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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
36/44

京街道を光善寺から

が、しかし、梅雨の合間に予想最高気温は28度、一日中曇りという日があった。

そうなるといそいそ用意を始めるのがおかあさんとわたし。

京街道の続きを、せっかくだから気になっていた蹉跎神社経由で歩くことにした。


日が射す時間帯もあった。でもまあ、肌がじりじり焼けそうなほどではなかった。

暑くはあった。でもまあ、最高気温31度越えとかの日の、息苦しいくらいの暑さに比べればずいぶんましだった。

京阪電車の中で、前に座った6人くらいの男性たちが、みんなそれぞれにスマホをいじっているというおそろしい光景でスタート。この頃からスマホの画面しか見ていない人にすごく会うようになったように思う。

光善寺駅で降りたち、電車の中から既に右側に見えていた小山を目指した。

駅のすぐ東を走る車道(府道21号八尾枚方線)をバックして、ひらかた信用金庫の手前で1本東の道に移り、道なりに香里園方向(京橋方向)に歩いて行った。

東側は小山だった。上り坂になっていて、北中振公民館や古い家々があって、楽寿荘(老人ホーム)があった。全部山だったのだろうところに斜面を削って道が作られ、家が建った感じ。その先になぜか大阪市立高等学校。誘致を受けて、1900年から枚方市に大阪市立高校があるのだって。


信用金庫の裏の道を道なりに進んでいった。道はカーブして、旧道の感じだった。古い家も多いし、土塀や瓦が目立った。「夏越大祓」の青い旗が時々現れた。

左手に圓養寺。なにもかもが古い。

21号線に出て、そのまま21号線を進むと、すぐに左手に鳥居が現れた。「蹉跎参道」と書かれてあって、ここに入って行って東に。


蹉跎神社は思いのほか小さな神社だった。高台にある、緑に囲まれた感じの境内だった。かつて聖徳太子開基と伝承の残る龍光寺があったそうだ。

裏手(東)は下り坂で、南側もそうだった。各地にある「さだ」神社は岬にあることが多くて、「さだ」は「狭田」、岬のことじゃないかという説もあるみたい。

ここも、河内湾の時代には、岬だったのかもしれないなあという感じはした。元々「狭田神社」だったのが、「蹉跎神社」と書くようになったのかも。


それから神社の周辺を散歩した。

古いのが当たり前って感じの町だった。「多少壊れかけていても、年月を経てきているんだから当たり前でしょ」と堂々としていて、風格がある。

いろんなものが色あせていた。道の下に見えた小さな公園も、「車の乗り入れ・犬の散歩」という文字は見えたけれど「禁止」の文字は消えかけていて、推奨しているのかと思うところだった。神社に奉納された絵も、もうすっかり色が剥げていたし。

でも、それが自然だった。古びていくのは当たり前。そう思わされる町だった。


旧道が交差しあっていて、どこをどう歩いているのかも分からなくなっていたけれど、歩いているうちに蹉跎小学校に出ていた。

ここがあたりで一番高いところじゃないだろうかと思われた。周りは下り坂ばかり。遠くまで見えた。枚方公園の観覧車も。

観覧車の見える方向に向かって、すごい急坂を下っていった。崖だったんじゃないかと思われるすごい高低差だった。そんな急坂の途中にも高い石垣の上に家々が建っていた

やっぱりここはかつて岬だったのかも。

ここでは墓地も高台にあった。洪水などがあって、古い時代には墓は高台に作られたのかもな、と思った。


バス通りに出て、光善寺駅に戻っていった。

それから京街道の続きを歩くべく光善寺(寺)に。途中、「出口だんご」なる団子を売っている古そうな和菓子屋さんがあった。おかあさんが入って行った。

中振交差点を過ぎて行くと、「左大坂 右光善寺」の道標があり、信じて右に行ったけれど、たどり着けず、道が変わってしまっているみたい。このあたりの「中振」という地名は古くからのもののようだけれど、由来は不明。

水路のある道など歩いていると、並んだ家々の細い隙間からも光善寺が見え始め、光善寺へ。光善寺に至る道の、もう一本東側の道を進んでいくのが京街道だった。


京街道を道なりに北上していくと、途中、すっかり朽ちた2軒の家があった。

むき出しの地面に草木が茂り、家の周りを水路も通っていて、素敵なおうちだっただろうなあと思わされた。

半分自然の中に住んでいるようなところだったことだろう。雨でも降ればすぐにぬかるみになっただろう。朝露も蛍もすごかったかもしれない、そんな感じがした。

かつてのままらしきその壊れかけた2軒の他は、みんなコンクリートで固められた市街地だった。朝露にぬれることなんてないだろうし、雨が降っても、排水されて、乾くのを待つだけだろう。

この壊れかけた2軒を見なければ、想像もできなかっただろうかつての「水路のある町に建つ家の風情」が感じられた。


左手に伊加賀小学校が現れて、京街道は水路の横を蛇行していく。

このあたりには水田もときどきあって、小さなおたまじゃくしなどがいっぱい泳いでいた。このあたりは元はみんな田んぼで、その高台に蹉跎神社が鎮座していたのじゃないかな。

