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大阪を歩く犬2  作者: ぽちでわん
23/44

天野街道と陶器山

前に西高野街道を歩いていると、岩室あたりで天野街道との分岐点があった。

天野街道は陶器山の尾根を歩いて天野山金剛寺、別名「女人高野」に至る道らしい。

陶器山はかつて陶邑すえむらだったあたり。須恵器を大量生産していたという、窯も無数にあったらしきところ。

陶器山の尾根、つまり天野街道は河内国(狭山方面)と和泉国(泉北方面)の国境でもあったらしい。今は狭山ニュータウンと泉北ニュータウンにはさまれている山。

平安時代、河内と和泉で陶器山の木の伐採を巡っていざかいがあったと記録にあるそうだ。

この時、和泉国の人々が集まったところが泉北(泉ヶ丘)の高倉寺。岩室の分岐で高倉寺への道標もあった。

泉北なんて「ニュータウン」というくらいだから新しい集落かと思っていたんだけれど、相当に歴史があるんだな・・・。思えば泉北も陶邑だったあたりで、古墳時代には須恵器をつくる集落があったくらいなのだ。


今回は、西高野街道との分岐点から天野街道を歩くことにした。

分岐点の最寄駅は南海高野線金剛駅。それならば、前回行き損ねた(見つけられなかった)、金剛駅前にある狭山神社にも行ってみなくっちゃあ。岩室方面も歩くなら、前回気になった極楽寺観音院にも行ってみなくっちゃあ。

というわけで、9時前には家を出て、金剛駅へと向かった。

金剛駅は西口から出ると狭山神社があるのだけれど、間違えて東口から出てしまった。東口は初めてで、違う駅で降りてしまった!と思った。いったいここはどこ・・・?? それだけ西口とは違った雰囲気だった。

金剛駅って急行電車も止まる駅で、西口しか知らなかったわたしは、こんなさびれた感じのところなのに・・・と思っていた。ところが東口は、随分開けていて、別天地みたい。急行が止まるのも納得だった。

しばらくして間違いに気づいて西口へ。こっちのほうが落ち着いた。駅から西にすぐ狭山神社のはず、と進んでいってみると、竹林。

前回も、狭山神社を探してこのあたりは随分うろうろとして、この竹林にももちろん気がついた。けれど入り口も見つけられなくて、神社ではないのだろうと思っていたら・・・やっぱりここだったか。

入口や鳥居は駅とは反対側にあった。お城(半田城)だったらしく、そんな感じの残る神社だった。

すぐ裏手が山のようになっていて、山道っぽいところを行ってみたら、タケノコなんかも顔を出していた。もう少し奥に行ったら、突然山はぶった切られ、町中の駐車場だった。

本当は素敵な、自然の残る神社だったのだと思う。けれど神域だった森は買われたかなにかして、どんどん切り拓かれ、すっかり町中になってしまったんだろう。裏手の高台は町になり、駅もできて。


狭山神社の西側の車道を北上し、浦之庄交差点を左折。亀の甲交差点まで行って、天野街道のスタート地点に向かうつもりだった。

けれど西側の一帯が古くて面白そうだったので、そちらに行ってみた。お地蔵さんと「吉川甚之輔翁記念碑」が並んでたっていた。こういう農村だったのだろうなっていう古くからの集落にある「○○翁記念碑」も、お馴染みのものになってきた。池をつくるなど尽力し、農業を活性化した人の碑が多いみたいだ。

周囲には古そうな豪農風の吉川さん宅が多かった。子孫の人たちなのだろうな。地名は半田だった。

そしてなじみになった気のする狭山池の遊歩道を通って亀の甲交差点へ。こちら(池の南側)から見る狭山池は、高いビルも近くに見えて、都会の感じだった。

遊歩道に入る前に、近くの「FLOUR」でおかあさんがパンを買った。「FLOUR」もすっかりおなじみだなあ。いろんなところの支店や本店のパンをいただいた。

犬がパンを食べるなんて!と言う人も多いけれど、わたしだってパンは大好きだ。これくらいの楽しみがないと何時間も歩いていられない。

狭山池遊歩道では、シロツメクサに混じって、もう少しだけ大きめでピンクの花の咲くクローバーが目立っていた。アカツメクサっていうのかな?

