京街道を御殿山へ
京阪電車の線路を渡り、階段を登っていった。
「御茶屋御殿跡展望広場公園」なるところに出た。少し登っただけなのに、展望がいい。淀川も、向こうの山々もよく見えた。豊臣秀吉が1595年、御茶屋御殿をこのあたりに造ったんだそうだ。
御茶屋御殿って、茶道の関係の施設かと思ったら、旅行や外出の際に休むために設けた施設のことらしい。
京街道のちょうど中間あたりが枚方で、ちょっと休むによかったのかな。展望もよくて、ここにつくるのも無理はないと思った。ここに女性を住まわせていたとも言われているんだって。
展望広場公園にする整備工事中に出てきたという石棺も置かれていた。
4世紀の前方後円墳があったと思われるそうだ。万年寺山と呼ばれる山なので万年寺山古墳と名付けられている。秀吉が御茶屋御殿を造ったりしたので形が崩れ、そうとは分からなくなっていたみたい。石棺の他、青銅鏡や鉄刀も出土したらしい。
4世紀って、記紀などによると応神天皇(15代)の頃。秦氏の始祖(弓月君)がやってきた時代。
10代天皇の伯父のイカガシコオの子孫たちは肩野物部となり、天野川流域の交野や枚方を開拓していったそうだから、その一族の墓だったのかもしれないな。
公園のそばにちょっとした梅林があった。
意賀美神社の境内らしく、梅林から階段を登っていくと本殿があった。
元々は万年寺(萬年寺)なるお寺があったそうだ。それで万年寺山。推古天皇の時代、高麗の僧が、ここは唐のどこそこに似てるって草庵をひらいたのが始まりらしい。平安時代初期に聖宝上人なる人が立派な寺にして、牛頭天王社も創建。後には須賀神社となったのだって。
明治時代になって、そこに伊加賀(伊加賀宮山)から意賀美神社がやってきて、須賀神社と、岡井の日吉神社も合祀されたんだって。
伊加賀って、イカガシコオの本拠地だったらしきところ。意賀美神社も、そもそもはイカガシコオが自宅に水神を祀ったものだったと言われているそうだ。
まじか・・・古いな・・・。
意賀美神社から表参道の階段を下っていくと、「むくの木」への道標があった。
探してけっこううろうろ歩き回った。道はぐねぐねしているし、高低差はあるし、丘にできた迷路のようだった。地名は上之町。トカゲもいたし、白いツユクサも群生していた。
歩き回った末にまた「むくの木」への道標に戻ってきた。それで道標に地図も添えられているのに気づいて、それを頼りに行ってみた。
「むくの木」への矢印の方向に向かい、すぐの分岐で左側の上り坂を選び、つき当たりまで行ったら右折。しばらく行くと、左手の駐車場に「鋳物工場跡」の説明があった。その手前の細い路地道を入っていったら、「田中邸のむく」。
樹齢600~700年だそうだ。そしてその樹皮は、鋳物製品の研磨に用いられたのだって。ムクノキの皮は研磨に適しているらしい。それで「鋳物師あるところムクノキあり」と言われるのだって。
今まで河内鋳物師のいたところとかけっこう散歩してきたけれど、そんなこと知らなかった。
鋳物師って認可制だったらしく、ここは北河内唯一の鋳物師、田中家の鋳物工場があったところだそうだ。昭和40年まで続いていたらしい。
神社下の「むくの木」の道標に戻り、今度は反対方向に向かった。
坂を下っていくと、線路の手前に願生坊と大隆寺。台鏡寺の山門も見えた。
大隆寺には、独特な筆跡の南無・・・の石碑があったから、法華宗かな、と思った。この頃、少しだけ分かってきた。願生坊の元の順興寺とその寺内町が信長によって焼き払われ、代わりに法華寺が勧誘されてきたらしかった。
線路を越えて、浄念寺。京街道に戻って、ふたたび東に向かった。
しばらく行くと、いきなり賑わいのあるところに出て、右手に岡本町公園。左手にショッピング街。見上げればイオン。
枚方市駅(京阪電車)なのだけれど、駅に着いたというよりは「枚方宿」に着いたって雰囲気だった。「枚方宿」という文字と、説明板などが目立っていた。
付近には、日吉神社跡への道標があった。明治時代、意賀美神社に合祀されたという神社ね。
もう少し行くと、「百済王神社跡」への道標もあった。百済寺跡と一体になっている史跡だ。
白村江の戦いの頃、滅亡してしまった百済。最後の王の息子の一人、善光さんは日本にいて、そのまま日本に残り、「百済王」という名をもらって難波に住んだ。
そしてひ孫の時、奈良の大仏をつくろうとして金メッキするための金が必要な聖武天皇に陸奥の莫大な黄金を献上。出世して交野に居を移し、そこに氏神(百済王神社)と氏寺(百済寺)を創建したそうだ。その跡地が特別史跡として保存されている。
そのまま進むと、広い四つ辻にでた。
思いきり枚方の街なかの一部なのだけれど、古い道標がたっていた。「宗作の辻」だって。
油を作っていた宗作さんの屋敷があったから「宗作の辻」。磐船街道との交差点であるらしい。
ここで左折して、道なりに進んでいった。
このあたりのほうが雰囲気があるかな、と思った。観光客を意識した西見附より、そうでもない東見附のこのあたりのほうが好きだった。東見附の跡を過ぎ、もう少し行くと天野川。
少し左に行ったところに見えているかささぎ橋で天野川を渡った。さっきの道の続きに戻って歩く。
磯島交差点まで道なりに北上して、地名は天之川町。交野あたりに七夕伝説が残るというのは聞いたことがあったけれど、「天之川町」は想像以上だった。
