表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
25/44

高野街道を河内長野から

まだ時間もあったので、西高野街道から引き続き高野街道を歩いてみることにした。

河内長野駅から高野街道を歩き始めたところが「高野街道の立派な入口」みたいになっていた。

あたりは吉年よどしさんの土地みたいで、吉年さんが個人的に設けたものなのかなって感じがした。

「吉年邸のくすの木」が有名みたいで、塀越しに見上げた。その楠の横に小さな東屋の屋根みたいなものが見えていて、それも一体どれだけ古いんだろうと思わされた。

南西の方向に1キロくらい行ったところに(株)吉年があり、継手なんかを作っているみたいなのだけれど、その創業が「河内丹南鋳物108人衆の一人であった田中氏から享保3年(1718年)に吉年氏が受け継いだことにはじまる」のだって。この吉年氏に関係ある方の住まいなのじゃないかな。


吉年邸を過ぎると、右手の下り坂に進むのが高野街道だった。その前に左手に見える長野神社に寄ってみた。本殿は室町時代のものらしくて、存在感がすごい。祀っているのはスサノオ(牛頭天王)。

スサノオってあちこちで祀られているけれど、朝鮮半島からやって来た渡来人の祀る神社にも多いそうだ。河内長野全域や富田林の一部は、渡来人が多かった錦織郡だったところで、そのことと関係があるのかな? でも、詳細は不明。

事代主を祀る長野恵比須や、大きくて有名らしきかやのき、いちょうもあった。


高野街道には「高野街道」と書かれた提灯のようなものや道標などがあり、道も一部はレンガ色にカラー舗装されていて、分かりやすかった。

酒蔵通りでもあるらしく、それらしい素敵な町並みだった。天野酒(前に行った天野山金剛寺でつくられた僧坊酒)に始まる酒蔵なのだって。天野酒は高品質で、天下三銘酒の1つとも言われていたらしい。そして金剛山は、商売上手だったそうだ。

金剛寺が「天野酒で大もうけした」というのはそういうわけね。


つきあたり(この先は川)を右折した。

酒蔵通りは終わって、旧西條大橋を渡り、急な上り坂に向かう。「旧」は「舊」という字が使われていた。

川は石川で、「大和川合流地点から17km」とあった。川は酒の運搬にも使われたそうだ。かつて酒蔵には運搬を担う川が不可欠だったみたい。この、川に沿って湾曲した街道に町家などがずらりと並ぶというパターンは、前にもあった気がした。なんだか素敵なこんな通りは、川で運搬していた時代の名残だったんだな。


また坂を下り、車道に出ると、横断して目の前の上り坂に進んだ。「別久坂」と書いて「ビック坂」だって。地名は喜多だった。意外に多いこの地名は、「北」を美しく書き換えたものなんだって。

ビック坂を過ぎると、そのまままっすぐ進むのだけれど、右に行くとすぐに本現寺があった。近くのガードレールには「まむし注意」のポスターが貼られていた。

そして左には「⇒大日寺 高野街道」と書かれていた。少しそちら方面にも行ってみたのだけれど、大日寺は見つけられなくて、それらしいところも見当たらなくて、引き返した。後で知ったことには大日寺って、南河内のキリシタンの拠点だったところなんだそうだ。近くには「ヤソ地蔵」も残っているんだって。また見に行ってみたいな。


高野街道の続きを進んだ。

右手に鳥居が現れて、烏帽子形えぼしがた八幡神社だった。階段を登っていった先に神社がある。その裏山が烏帽子形山で、その山全体が烏帽子形公園になっているらしかった。

ビック坂を過ぎたあたりから、右手にずっとあった山。

烏帽子形八幡神社は、山にあった城の鎮守としておかれたものらしい。城は、南北朝時代にはおそらく楠木の、戦国時代には畠山氏等の拠点であったらしい。

神社のほうから失礼して、裏山に登ってみた。

けっこうすぐに開けたところに出た。そして丁寧に詳しく道標みちしるべが立てられ、案内板なども設けられていた。その道標の文字が「曲輪」「土塁」「本丸」「横堀」などなど。

ここにあった山城(山城といっても瓦もあったそう)はとっくになくなったけれど、神社の神域ってことで手を入れられずにいたから、けっこう山城の時のままの状態を保っているんだって。「土塁」「横堀」なんかも、さっき巨人の子どもたちが掘っていったよ、という雰囲気で残されていた。