池から流れていく川(西除川みたい)を越し、立体構造になっている亀の甲交差点へ。それから三津屋川を岩室橋で渡り、すぐ左手の三津屋川遊歩道へ。


ここもなじみになってきていた。右に見えてくる西小学校前で右折して小学校前を通り、すぐに左折。ここからは初めての道だった。

坂道を上っていくと右手に大きなガスタンク(ガスホルダー)なるものが2基。大阪ガスの貯蔵タンクらしい。都市ガスって、こういうガスホルダーからガス管を伝って供給されているんだって。ガスなんてたいして入らないんじゃないの?と思ったけれど、高圧力でぎゅっと詰まっているらしい。

「あまの街道」の道標があった。すぐそばを車道も走っているというのに、ここは、別世界だった。ウグイスが鳴き、ヘビイチゴが足元で赤い。

もうしばらく行くと、西高野街道と天野街道との分岐点だった。

右(北)に行くと、西高野街道(堺方面)。左(南)には道が2つに分かれていて、手前が西高野街道で奥が天野街道だ。


天野街道を行く前に、西高野街道歩きで気になった極楽寺観音院に向かった。西高野街道を少し堺方面に行ったところにあった。

北に向かうと、「岩室家塾跡」「岩室郵便局跡」「東高野街道」の新しい3つの碑が並んでいる。前回も見たのだけれど、碑の横に説明も彫られているのには今回初めて気が付いた。

家塾は、嘉永5年から明治21年にかけて、中林さんが開いていた私塾だったそうだ。郵便局は明治4年に岩室につくられた。どちらも中林さんが関係し、碑もその子孫らしき中林さんが建てていた。そしてその近くには、中林さんの相当な広さの敷地のお宅が、坂のてっぺんあたりにあった。

そこから下り坂で、広い車道に出る前に、左に下る細い道がある。その急な斜面を下っていくと、なんだか妙な窪地になった空間があり、その向こうの林に、お寺の入口が見えた。

「岩室観音院」とあった。これが極楽寺観音院らしい。行基の創建と伝えられ、空海もやってきたところだそうだ。かつては大寺院で、観音院はその一部だったんだって。行基、空海、聖徳太子、よくでてくる「伝えられている」名前。


境内の森のようなところを歩いていると、鳥のいろんな鳴き声がした。

そんなに広くは残されていないのだけれど、どんなに自然豊かなところだったか、なんとなく分かるような気がした。静かで、だ~れもいないところに、鳥の鳴き声だけが響いていた。

周辺には道もいろいろあったけれど、どこにたどり着く道だったんだろう? 今では狭山神社と同じで、窪地から上って行った先はぶった切られ、町中になっている。けれどそれ以前には、西の高倉寺あたりともつながっていたのかな?

なんだか興味を引かれる地形、雰囲気で、もしかすると最近まで池だったところなんじゃないかと思った。「妙な空間」である窪地は、最近まで池だったのを埋め立てたところなのかもしれない。

池畔に似合いそうなおうちも一軒、ぽつんと建っていた。

元は池もある、本当に自然豊かな中にある大寺院だった、そんな感じが残っていた。


西高野街道と天野街道との分岐点に戻り、天野街道を進んでいった。

かつては極楽寺に大門があって、そこが天野街道のスタート地点だったとも言われるそうだ。

ただただ一本道を南下すればいいだけで楽な道のりだった。しばらくは住宅地だったけれど、途中からは山道になった。ウォーキングの人、ランニングの人、サイクリングの人と行き交った。

山道の入口にはお地蔵さんがほぼ地面と同じの高さにいた。もう少し行くと現れたお地蔵さんは高い位置にいたけれど、思い切り底上げしました感があった。

天野街道は、狭山の人々が熊野に向かう道でもあったんだって。

下高野街道を歩いて、下高野街道は貧しき人々、もっと言えばらい病の人々が通った道じゃないかと思った。その下高野街道は狭山池で終わっていたけれど、そこからは天野街道で熊野を目指したのかもしれない。よく分からないけれど、こんな山の中の道なら、人目を憚って歩くにもちょうどよかったんじゃないか・・・。

天野街道は、平安時代の終わり頃には既にあったそうだ。


地名は今熊だったけれど、この先は地名もほぼ分からなかった。住所表示などない尾根道で、代わりにあるのは野鳥のイラスト入りの紹介。

まだ野鳥の名前まで覚えられない・・・。「すずめ」「つばめ」「からす」「うぐいす」「せきれい」「はと」「めじろ」「かわせみ」「さぎ」くらいかな・・・。

木立の中で、どこを歩いているかは、ほぼ分からなかった。展望もほぼなかった。木陰で気持ちよかったけれど、街道歩きというか、木陰の散策みたい。おわりかけのツツジが、遠目にきれいだった。