伊加賀って、古そうな名前だ。この頃、1音につき1文字で成っている名前って古いものが多いって分かってきた。みたいに。

そうしたら、伊加賀は、伊香いかが色雄しこお命なるニギハヤヒの子孫からきている地名ではないかってことだった。イカガシコオは9代、10代天皇の頃に重職に就いていた人で、妹の伊香色謎しこめ命は8代天皇の妻で、子ももうけている。しかも8代天皇の死後にはその息子の9代開化天皇(母は同じくニギハヤヒの子孫の鬱色謎うつしこめ。イカガシコオ&シコメのおばさん)の皇后になり、10代崇神天皇を産んだ。伊香色雄は10代天皇の伯父でもあったのね。

イカガシコオは淀川一帯を支配していたそうだ。その息子は肩野かたの物部の祖となり、天野川流域を開拓していったのだって。その子孫が物部氏。

天野川は交野かたのを通って枚方で淀川に合流する川。


広いスポーツセンターを越えると、広めの車道に出た。

右にひらかたパークの観覧車が見えた。そのまま道の続きを行き、道なりに右に曲がり、東へ進んでいった。道は広めだけれど、往来はほぼなくて、なんだか贅沢なところだった。

枚方大橋南詰交差点に出た。

交差する大きな道は外環で、外環は左手(北)すぐを流れている淀川を枚方大橋で渡っていく。近くにうどんの恩地食品の本社があるようで、案内があった。交差点を東に渡り、前方の広い車道の、一本左側の道に入っていく。


けれどその前にちょっと寄り道をして、北の枚方大橋の方向に向かい、「水面廻廊」なるところへ行ってみた。

枚方大橋南詰交差点の東側の細い道を川の方向に向かうと、淀川の堤防に向かって高くなっていく車道の下に入っていけるようになっていて、そこに「水と歴史のふれあい公園」があった。

水の流れるせせらぎや小さな池があり、三十石舟を模したものが浮かんでいたりする。古い小さな町家?と思ったところはトイレだった。

奥まで行くと「合同樋跡」。昭和5年に完成した水道設備らしい。

今では高い堤防や広い外環などがあって想像するのも難しくなっているけれど、元は淀川とつながった水路がここにあったのかな。

管理人によっていろんな注意書きがされていた。守れなかった場合は・・・の文言もいろいろ書かれていた。

きちんと管理がされていてきれいな公園だった。そしてほかには誰もいなかった。

シオカラトンボが飛んで、三十石舟(もどき)にとまる。それを東屋みたいなところのベンチで見ながら、光善寺駅近くで買っておいた出口だんご(こしあん入り)を食べた。最高に贅沢だった。

出口だんごはかたさが絶妙で、特に草バージョンがきしゅきしゅとしておいしかった。出口とあって、蓮如の腰掛石を模した形につくってあるのだって。


ずっといたいくらいの心地よさだったけれど、京街道に戻って続きを歩いた。

地名は桜町に。つき当たりを右に、それから二股のところでは左側の上りの方に。上ったすぐのところに京街道の碑があり、道路がカラー舗装されていた。

そのカラー舗装が、これから進む東方面だけじゃなく、西方面にも施されていた。西方面も気になって行ってみた。

そうしたらさっきの合同樋跡あたりにたどり着いた。「すいめんかいろう(水面廻廊)」と書かれ、詳しい説明もあった。

「ここから毛馬閘門まで16kmの用水運河を通し、間にある5000haの田畑を潤していた。昭和40年頃まで使われていたけれど、淀川改修で川床が低くなって水が流れてこなくなり、役目を終えた」というような内容だった。

この「水と歴史のふれあい公園」は低くなったところにあって、頭上に橋がかかり、橋から東に向かっても、さっきの桜町の京街道の碑のところに出るようだった。

この道で京街道に戻った。一本南側の道との段差が激しくて、間は高く積まれた石垣になっていた。桜町は堤防にあって、京街道で栄えたところのように見受けられた。


後で知ったことには、桜町は桜新地と呼ばれた遊郭のあったところらしい。

そういえば旦那衆が遊女とそぞろ歩く、そんなのが似合う感じの町だった。柳や、ひっそりとした地蔵なんかがあって。

それで京街道から少し外れ、それでいて不思議な風情があったんだな。

桜町の京街道の碑のところからは、ほぼ道なりに、ただただカラー舗装と道標を頼りに歩いていけばよかった。

少し行くと枚方宿西見附なるところで、歴史街道アピールが始まった。古い町家も多かった。地名は堤町。

枚方宿西見附みつけって、枚方宿の西の入口のことらしい。見附は「交通の要所に置かれた見張り番」のことなんだって。枚方宿には西見附と東見附があった。

東海道53次が延長されて57次になったとき、追加された1つが枚方宿。ここから東見附までの泥町、三矢、岡町、岡新町が宿場町とされたそうだ。

ここから枚方宿ね。


そして鍵屋が現れた。宿屋(船宿)だった鍵屋を再現して資料館としたものらしい。船宿って、船をつけられる川沿いの宿のことなのかな。

船を貸し、2階には屋敷があったみたいで、桜町の女性と遊ぶのによく使われたみたい。おたなが京街道に面していてそちらから出入りできるほか、反対側は淀川に面していて、ここで船からも出入りできた。