歩いていると、男たちのロマンが感じられるような気もした。

戦いの時代、親を失った少年たちもいただろう。そういう子たちが大人(15歳くらいかな)になっていったとき、自由に自分たちで城として築いていっていい山の基地は、どんなに心躍るものだっただろうな。

今までいろんな公園を歩いてきた。都会の中の小さな公園、市街地化していく前にあえてキープしておいた緑地、神社の境内が公園になったところ、山を公園と名づけてしまったようなところ、古墳を公園にしたところ。こんなふうに山城が公園になっているパターンは初めてで、楽しかった。公園というか、山城を楽しむ場所。他に人はほとんどいなかった。

「山城」と聞いただけでは分からなかった、ちょっとうれしくなるような基地の感じ、風が通り抜けていく感じ、走りたくなるような起伏が感じられた。歩くのも、山の端っこで遠くを見渡すのも、楽しかった。けっこう遠くの車まで見えて、遠い時代、山野を走ってくる馬もよく見えたことだろうなあ。

駅から徒歩圏内にこんな公園があるなんてすごい。昔からここは交通の要所で、重要な城だったらしかった。畠山氏が同族間で取り合いっこしたりもしていたんだって。

戦国時代の終わり頃には、畠山氏の重臣として楠木正成の弟の子孫が甲斐庄氏を名乗って烏帽子形城に入っていたそうだ。この人が熱心なキリシタンだったから、キリスト教を奨励して、一帯が「南河内のキリシタンの拠点」となっていたのだそうだ。

けれど畠山氏が没落して甲斐庄さんも去り、キリシタン禁止令も出て、キリシタンたちは追放に。

一時はこの城を中心にキリシタンが300人ほどいたんだって。それで近くに大日寺やヤソ地蔵があるんだな。

当時、急に広まったキリスト教だったけれど、異国の言葉で布教される一神教のキリスト教を人々はそんなに理解していたわけはなくて、キリスト教の神を大日如来と誤解したりしていたのだって。それで大日寺なのかな。


公園には「古墳広場」と「古墳の道」もあったけれど、古墳は見つけられなかった。

東に行くと、お弁当広場などもあるみたいだった。わたしたちは曲輪近くで、河内長野の町を見下ろしながら、トリーゴのパンをいただいた。

ここでも木にナラ枯れ対策のビニールが巻かれていた。

烏帽子形神社においてあったパンフレットで知ったことには、神社でよく見る「檜皮葺ひわだぶき」は、その名のとおりヒノキの樹皮をふいたものらしい。神社にある檜の樹皮をはいで、それを加工するんだけれど、この檜皮がなかなかとれなくなってきているらしい。

樹齢70年くらいは経った檜からとるのだけれど、数が減少してきているのだそうだ。それで9年に1回くらい葺き替えたい屋根のために、各神社から檜皮を集め、葺き替える神社に順番で回しているんだって。


烏帽子形山から下っていくとき、白いツユクサが群生していて驚いた。青色しか知らなかったから。

その後も、他のところでもいっぱい見た。今回の散歩では、ツユクサと、ドクダミの花が目立っていたかな。ドクダミの花は、石垣にも咲いていて、なんだか似合っていて素敵だった。白いツユクサは、きれいだったけれど、初夏に咲いているってことはトキワツユクサってやつ? 「要注意外来植物」らしい。


高野街道の続きを行くと、上田町に入っていた。

「三日市宿高札」なるものが公園に設置されていた。すぐ近くに目立たなく建っている増福寺の、かつての境内にあった高札場を再現したものなんだって。

実際に江戸時代に掲示されていた高札も2枚見つかっているらしく、烏帽子型八幡宮に保存されているそうだ。その高札も再現されていた。

内容は、親は大事にしなさい、仕事は真面目にね、日々質実に生き、賭博なんかするんじゃないよ、というようなものだった。そういうことが箇条書きにされていた。

なんだか、江戸時代って、将軍が校長先生で、民が生徒だったって感じかなあと思った。お偉方は先生で。

増福寺には、寺子屋もあったそうだ。読み書きそろばんのほか、高札の内容と同じようなことも学んでいたのだろうなあ。


大阪から高野に至る街道の、真ん中に置かれたのが三日市宿だったらしい。

大阪を朝に発って、その日の夕刻に三日市の宿場へというのがパターンだったそうで、三日市宿は賑わっていたんだって。すごい健脚だなあ。大阪から高野まで約16里(≒64km)だから、その真ん中まで30km余り!

