大阪の八十島だったあたり
涼しくなってきた頃、また大阪市内を散歩しに行った。
暑いからなと近場ですませて歩いてみた大阪市内は思いのほか興味深かった。市街地になりすぎていて歩いていてもそんなに面白くはないのだけれど、ときどき現れるものがかなり面白い。
居留地跡、遊郭跡、明治時代の湾港施設の跡、長すぎる橋、広すぎる交差点、地下トンネル、えらい人たちの出身地や縁の地。
天気予報はくもり。けれどその日は小雨が降ったり、かと思ったら照って暑くなったり、急に曇って風が吹いて寒くなったりした。
今回は地下鉄大国町駅で降りてみた。目的地は大正。大阪の沖縄とか言われているらしく、どんなところだろうと思って。だからって大国町駅で降りなくてもよさそうなものだったけれど、橋を越えて大正区に入っていってみたかった。
地下鉄御堂筋線大国町駅を上がっていくと大国町交差点。
交差点から、西のJR芦原橋駅に向かう広い通りを進んでいった。大国町駅や、駅を出てからもしばらくは、外国みたいだった。韓国語に中国語ばかり。そして向こうからは欧米人カップルもやってくる。
日本人の方が少ないんじゃないかと思えるくらいだった。ハングル文字の教会なんかもあった。
そしてその通りで目立っているものといったら太鼓屋だった。大小いろんなサイズの太鼓が飾られている太鼓屋や、製造中と見えて、太鼓の枠に革をはったものが並んで置かれている太鼓屋。
立派な太鼓屋「正」もあった。だんじりもショーウィンドウに飾られていた。「政」と書かれた建物もあって、なにかと思ったら太鼓練習場のようだった。
渡辺村に近いところだから、太鼓屋が多いのだろうな。
途中、願泉寺があった。素敵な庭園があるらしい。
なんでも小野妹子の八男の創建だそうだ。鎌倉時代には天台宗のお寺になっていたけれど、蓮如のいた時代、住職が本願寺に帰依して浄土真宗の寺になった。その後、応仁の乱で焼け、ここに移転。当時の住職の弟子には伊達政宗もいて、政宗寄進の茶室や書院もあったけれど、空襲で消失。
・・・なにげなく存在する小さなお寺になんて歴史がいっぱいなんだろうとびっくりした。堺と同じで燃えていなかったら、どんなに面白いところだっただろう。
それから線路が道路の下を横切っていた。JR関西本線で、北にはJR難波駅、南には今宮駅。
左手に大きな空き地があった。なにかの施設だったらしいのだけれど、閉鎖されているようだった。浪速青少年会館かなにかだったのかな?
この頃、人権文化センターのような同和地区だと分かりがちなものが一気に廃止されているのを散歩していて感じていた。青少年会館もそういう施設の類だったみたい。
塩草2丁目交差点を過ぎ、左手にJR芦原駅。ここだけ新しくて、ぴかぴかしていた。
芦原駅はJR環状線の駅で、この先は環状線に沿って北上して行った。環状線の高架下には店が並んでいるのだけれど、多くが閉まっていた。駅から離れて行くと、高架下にあるのはお店じゃなくなり、木材店や鉄工所、普通の家なんかだった。ガード下に普通の住居があるって、どういうことだろう・・・。
すぐに南海汐見橋線と交差して、今度は汐見橋線の西側を歩いて行った。
前々回の散歩でも歩いた立葉あたり。大丸汐見橋別館があって、諏訪神社があるはずだったけれど見つからなかったところ。
前回工事中だったところが諏訪神社だったのかな、と思っていたので、今回は工事中のところをじっくり見てみた。そうしたら、おそらくは神社の鳥居の柱だったらしきものが、倒されて山と積まれた物の中にあった。
千日前通りに出て左折。西に向かい、日吉橋交差点を過ぎた。
この北に道頓堀川が流れていて、そこに日吉橋がかかっているらしかった。
もっと行くと木津川にでた。大正橋を渡ると大正区。このあたりで北から流れてくる木津川に東から流れてくる道頓堀川が合流していた。
木津川は南に流れ、西には岩崎運河で尻無川とつながっている。かつてはこの北で木津川から分岐し、松島遊郭を囲っていたという尻無川だけれど、昭和の時代にここから北は埋められたそう。
大正橋の手前は、昔からの商店なんかが残っている感じのところだった。室町時代の刀が飾られた清重産業や丹生商店など。