観光客をとても意識した町に思えた。この日は観光客らしき人もたいしていなかったけれど。

岸和田を思い出した。岸和田はNHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」の舞台だったことがあり、観光客で賑わっていたようで、それを意識した街づくりが行われていた。けれど注目されていたのも過去の話になっていた。ここも同じように注目されていた時期があり、それを意識した街づくりが行われたのかな?

どちらも、そう遠くないなら行く値打ちのあるところだと思う。


次に浄念寺が現れた。浄土真宗の西御坊であったところらしい。

東御坊は願生坊だって。もともとは実如(蓮如の息子の一人)が蓮如のゆかりの地(枚方元町)に開いた枚方御坊だったらしい。後に順興寺になり、周辺に寺内町が形成されていった。けれど織田信長によって寺内町は焼かれ、願生坊として再興。

寺内町というのは、室町時代の頃にお寺や道場(御坊)を中心に生まれた集落のこと。荒れていた室町時代だから、環濠集落であることが多かった。そして大阪を散歩して見てきた限りでは、寺内町って浄土真宗の御坊を中心に生まれていることが多い。

今ではお寺というとお墓や、亡くなった後の諸々に関係するところってイメージだけれど、かつては寺を中心に町ができあがっていくような、強力な引力をもつものだったんだな。


問屋浜の案内があって、矢印の方向に行ってみた。すぐ「枚方浜(問屋浜)跡」だった。

通行手形を持つ特権のある過書船(幕府に許されて、伏見~大阪の淀川を航行した客船・貨物船)が出入りしたところらしい。

1716年(享保初年)の時点で、三十石舟(主に客を運んだ)671艘、二十石船(主に荷を運んだ)507艘があったんだって。

三十石船って船頭4人、乗客定員28~30人の船だそうだ。米を三十石積めるから「三十石船」。全長約17m。

伏見⇒大阪(八軒屋浜など)の下りなら半日か半夜、上りは一日か一夜で運行したらしい。上りは川を遡って行くので、サオでこいだり、綱でひいたり。料金も下りの倍以上したのだって。

伏見って、まだ行ったことがないし知識もないんだけれど、秀吉によって城下町とされたところで、江戸時代には京と大阪を結ぶ水運の要として栄えたそうだ。

元禄11年(1698年)、伏見船にも営業許可がおりて、過書船と伏見船は競合しながら共に運行していたんだって。

後には船頭が5人とか6人とか乗って漕ぎ、時間を短縮していたそうだ。快速とか急行とかも運行していたって感じね。

そんな客船の売店がわりになっていたのが枚方のくらわんか舟。「もち、くらわんか~」とか言いながら、小舟で客船に物を売りに行っていた。乱暴な言葉を使うと悪霊を退治できると言われていたそうで、乱暴な物言いがかえって喜ばれ、風物詩となっていったそう。


このあたりは泥町だったところで、船番所があって、船を監視したり、通行手形を改めたりしていたそうだ。

今の地名は三矢町だった。泥田だったことから泥町の地名だったのだけれど、泥なんて名が嫌がられて、となりの三矢と合併して改名したみたい。

すぐそばの京阪電車の線路の向こうに寺が見えていた。これが東御堂だった願生坊。

石段をずっと上っていったところには、どこかのお寺の山門も見えていた。ずいぶん雰囲気があった。台鏡寺だって。

台鏡寺には鎌倉時代の夜歩き地蔵や縁結び地蔵がいるそうだ。縁結びの地蔵さんとあって、枚方宿の遊女たちの参詣で賑わったそうだ。桜町の遊郭の遊女たちのことかな。

境内からの夕陽が絶景だそうだ。見上げるような高台だから、そりゃあそうだろうなあ。光善寺、枚方公園からこのあたりにかけても、西には淀川が流れる平地だけれど、東にはけっこう急峻な丘になっている。


小さな三矢公園があった。ここは本陣跡であるらしい。

枚方宿の中心部にあたる。元々は家が3軒しかなくて、三屋という地名だったんだって。けれど枚方寺内町に隣接していたことから、枚方宿となった頃にはすでに栄えていたそうだ。

専光寺(ここは新しい感じ)を過ぎて、京街道は道なりに続いて行くけれど、右折。

東の山手に行くオプションコース「万年寺山へ行こう」を企画してみた。

この東の高台は万年寺山といい、意賀美神社などがあるらしいのだ。「1音につき1文字」パターンね。

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