大阪の地下トンネル
九条駅を過ぎると、今度はキララ商店街だった。
東側の路地に入っていってみた。このあたりは戦争で燃えなかったところなのかな。道がいりくんで、迷路のようだった。そして家から出てくるのは老人ばかり。善元鉄工所なるところでは、石炭で火をおこして作業が行われていた。なんだか古くからの集落の感じ。
商店街を抜けると、広い源兵衛渡交差点だった。堤防があるようで分からなかったけれど、この先に安治川が流れているみたい。
ここから北西に川口があり、外国人居留地だったということだったけれど、「川口」というだけに、元々はそこが淀川の河口部で、このあたりは元は大阪湾だったところみたい。
そしてそこに九条島など八十島が浮かんでいた。
けれど九条島あたりも埋め立てられて新田開発され、淀川の水は九条の真ん中を貫くように掘った川で流された。それが安治川みたい。
明治時代、安治川の渡しを源兵衛さんがこのあたりで始めたのだって。それで交差点の名が「源兵衛渡」。
今もここで向こう岸の西九条に渡れるようだった。川底トンネルで!
交差点の向こうに人の集まっているエレベーター乗り場が見えていた。歩きの人や自転車の人が6,7人。そしてドアが開くと、みんな中に入っていった。なんというか、道路にある業務用エレベーターのようだった。
交差点を渡って次のエレベーターを待った。ペットはキャリーにって注意書きにあって、わたしはバッグに。その間にまた6,7人の人が集まっていた。右側には古い「隧道」なんて書かれた建物があって、どうやらこれはかつて使用されていた自動車用のエレベーターらしかった。
安治川隧道は戦時中の昭和19年に作られたそうだ。陸の交通量も増え、安治川に橋をつくることも考えられた。けれど川を行き来する船があったから、相当に高い橋が必要とあって、川底トンネルを採用。それで源兵衛の渡しも廃止になったのだって。
エレベーターにのりこみ、扉が閉じられた。また開いて出て行くと、トンネルの中だった。でも明るいし、普通の地下道とあまり変わりなかった。警備員の人が一人立ち、「こんにちは」と声をかけてくれる。自転車の人と歩きの人とがみんな同じ方向に進んでいって、再び上りのエレベーターを一緒に待った。
「テレビ防犯カメラ24時間作動中」だって。
トンネルのすぐ横には高架を阪神なんば線が走っていて、トンネルを出ると、前方に西九条駅があった。
西九条駅(阪神電車)の下を通って、すぐの公園へ。
安治川を過ぎたこのあたりは此花区らしい。道なりに進んでいくと西九條神社があった。1680年、このあたりの新田に入植した人たちによって祀られたのが始まりらしい。新田あるあるね。それから道がカーブして、JR環状線と並行する大通りに出た。
それからすぐに福島区だった。
このあたりはマンションが素敵だった。緑がセンス良く植えられていて、マンションを彩るフリルみたい。上手に自然を取り入れて、街の中に緑を増やしていた。
地名は野田で、地蔵や古い建物もいっぱいだった。空襲で焼けなかったところとみえて面白かったから、大通りを離れて、東へ東へ歩いて行った。素敵な野田緑道もあった。
静かで、緑と地蔵も一緒に生きている人々の町だった。梅田に近いし、近くに大きなビルが見えているのだけれど、その中で昭和の暮らしを続けている感じがした。孫(梅田)の成長を見守るおばあちゃんみたいに。
どこを歩いているかもよく分からなくなっていたけれど、地名は玉川になっていた。
そして野田恵美須神社が現れた。いつ頃の創建かよく分からないけれど、平安時代にはあったと思われるそうだ。
このあたりが八十島だった頃、ここの島の人々は漁業などで暮らしていて、祀ったものと思われるそうだ。松下幸之助さんがこの神社の氏子代表をのべ5年間やっていたと説明書きされていた。
松下さんはパナソニックの創業者で、経営の神様と呼ばれた人。若い頃、福島区で何年か事業をやっていたことがあったのだって。
境内には「野田の藤」が育っていた。「野田の藤」はかつては有名だったらしい。江戸時代には吉野の桜、高雄(京都)の紅葉と並び称されていたというから相当のものだな。
野田藤を復活させようと、神社にも植えられたものの、今は花を咲かせなくなっているそうだ。
恵美須神社のすぐ横にも、なにやら古そうなものが見えていた。
「左 御旧跡御坊」とある立派な道標もあった。行ってみると極楽寺があり、「野田城跡」の碑もあった。戦国時代、野田城なる平城がこのあたりにあったのだって。
そして「証如上人御旧跡」とあった。本願寺第10世証如上人がこの地にやって来た時、六角定頼の手勢の者らに包囲されたのだって。野田福島の信者21人が上人を守って戦い、無事に逃がしたらしい。21人は殉死。
その21人を祀ったのが寺の始まりらしく、享保の時代には「野田御坊」とも呼ばれていたのだって。
証如は蓮如の息子の実如の孫。そして顕如の父。
戦国の世の中で、10万人の信者を動員できる本願寺は戦国武将にもあてにされ、証如は細川晴元を助けたそうだ。ところがその大きすぎる勢力が暴徒化し、細川晴元は今度は六角定頼や日蓮宗と手を結び、本願寺を倒そうとしたらしい。
当時、本願寺は山科本願寺を本拠地としていたのだけれど大阪御坊に逃れ、その時から大阪御坊が石山本願寺となったのだって。
その頃、証如が六角定頼にやられそうになったのだろうな。
しばらく東に向かうとあみだ池筋にたどり着き、あみだ池筋を南下して川を渡った。
堂島大橋で渡ったのは堂島川だった。橋にはかなり古さを感じる部分もあって、元はゴージャスだったのじゃないかと思われた。市電橋だったことがあるらしくて、その頃のものなのかな。
すぐにもう一度川を渡った。今度は土佐堀橋。中之島を歩いていた。川に挟まれた小さな島だけれど、歩いていると島だって気が付かないものだな。
それからすぐが靭公園だった。そのあとは電車で帰った。
近場でも、いろいろ面白いものはあるなあと思った。