その三日市宿の北の入口がこのあたりであったらしい。三日市という地名は、毎月3日に市が開かれていたことに由来するんだって。

明治時代になると鉄道が敷設されたけれど、高野山への最寄駅は河内長野駅だったんだって。だから河内長野はたいそう賑わっていたそうだ。温泉街や長野遊園地もあったらしい(今の長野公園)。

そして大正時代になると橋本まで電車が通るようになり、河内長野は観光地としては廃れていったんだって。


三日市宿高札からすぐのつきあたりを左折。「金比羅講」とある金比羅さんがあって、大物主が祀られていた。

それから右手に幼稚園。小学校みたいに大きいなあとびっくりしていたら、「小学校跡」と書かれた碑がたっていた。元々はお寺があったところに、明治に小学校ができ、校庭に幼稚園が生まれ、そのあと小学校は移転していったみたい。緑と空に囲まれたこんな広い園庭をもつなんて幸せなことだなあ。

すぐ前方に現れた橋を渡った。下には川ではなく、371号線。跨線橋ね。370号線は車版の西高野街道だったけれど、371号線は車版の高野街道みたい。

もう少し行くと真教寺という立派なお寺が前方に見えた。その手前の、大正時代の交番(今は保存されているだけでおまわりさんはいないみたい)前を右折。

天見川が現れた。橋の手前、右側に月輪寺。


天見川あたりは、すごくいいところだっただろうなあと思われた。少し前まではホタルなんかもいたんじゃないかなあというような。

駅近(そうでもないかな?)の小さな川には珍しく、降りていくところがあって、ちょっとした川遊びができそうだった。川を渡ったあたりからが、三日市宿の見所スポットのようだった。宿場町の面影を色濃く残して、時代が違っている。

八木家住宅が目立っていた。こういう古いところって、牛乳配達の古い箱が多々残っていて、それを見るのも楽しみの一つなのだけれど、「ミルク・チェーン」と書かれてあって、市外局番は1桁。

裏手に大きな木が見えたので、路地を入って行ってみた。すると小川が流れていて、その向こうは竹林。別世界だった。「面影を色濃く残して」どころか、ここは江戸時代からそうは変わっていないんじゃああるまいかという風情。


街中に近づいている感じになってきて、立派な真新しい碑が現れ、三日市町宿場「油屋」の跡であるらしかった。わたしには初耳だったけれど、油屋って相当有名みたい。天誅組がここにあった旅籠「油屋」で一泊し、観心寺や楠木正成首塚を参拝、そして奈良に向かい、五條代官所を襲ったんだって。

まだ未知のことばかりで意味もよくわからなかったけれど、幕府領の五條で尊皇攘夷のために挙兵。ただ、タイミングが悪く、失敗。天誅組は壊滅した。けれど倒幕運動の先駆けとして重大な事件であったらしい。

長尾街道歩きで通った林で、八尾のお寺で歌道指南をしていた林出身の伴林さんが天誅組に記録係として参加していて刑死したという話を知った。幕末、尊王攘夷の機運が高まる中、武装した先進派が天誅組だったのかな。

地図で見ると、河内長野市って、西は堺や和泉、北は狭山市と富田林市、東は千早赤阪村、南は和歌山、そして千早赤阪村と和歌山との間に、ちょっとだけ奈良県とも接していて、そこが五條市のようだった。


もう少し行くと、三日市町駅だった。

スーパーマーケットがあって、外で待っていると、おかあさんが2リットルの水を買ってきた。

持ってきた500mlの水は底をついていて、2リットルの水を一緒にゴクゴク飲んだ。残りはおかあさんが背負って歩いて、家に帰り着く頃には空になっていた。暑くなってきたなあ。

スーパーを出ると、すぐ前の街道らしき道で続きを歩いた。

高い位置を走る南海電車を左に見ながら南下していくと、途中で国道371号線に合流。地名は西片添町。


新町橋交差点を過ぎてしばらく行くと、右手に鳥居が現れた。「一国一宇庚申」と書かれた庚申堂があった。60日ごとに巡ってくる庚申の日に、眠らずにみんなで起きておくっていうあれね。横に大きな集会所みたいなところがあったけれど、ここで眠らずに一夜を明かすのかな?と思った。

すぐに右側に現れた上り道に進んでいった。しばらくして371号線を高架の橋で越えた。

このあたりから雰囲気が田舎になった。山もすごく近かった。ウグイスが鳴いて、竹林が多くなった。

廃屋になっているどころか、家が基礎ごとない更地に草が生えている、というようなところがあちこちにあった。造成したけれど買う人がいなかったのか、かつては家があったのを更地にしたのか・・・。

少し高台にあるなぞの竹林のひとつに上がって行ってみた。

庭だったんじゃないかなあってところがあり、草の生えた更地スペースがあり、荒れた竹林があった。かつては広い庭に竹林もあるようなお家があったんだけれど、家は壊されて更地になった、とかなのかな?