大正橋を渡るまでは浪速区で、「監視カメラ作動中」の文字があちこちにあって、あまりいい環境のところとは言えなそうだった。けれどそれだけじゃないのが感じられた。
大国町からここに至るまでに、自分の仕事場、仕事道具をきれいな雑巾で拭いているおじさんを何人か見た。年季は入って、錆なんかも出てはいても、きちんと磨いて、きちんと仕事をしているおじさんたちの町、そんな感じがした。
大正橋を渡った。大正時代にかけられたから大正橋で、大正区の大正は、この大正橋からとったらしい。
右手すぐに大阪ドーム(京セラドーム大阪)が見えた。
木津川以西、道頓堀以南のここは大正区だけれど、道頓堀川の向こうは西区で、ドームは西区に存在するみたい。
橋を渡ってすぐの大正通を南下していった。すぐに環状線の大正駅だった。左折して駅前を過ぎ、商店街を南下していった。
沖縄風の音楽が流れていた。けれど商店街もすぐに途切れて、沖縄っぽさを見たのは、この日、ここでの一瞬だけだった。なんでも大正区にはリトル沖縄と呼ばれる地域があるらしいのだけれど、それは平尾ってところ。知らずに行ったものだから、大正区内をけっこう歩いたのに、平尾は通らなかったのだ。残念だったけれど、大正もそう遠くないと分かったし、またそのうち行ってみようかな。
大浪橋西詰交差点まで南下したら、東の大浪橋方面に向かっていった。
大正区と浪速区を結ぶから大浪橋だって。この大浪橋を渡ってまっすぐ行くと、前々回の散歩で歩いた稲荷交差点。
橋は渡らずに、手前の道を南下していった。信号で道が左右に分かれていて、右手には神社が見えた。
八坂神社だった。徳川3代将軍の頃の創建で、「上の八坂神社」とか「上八坂」とも呼ばれているらしい。ちょっと高くなったところにあり、合祀されている姫嶋龍神社のほうが目立っていた。こっちが本元?と思ったら、やっぱりそうだった。姫嶋龍神社のあったところに、八坂神社が移転してきたらしい。
姫嶋龍神社の詳細は不明らしかった。
けれど「姫嶋」とつくことから、西淀川区姫島にある姫嶋神社と同じ神様じゃないかとされているらしく、それならば祭神はアカルヒメだそうだ。
新羅の王子アメノヒボコ(垂仁天皇の時代の人)に嫁いだものの、別れましょうと里帰りした女性。里帰り先は難波津で、それを祀ったのが平野の赤留比売神社だとか、鶴橋駅北の比売許曽神社だとか言われている。
アメノヒボコはアカルヒメを追って来たのだけれどほかの女性と結ばれたそうだ。そのアメノヒボコの子孫が神功皇后であるらしい。
このあたりは地名(というか島名かな)も姫島だったんだって。
その後、中村勘助(木津勘助)なる人が開拓に尽力して、勘助島と呼ばれるように。
勘助さんは木津に住み、豊臣秀吉に仕えた人で、江戸時代になってからは木津川を開削し、勘助島などの新田開発を行ったらしい。そして大飢饉のとき、民のために大阪城の備蓄米を出すことを願ったけれど聞き入れられず、「お蔵破り」。
葦島に島流しとなって生涯を終えた(と言われている)んだって。葦島って、今の三軒家あたりだそうだ。
難波八十島と呼ばれるくらい島がいっぱいあって、その1つが姫島や葦島。北の九条でさえ島で、このあたりはみんな大阪湾だったところ。淀川から流れてくる土砂で自然にどんどん埋め立てられていったみたいだし、川の開削や新田開発もさかんに行われて、島の数も変わったり、名前も変わったり、場所も変わったりしたのだろうな。
このあたりは難波島と呼ばれたこともあったらしい。難波村の人が多く入植していたから難波島だって。
難波島の北端には幕府の木津川口刑場があったのだって。そこで処刑された人には、蘭法医による解剖が行われていたらしい。
大浪橋近くの信号まで戻り、今度はもう一方の道に向かった。
「百済橋跡」の碑と説明版があった。百済橋は、難波島の三軒屋川にかかる橋だったそう。
駒川(高麗川)に百済大橋がかかり、アカルヒメを祀る赤留比売命神社がある平野と似ているな、と思った。難波津あたりには百済からの渡来人が多く住んでいたと言うし、その名残だったのかな?