単調に一本道を歩いていると、行くつもりだった三都神社も通り過ぎてしまうところだった。

大きな石に描かれた案内図が現れて、通り過ぎていたことに気がついた。ほんの数メートルだけだったから助かった。少し戻って、コンクリートで舗装された道を下っていった。

山の麓、町中の道路のそばまで行ったところに三都神社はあった。元々は熊野神社だったという、今熊の地名の由来になった神社ね。

「熊野」って、平安時代くらいから上皇や天皇が何度も通った、南の奥深い熊野三山のあるところってことくらいしか知らなかった。

お稲荷さんが総本山の伏見稲荷から大増殖していったみたいに、古代、熊野三山の神を祀る熊野神社もまた増殖していったと思われるそうだ。でもその熊野の神について、詳細は不明。仏教が入ってきた後で大流行したので、熊野も仏教の要素が強くなったらしい。それもあってか、創設の頃のことなんてさっぱり分かっていないそうだ。

ミステリースポットで、たとえばこんな説もあるらしい。大昔、鉄製農具で稲作を進め、豊作を願う神を祀って多くの人々は生きていた。製鉄なども行う人々がいて、彼らが鉄製農具を与えるなどして支配下においていったのかな。彼らは鉄の材料や水銀などの鉱脈を探し求めた。そして見つけると、またそこに神を祀って神域とし、他の者が侵入できないようにして鉱脈を守った。

それがそもそもの神社だった。神武天皇の東征もしかり。だから鉱物の産地にばかり長居し、やっと入った大和でも、当時珍重されていた水銀の一大産地、宇陀を一番に狙っている(そしてここでエウカシ、オトウカシと戦った)。

熊野神も元はそんな人々が祀る神だった、とかいう説。


山道には青いビニールがぐるぐる巻かれた木がけっこうあった。この陶器山でも、前年、ナラ枯れという病気でコナラがいっぱい枯れたそうだ。ナラ枯れは、虫が運ぶ「ナラ菌」という菌でおこるコナラの病気らしかった。

コナラは大きな木になると、切り倒すのに1本10万円くらいかかるんだって。だからって放っておくと、虫が運ぶナラ菌でコナラが次々やられてしまう。だからビニールで幹をぐるぐるに巻いて、虫を蒸し殺そうとしているんだって。「陶器山の自然を守る会」の人たちが行っているらしかった。

どんどん歩いていったところで、この日もビニール巻きを行っている団体さんに出会った。こうやって守られているんだなあ。


見はらし台で、遠くの「金剛山地」を見た。わたしにもやっと、ちょっとだけ分かるようになっていた。

寝転んだゴリラの、唇みたいなのが二上山。なが~くてでこぼこした胴体の、お腹のでっぱりが葛城山。短い足を立ててるのが、金剛山。

なが~い胴体のでこぼこ1つ1つも、そのうち覚えられるかな・・・。

陶器山トンネルのところで、下っていく道に「あまの道」と書かれた矢印があって、ここでちょっと迷った。でもそれは無視して、山道を進んでいくのが正解。

陶器山トンネルの休憩所の下は、大きな道が走っているらしかった。西の泉北ニュータウンと東の狭山ニュータウンが、陶器山トンネル開通でつながったのだって。

休憩所にはベンチとトイレがあったけれど、この日、ベンチは会話で盛り上がるおじさんに占領され、1つだけのトイレも長トイレのおじさんに占領されていて、スルー。


このあたりには新しい家々ばかりが間近に建っていた(西山台だって)。

もう少し行くと左手に大きな墓地(西山霊園かな)が見えて、西側の展望がひらけてきた(その代わり、日差しが暑い)。

墓地近くにも休憩場所があった。ベンチもいくつかあった。けれど草ボウボウで荒れていた。

ニュータウンの物件を売る時、または霊園の墓を売る時なんかには、近くにこんな素敵な散策道もあるよってことをアピールするためというのもあって、きれいに整備されていたんじゃないかと思う。でもその後は、このあたりまで整備する人もいなくて荒れていったのかな。

そしてそこを過ぎると、人の姿も、一切の標識もなくなった。ただの山道だった。

なだらかな尾根を歩いてきたけれど、下り坂が始まり、その一瞬だけ、前方も展望がひらけた。

山がいきなりかなり近くて、圧巻だった。岩湧山らしい。左には「横たわったゴリラさん」が見えていた。もちろんPLの塔も。

下っていくと、ちょっとだけ工場などがあって、車道と交差した。

ここで山道が終わり、そのまま進むとすぐに左手に2つの池が現れ、そこは小さな集落だった。ウシガエルが鳴いていた。

右手も展望が開け、素敵だった。山、山、山だ。


地名は堺側は「はた」だった。畑があるから「畑」かな、そんなふうにはもうだまされない(?)のだ。漢字は「畑」だけど、読みは「ハタ」。元々は「秦」で、秦氏に関わる一帯だったのじゃああるまいか、と思った。

