車は多かったけれど、歩行者はわたしたちの他には誰もいなかった。

立ち止まると、トラックの走行や強風で橋がけっこう揺れていた。普通の舗装された大きな橋が揺れているのって、けっこう怖い。

ピンクの橋が遠くに見えた。どうやらそれは、阪神高速の港大橋だったみたい。上下二層になっていて、それぞれを高速が走っているらしい。神戸方面とつながる1階と、中央大通りとつながる2階と。全長980mだって。

曇と快晴とを細かく繰り返したその日、見通しはよくて、右手にはUSJの観覧車とその向こうの山々が、左にはハルカスとその向こうの山々が暗めの色調でくっきりと見えていた。

やがて前方にはイケアとその向こうの雲が。

こうやって見ると、山々と海との間の低い平地に、町がはりつくように出来上がっているのがよく分かった。

巨大な天変地異など起こったら、全部かっさらっていかれそうな、川の近くの蟻塚にも似た、無機質な都市。緑は一部に見えるだけで、あとはぜ~んぶ、ごちゃごちゃとした建造物だ。


橋の終わりかけに、下のほうでは廃棄された大きな鉄くずを、2台の大きなショベルカーが右から左へ移動させていた。ゆっくりと動くショベルカー。その上の橋を疾走するトラック。

なんだか世紀末のようだった。

そして鶴町へ。


橋の続きの大正通りを進んでいった。

なんだかひっそりとした印象のところだった。

道は広く整備されているのに、車はあまり通らない。赤信号で待っていても、一台も車が通らなかったりした。大正通りを直進していく車はまずまずいるんだけれど、交差点で曲がっていく車がほぼゼロ。人もほぼいない。

歩いていて、家や団地、アパートなどは普通に建ち並んでいるのに人はいない様が、ちょっと異様だった。

大正通りから一本入ったところに商店街を見つけたけれど、パン屋も潰れて、商店街としては終わりかけていた。

鶴町南公園前交差点まで南下したら左折。大正通りを今度は東に向かった。

鶴町は北に尻無川、東に大正内港、南に木津川運河、西には大阪湾がある小さな町だけれど、歩いている分にはそんなことは分からなかった。

鶴町から南恩加島に渡る大運橋では川沿いに工場があった。川というか、南の木津川運河と北の大正内港のつなぎめ。

もう少し西に行った大運橋交差点あたりには「船町」という文字が目立っていて、ちょっと特殊な感じがした。かつては賑わい、家もごみごみと建ち並び、お店もいっぱいあったのだろうなあという感じ。男たちの町で、男たちが住み、夜にはスナックなんかがあちこちで開店していたのじゃないか。

この交差点を南に行けば、木津川運河を越えて船町のようだった。

船町もまた北に木津川運河、東と南に木津川、西に大阪湾という小さな町で、しかも今でも工場(中山製鋼所や日立造船)しかないような重工業地帯であるらしい。古くは映画「ブラックレイン」のロケ地にもなっているのだって。

昭和30年代くらいまでは、船町まで船を並べ、その上に板をわたして、歩いて通っていたんだって。そして帰りにはここに並んでいたお店で一杯やっていたのじゃないかなあ。

交差点には古くて大きなクボタの工場もあった。

ちなみに交差点を北上すると、平尾経由で千島公園。


大運橋交差点からそのまま東に歩いていると、千本松大橋にたどりついた。

この橋も大きくて高い。高い橋までらせん状になったスロープをどんどん登っていかないと橋にたどり着けない。その螺旋の大きさを見ているだけでくらくらしてくるようだった。

その螺旋を伴った形状から通称「めがね橋」。

千歳橋を渡っただけでもう十分だったので、今度は渡船を試すことにした。

千本松渡船場の案内されている方向に歩いていった。千本松渡船は西成区に渡れる渡船。

渡船場は、防犯カメラ作動中と大きく書かれた細い人気のない道を少し入っていったところにあった。川に向かって下っていく途中に屋根のあるベンチがあって、昔のままのような時刻表が貼られていた。

川には停泊した小さな船があるけれど人っ子一人いなくて、本当に渡船しているのか分からなかった。けれど出航時間が近づくと自転車に乗ったおじさんが二人現れて、そのうち職員らしき人も現れて、船への簡易なゲートを開けてくれて、みんな乗船。

船はすぐに出発した。わたしはバッグの中にいた。ばばばばとすごい音だった。


木津川を渡り、向かいの西成区南津守に着いたら、コーナンの方向に向かった。

コーナンからはお馴染みの散歩道。

大正を歩いた後には、このあたりの西成さえ花がいっぱい咲いた少々風光明媚なところに思えた。大正は重工業地帯の名残を今も残していたからなあ。

工場の騒音、化学物質の匂い、お店はスナックは多いところもあったけれど、ほかには素敵な店舗に乏しくて、おじさんたちの町って感じだった。

前回の散歩で行った九条や野田あたりも、昭和を残した町だった。おじいさんおばあさんの多い町。けれど、歴史があって、人々が土地に愛着を持っている感じがした。

今日歩いたあたりは、どっとみんなが移ってきたものの、今やいまいち暮らしやすくはないなあっていう、でもまあしょうがないかっていう空気が漂っているような感じがした。

悪天候だったから、そのせいでそんなイメージになったかな? また天候のいい日に行ってみたいと思った大正区だった。

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