近くには美加の台駅があり、大きなニュータウンがあるらしかった。青葉台、花台、美加の台など。

それに比べてこのあたりは、駅近ではあるけれど、山に入っていく途中にあって、取り残されているのかな。

もう山が近く、木々が風に揺れるのまで見える。いい匂いがした。地名は石仏いしぼとけ

分かれ道もあるけれど、ずっと371号に近い上り坂を選んで進んでいった。

小さな石仏寺が現れた。正式名は曼陀羅山阿弥陀寺。空海が四国巡礼の修行の途中で自ら刻んだ石仏を、ここに安置したことに始まるらしい。

山道を登っていくと、楠木正成が築城したと伝わる石仏城跡があるんだって。城主は伝・甲斐庄氏。楠木正成の弟の子孫ね。

ここまでは、高野街道といってもぴんとこなかった。「元々あったよく使われた道をつなげて高野街道と呼んだ」、という感じ。

けれどこのあたりに来て「空海がここを通り」って文言を読むと、空海の足跡をたどる高野への道なんだなあという感じがしてきた。

坂を下ると、石仏南交差点。道が多岐にあるけれど、一番右側の山沿いの大きな道を行く。


しばらく左に川を見ながら歩いていった。典型的な「田舎の国道」で、歩道がなくて、2車線の道にしては狭くて、危なっかしい。そんなには車が通らないからまだましだけれど。

左手には下に集落があるようで、道も続いているようだったから、できればそちらを歩きたい感じだった。けれど時々現れる、下に降りていけそうな道は草木で通れなくなっていたり、下っていけても、崩れた廃屋があって行き止まりになっていたり。

国道沿いにあったらしきお店もぜんぶ閉店しているようだった。大きなお店もこれから解体されるのか、工事中だった。

代わりに草木の威勢が妙にいいのだ。自分たちの時代の到来だと思ったのかな。草の全部が巨大化していた。イタドリもアンビリーバブルな伸び方をして、もうほとんど木のようだった。


右手の下の方に、目立たない清水井戸があった。

すぐに左手に郵便局。ここらあたりに郵便局があるはずだがなあと見渡していて、やっと気づいた。田舎の方にある簡易郵便局は、すぐには分かりにくいことが多い。ここを左折。

橋を渡った。滝もあって、いいところだった。けれどよくあるパターンで、終盤になるとばててきていて、あまり景勝を味わう余裕がない。

そしてこのあたりには薬師寺があるはずだったのだけれど、どこか分からず、そのまま進んだ。「右かうや」という古い道標が現れて、ここを右に。お地蔵さんには「かうや くまのみち」と書かれてあった。


「し尿汲取権売さばき所」のステッカーのある、かつては商店だったのだろう古くて味のあるおうちがあった。高野街道はそのまま真っ直ぐだけれど、「売さばき所」を過ぎて左折して、すぐの千早口駅へ。

高野山がなければこんなところに駅は決して作られなかっただろうなあ。ある意味奇跡的な田舎の駅だった。

駅前に極楽寺への道標があった。


まだ2時台だったけれど、もう少しで急行がやってくるようだったので、改札に入っていった。

もちろん無人駅。自動改札で入る。

そろそろ時間なのに電車は来なくて、あれ?と思ったら、時刻表を1時間間違えて見ていた。3時台はけっこう電車もあるけれど、2時台までは30分に1本くらいしかない。あと30分くらい待たないといけない・・・。

こんなことなら極楽寺にでも行けばよかったなと思った。


向かいのホームには外人さんがひとりいた。

関空快速には外人さんがすごく多い時代だったけれど、高野線の急行や快速急行にも多かった。高野線には西洋系の人たちが多く乗っている印象だった。高野山をめざすのかな、それとも外人客が多いらしい天美の南天苑を?

天美の南天苑も高野街道にあるみたいで、またそのうち行くだろう。

酒蔵あり、山城あり、宿場あり、山河あり、なかなか楽しい散歩だった。河内長野市って、文化財の多さが大阪府第2位、全国第14位なんだって。またそのうちに高野街道以外も散歩してみたい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