秦廃寺があったっていうのは和泉国麻生郷半田村。今の貝塚市で、かつては秦村だったこともあるらしい。金剛にも半田があった。狭山神社のあるあたり。

半田という各地にある地名については、詳細は不明なんだって。ちなみに「はんだ(半田)つけ」の「はんだ」も。

「半田」も「畑」も秦からきているってことはないのかな? 太秦の他に和泉国津田川流域にも基盤をもっていたという秦氏がここにもいたのじゃないかなあとか思った。相当に古く日本に渡来してきたと思われる、高度な技術で日本に多大な影響を与えたとされる、「謎の渡来人」とか言われる秦氏。行基のいろんな公共事業も秦氏の協力で行ったとされている。

記紀などによると、応神天皇のときに百済からやって来た、秦の始皇帝を祖にもつ人、および一緒にやって来た人々の子孫らが秦氏になったとされている。

しばらくだ~れもいない道を進むと、三叉路だった。穴地蔵がいて、地名は大野西。

穴地蔵は、あらゆる穴にご利益があるんだって。子どもを授かるってことにも通じるらしく、「おかげさまで元気な赤ちゃんを」とか手書きされたよだれかけがけっこう奉納されていた。


ここは堺市、大阪狭山市、河内長野市の境らしい。ここまでずっと堺市と大阪狭山市の境界線を歩いてきて、ここからは河内長野市と、引き続き堺市になるみたい。

古い道標には、今来た道が堺、左に行くと「よつくのき道」(滝谷方向。「四鈎楠の道」)、右に行くと「あまの道」とあった。

右手の、そのまま南下し続ける道へ。上り坂をしばらく行くと、また山道になっていた。

右手でゴルフの玉を打つ音や、おじさん、おばさんの声が聞こえてきて、堺カントリークラブがあるらしかった。でもまるでなにも見えない。

木々の間の一本道で、さっきお地蔵さんのよだれかけにほっこりしたばかりというのに、ここには粗大ゴミが大量に捨てられていて、興ざめだった。

しかし、どれだけ田舎なんだか。

道標も一切ない道が続いた。畑と、遠くに家並みと山々が見えた。万が一、道を間違っていたりしたら、気が遠くなるなあと思った。

途中で古い道標があって、「右あまの 左かうや」とあった。左に行くと、寺ヶ池公園あたりを通って、河内長野駅近くで高野街道と合流するみたい。

ここで左に行って、河内長野駅から帰るというのもありだったけれど、こんな遠いところにわざわざ来ることももうないかもしれないから、終点の天野山金剛寺まで歩くことにした。


梅の木に梅の実がなっていた。タケノコがいっぱい頭を出しているところもあった。ヘビイチゴもなっていた。

無人の野菜販売所がところどころにあって、新玉ねぎやいちご(売り切れてた)、えんどう豆などが売られていた。代金は置いてある缶かんに入れるシステム。おかあさんはソラマメを買った。山盛りで100円也。

金剛寺まで4キロ(1里ね)の案内があり、「ここにトイレはありません。金剛寺のトイレを使ってください」と書かれていた。しまった、陶器山トンネルのトイレに行くべきだったとおかあさん。でも、金剛寺までの間に、下里運動公園と、青賀原神社にトイレがあった。

てくてく単調に歩き続けると車道に出て、下里運動公園が現れた。人は全くいないのに異様に広くて、きれいな公園だった。最近作られたのだろう。坂を下っていく間、公園は続き、最後に運動場が現れた。ここは古くて、元々は運動場だけあったのじゃないかと思われた。

運動場の向かい側が、青賀原神社だった。このあたりでは天野街道のもう少し東が河内長野と堺の境界線になっていて、公園も神社も河内長野市だった。


青賀原神社は坂道を上っていったところにあって、境内は公園になっていた。

本殿がなかったから、裏の山(堺市)が御神体なのだろうかな。丹生大明神、高野大明神(丹生大明神の子?)を祀っているらしい。丹生大明神はアマテラスの弟、ツクヨミと同一神とされているらしかった。