このあたりでは彦星と織姫は、ニギハヤヒとセオリツヒメだなんてふうにも言われているらしい。
このあたりは渡来系氏族の秦氏の本拠地の1つでもあって、機織りの「はた」は秦氏の「はた」、機織りをよくした秦氏たちが七夕伝説ももってきたのかも??という説もあるそうだ。それで肩野物部の祖神、ニギハヤヒが主役にとってかわったのかも、というわけね。
応神天皇の時代、弓月君が氏族(秦氏)をひきつれてやって来たそうだ。百済経由でやってきたけれど、実のところどこからやって来たのかは謎らしい。秦の始皇帝の末裔だとか、ユダヤ人だとかとも言われている。どちらにしても様々な技術をもっていた集団だったらしい。養蚕と絹織物などをもたらしたと言われ、朱から水銀をとる技術を持っていたのも秦氏という話だった。後には行基の土木工事や、もしかしたら製鉄etc.にも関わっていたとか言われている。
淀川沿いの寝屋川には後に秦氏から出た有名人、秦河勝の墓もあるらしい。山城は秦氏が開墾したといわれているみたいだし。
淀川流域には古くは肩野物部が、それから秦氏もいて、肩野物部は後には岡山で製鉄を行うようになったそうなのだけれど、そこにも秦氏がいたそうだ。
集会所があって、延命地蔵や、ほかにたくさんの地蔵が集められていた。静かで、「煙草小賣所」なんて書かれた建物や、ほかにも古い建物がいっぱいで雰囲気があった。面白いところだった。
天之川町の東は禁野のようだった。桓武天皇が、それまで点野あたりで行われていた鷹狩りを、ここに場所を変えて行っていたそうだ。
淀川流域には、弥生時代、出雲から玉作の民がやって来たのか、八坂瓊神社があって、弥生時代の玉作工房の跡も見つかっている。もう少し西では出雲系の品を含む墳墓も見つかっているらしい。
古墳時代、ニギハヤヒの末裔のイカガシコオが淀川を本拠地にしていた。その妹は皇后になり、10代崇神天皇を産んだ。茨田などには屯倉もつくられた。
16代仁徳天皇の時代には、茨田堤(淀川の堤防)が築かれた。
奈良時代(750年頃)、百済王氏が河内国司として摂津国百済郡から枚方に移ってきた。
桓武天皇は枚方あたりで鷹狩りを行い、百済王氏を「朕の外戚」と呼んで重用し(母親が百済王氏の血筋で、地元は交野)、秦氏が開拓したという山城に都を移した。治水工事を行い、水運のメインルートが淀川~神崎川になった。
そして平安時代、菅原道真が左遷される時、淀川を下っていった。熊野詣が流行し、淀川を下って八軒茶屋で下船して熊野を目指すというのがパターンだった。
淀川河口に近い渡辺に源氏の渡辺綱が住み始め、大きな力を持つ水軍のボス集団になっていった。
室町時代、浄土真宗が淀川沿いに力をもつように(そういえば土居とか光善寺とか枚方とか久宝寺とか、大きな川のそばによく御坊をおいているな)。
渡辺あたりの石山本願寺が織田信長をも苦しめる強さをほこった。
江戸時代、城下町として栄えた伏見と、天下の台所大阪の間を船便が多く走った。そばには延長された東海道(京街道)もあった。
・・・という感じね。
日野橋で水路を渡ると磯島茶屋町だった。
左手に緑が見えていた。なんだろうとちょっと行ってみると、緑がフェンスで囲まれていて、そのあたりで水路が行き止まりになっていた。
自然豊かな緑の多いところで、水路もいっぱいあったのだろうな。けれどどんどん道ができ、宅地になり、水路は行き場を失ったのだろうな。ここもそのうちコンクリに覆われて、水路や緑も姿を消すのだろうなあ。
都会ではとっくに起こったことが、今、起きているところなのだろうな、と思った。今はコンクリに固められて街路樹だけがある都会も、こういう時代を経たのだろう。
小学生たちが下校していた。
大きな磯島交差点で広い車道(府道13号京都守口線)に合流。交差点の向こうに小学校があり、交差点にはかなり大規模な歩道橋がつくられているところだった。
あとは京阪電車が並走する13号線を北上していった。
天之川町、磯島茶屋町と静かだっただけに、いきなりの車の騒音がうるさくて、ガソリンスタンドの嫌な臭いが鼻についた。
「ペット納骨堂」の大きな看板があった。
そして御殿山駅にたどり着いた。
もう少しだけ歩いてみようと、商店街の方向へ向かった。商店街とは呼べないほどの小さな商店街で、そこを抜けると、いきなり古かった。光善寺の出口町と同じように、ただものでない感を漂わせていた。
枚方宿は、なんというかすっきりときれいすぎた。「古さ」を額縁に入れて、きれいに飾っている感じ。それに比べて出口やこのあたりは、「古さ」が堂々と生活の中に居座っている。
道も出口と同じようにぐねぐねで、下調べしてからでないと、とてもじゃないけれど散歩を続けられない感じ。今ならまた違っただろうな。線路、地形、自分の影の向き、そんなのを頼りになんとなく地図が分かる。歩き始めから無意識で東西南北を把握し続けられるようになった。けれどこの頃はまだ、地図は自分の頭の中にじゃなく、おかあさんのメモにあるものだった。複雑そうな地形と交差する道に降参。
また今度、しっかり下調べしてからやって来ようとUターンした。
でも、しばらく来ないかな・・・。
御殿山なんて、もう散歩の範疇じゃなく、ほとんど旅行って感じじゃない?