百済橋跡の碑のたつ小さなスペースには桜の木があった。そして他にりんごとみかんが育ち、どちらも小ぶりではあるけれど、たわわに実っていた。
みかんは、きれいにバカリと割れていた。すぱっと真ん中で直線に割れ、そこからみかんの房がのぞいている。みかんって本当は、ザクロみたいに割れるものだったんだな。
そんな姿のミカンは初めてで、食べてみたかったけど、おかあさんはとってくれなかった。
ここで右折してまた南下。このへんにかつて自動車学校があったんだって。
大正8年、全国統一の自動車運転免許の制度が始まり、そのうちみんなが自動車に乗る時代がやってくるだろうと、若者ふたりが設立。今の自動車学校の先駆け「松筒自動車同好会」が誕生。エンジン構造の設計書の書き方まで教えていたんだって。
その後、自動車学校となり、平成12年に閉校するまで存続していたんだそうだ。
三軒家公園があり、説明板などがたっていた。
かつてこのあたりは、家が少なくて三軒屋と呼ばれていたのだって。3軒が移住していたばかりだったんだとか。その後、にぎやかになっていって、1657年(4代将軍の頃)には住宅地に近いというので川口遊里が禁止になるほどだったんだとか。
川口遊里は勘助島のあたりにつくられていた遊里だったらしい。禁止になって新町遊郭に移っていったみたい。
なんだかこういう説明を見ていたら、今でも華やかであってもいい感じがするけれど、どちらかというと殺風景で、家はいっぱいあるけれど人の姿はほぼなく、なんだか寂しい感じがするところだった。
けれど説明板はかつての賑わいをたたみかけてきた。
1684年、幕府の「木津川口遠見番所」ができて、船の出入りがさかんになった。朝鮮通信使などもここを通ってやって来た。三軒家東3丁目に「船囲い場」があって、今も名残が残っている。
近代紡績工業発祥の地でもある。大阪紡績(通称・三軒家紡績)が建ち、明治19年には発電機導入。不夜城のような工場に、見物人が押しかけた。云々。
公園の西側の信号から南下していった。つきあたったら一本右側の道に移った。天候が天候だからかもしれないけれど、人っ子一人いなかった。
犬猫霊園もあるらしい、古そうないい味出している呑海寺。それから八阪神社。これが「下八坂」。
1625年創建というから、新田開発者たちによって建てられたのかな。なぜかいる石のライオンがかわいかった。木も立派だった。
昭和27年、元の鎮座地に防潮堤をつくるため、ここに移転してきたんだそうだ。
高速の下を過ぎ、一段高くなった道路に小さな階段で上がり、続きを進んだのだけれど、これは防潮堤の跡なのかな??
新炭屋町という名が目に付いた。昔、新炭屋町という地名だったらしい。瓦町の炭屋さんが開発した「炭屋新田」なる新田だったのだって。
緩くカーブした一本道が続いた。元は川筋だったのじゃないかと思う。
右手にはしゃれたおうちが並んでいるのだけれど、左手はずっと続くゴルフセンターで、不自然な色の大きなホロがけばけばしく続き、どうにも景観を大きく損ねていた。
ゴルフセンターが途切れるとハルカスが見えた。




