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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
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梅雨のある日

梅雨に入った。

この季節は嫌い。涼しめの日は雨が降っているし、雨が降らない日は暑い。

わたしは床におなかつけて眠ってばかりいた。怠惰は嫌いじゃないけれど、2,3日で飽きる。

雨は降らないけれど遠出できるくらい涼しい奇跡の日がやってこないかなあ。


雨が降った次の日だった。「関東は暑いけれど、関西では過ごしやすい一日でしょう。予想最高気温は28度です」。

28度! しかも午前中は曇り。連日30℃越えだったので、これは行かなきゃ、と亀岡街道の続きを歩きに行くことにした。


前回は高麗橋から淀川ゴルフクラブあたりまで歩き、新大阪駅から帰途についた。

その続きを歩くべく、地下鉄(御堂筋線)で西中島南方駅へ。新大阪駅は前回で苦手意識をもったし、新大阪駅よりは微妙に近そうな西中島南方駅へ。

しかし、通勤ラッシュの時間帯の御堂筋線はひどかった。混んでいるっていうのもだけれど、香水の匂いが本当にひどかった。くらくらして、息が吸えなくなって、心臓も苦しいくらいだった。こんなに混んでいる車内、タバコがNGなら、香水もNGにするべきじゃないか、なんて思った。

駅を出ると、すぐの阪急京都線(南方駅あたり)の線路沿いを、京都方面へと歩いて行った。

梅田からそんなに離れていないのに、カンカンカンと鳴る踏切が田舎の感じだった。梅田に近い割には、あまり人気ひとけもない。

道幅は広くて、あまり古い感じはないけれど、ところどころでお地蔵さんが現れた。そして妙に吐瀉物の跡が多かった。


JRを越えると、古い家も時々だけ現れた。

このあたりは、本当に人家もまばらな田舎だったのだろうなあと思う。古い家は田舎だったときからここにあって、それ以外は田んぼだったから、そこに新しく家やマンションが建っていったのだろう。古い家が本当にまばらで、それだけ田舎だったってことだろう。

左手に荒れた感じの市営住宅が現れた。駐車場らしきところは草ぼうぼうだし、窓付きのベランダ(線路沿いでうるさいからか、ベランダのような外の空間に密閉できる窓ガラスがついていた)を見る限り、住んでいる人ももう残り少なくなっている感じだった。

それから前回歩いた、市営飛鳥住宅のある交差点に至る。右折して、柴島高校の前を柴島駅方面へ。


高校の門の向こうに、前回は気付かなかった、叫んでいる人々のモニュメント的な像があった。地元近くの住吉東あたり、閉館した「市民交流センターすみよし北」横にある大きなレリーフに似ているな、と思ったら、どちらも沖縄の彫刻家、金城実なる方が関わった作品らしい。

住吉東の作品は「解放のオガリ」というんだそうだ。住吉東駅の近くにシフォンケーキなどを売っている「オガリ製作所」があるのだけれど、「解放のオガリ」からきている名前だったのかな。「オガリ」は解放運動の1つで、自らの思いを綴った朗読詩などのことみたい。

像は、差別され続けた人々の作品だった。被差別の人たちと金城さんとが一緒に作り上げたのだって。


柴島駅は阪急千里線。

京都線も千里線も、どちらも高架にするための工事中で、大きな支柱が出来上がっていっていた。警備の人が立ち、作業する人たちが動いていた。

この日はまだましだったけれど、これからどんどん暑くなっていって、わたしが今日は散歩はやめておこうって日でも工事は続いて、おじさんたちは仕事なんだなあと思った。おつかれさまだなあ。

これからも働くし、これまでも働いてきた。仁徳天皇陵の時代も、大和川付替の時代も、暑くても、寒くても。


柴島駅を過ぎると、歴史の散歩道の舗装が始まった。

前回も通った法華寺(摂津国の国分尼寺跡伝承地)を過ぎても歴史の散歩道は続き、途中で左に曲がって続いていく。この先には何があるのかな?と、歩いて行ったみた。

空き缶を大量に集める自転車のおじさんがいた。そして着いたところは柴島くにじま神社。

このあたりに14代仲哀天皇(ヤマトタケルの息子で、神功皇后の夫)を祀る森があったんだって。

鎌倉時代の1232年に大洪水がおきた。低湿地で、たびたび洪水に襲われていたけれど、その時はひどくて、人々は高台にあった森に避難してきたんだって。

そこに、柴の束に乗った小さな祠が流れ着いた。そして水も引いていった。その祠を祀ったのが柴島神社のはじまりと言われているらしい。

しかし・・・なんで森に仲哀天皇が祀られていたんだろうと思ったら、熊襲征伐にでかける途中、立ち寄ったんだって。

一帯は河内木綿の栽培が盛んで、淀川の水で木綿を晒した「さらし」を製造していたそうだ。江戸時代に始まって、明治時代には年間800万反生産していたんだって。堤に木綿を晒すさまは絶景だったらしい。

かつてのあざは調布。なんでも昔の税金「租庸調」の「調」(基本は繊維製品。代わりに特産物などでも)を「布」(絹は別格で、それ以外の繊維製品を「布」と呼んだんだって)で納めるのを「調布」と言い、布で納めていた地域には「調布」という地名が残っていることが多いのだって。


ここをあと少し東に行けば淀川だった。行き止まりかと思うような路地を行ったけれど、ちゃんと小さな石の階段があって、淀川方面に出られた。

柴島歩道橋で淀川通り(府道14号大阪高槻京都線)を越えて、淀川の堤防へ。淀川ゴルフクラブのところに出て、曇っているのがありがたい堤防を北東に歩いていった。

アカツメグサ、白いアカツメグサも咲いていた。ここでは面白い形の白い花が目立っていて、なにか調べたんだけれど、たぶんヘラオオバコ。オオバコの外来種だって。野草の世界にも外来種がはびこっているんだなあ。

そしてここから亀岡街道の続きね。

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