和歌山のかつらぎ町「天野の里」から延暦3年(784年)に勧請したんだって。かつらぎ町には丹生都比売神社があるから、そこからということだろう。

丹生都比売神社は高野山の入口にあるなど、高野山との関わりが深く(空海は丹生都比売神社の神領を与えられて高野山としたとも言われているみたい)、高野山に寄進された荘園では、この神社の神様(丹生明神・高野明神)が勧請されることが多々あったらしい。

けれど784年(桓武天皇の頃)は、まだ高野山も開かれていない頃だ。空海とは関係なく、ここは紀伊かつらぎ町「天野の里」と関係の深いところだったのかな。

丹生都比売にうつひめ神社というだけあって祀られているのは女性で、丹生都比売大神はアマテラスの妹ということになっているらしい。

ヒメヒコが対になっているのがあるあるだから、元は丹生都姫と丹生大明神(丹生都彦かな)が一対の神様だったのかな?

「丹」って、水銀の材料だそうだ。「朱」ともいい、赤い色をしていて、神社の鳥居、橋などの色がこれ。防腐効果が高かったから、船などにも塗られたらしい。

古代、中国では長老不死の秘薬とされて、いっぱい呑みすぎて中毒死した貴族も多かった、というもの。中国から遠い国まで探し求めることもあったそうだ。

日本での一大産地は伊勢や宇陀。他にも朱の採れる地は「丹生」と呼ばれ、丹生神社が置かれたそうだ。その総本山が丹生都比売神社。丹生氏が朱を扱っていたそうだ。

丹生氏は「朱」を山から採取していたものの、それを精製して水銀にする技術はもたなかったのだって。水銀は、渡来人秦氏によって朱が精製され、作られたんだとか。

ははあ、なるほど、それで近くにはたか、と思った。


青賀原神社に書かれていた説明によると、空海が槙尾寺に向かい下里谷このあたりねを歩いていると、黒雲がわき、雷雨が鳴り、沢から9つの頭を持つ大蛇が現れたんだって。

危うし、空海。空海は念仏を唱え始めた。すると黒雲から白と黒、2匹の犬を連れた狩人が現れ、大蛇を退治した。狩人は「一宇金輪の化身、丹生大明神」だと名乗った。月読が丹生大明神に化身して、その丹生大明神が狩人の姿で現れたのだそうだ。

大蛇は葬られ、そこは九頭神くずしん山と呼ばれるようになった。

また別の話では、丹生明神の子の高野明神が、白と黒、2匹の犬を連れた狩人の姿で現れて、空海を高野に導いたとされているみたい。

空海は僧だったけれど、出自が鉱脈探しの家系だったとかで、旅をしながら鉱脈を探していたのでは?なんてことも言われているそうだ。それで鉱脈のある四国、高野山を巡ったのだと。秦氏とも関係が深かったらしくて、水銀を精製する人々ともつながっていたのかも。

「2匹の犬を連れた狩人」は、実のところは丹生氏だったとされているみたい。当時(平安時代初期)は、金メッキするのに大量の水銀が使われていたそうで、水銀の需要は高かった。

桓武天皇の頃、丹生氏がここに鉱脈を見つけ、神社を祀り、後には空海を高野山に導いたのかもしれないんだな。


青賀原神社の東側の鳥居の方向に進むと、天野街道の続きだった。

久しぶりの集落の中の道だった。集落は下里町で、雁多尾畑のミニ版みたいな高低差のあるところ。ずっと南下していくと天野町に入り、金剛寺の駐車場にたどり着いた。

総門が見えて行ってみると、その向こうは上りの車道だった。「下乗」の文字。門を入ったところに車道があるなんて変な感じだなあと思いながら坂を登っていくと、右手に階段が現れた。

「長野公園」の文字が見えて、坂の上からだと寺も探しやすいんじゃないかとも思って、階段を登って行ってみた。階段が終わっても登りの道が続いた。木々で眺望もなく、まるで山中。おかしいなあと思いながらもっと進むと、イノシシ防止用のフェンス扉。通った後は錠をしておいてくださいというやつだ。

おかしいなあと思いながら錠を外して中に入った。

すぐに左手に展望台が現れた。2階建ての、ぼろくなった展望台に登ってみたけれど、木々と山以外、なにも見えなかった。そしていつの間にやら天野キャンプの森に入っていたらしい。そのまま進んでも、山以外何もなさそうだった。

さすがに引き返して総門まで戻ってみた。そしてはたと気がついた。「下乗」があるからには、こっちが外なのだ。寺社って高いところにあるってなんとなく思っていて、高い方を目指しちゃったけれど、ここは長野公園の方から下ってきて、「下乗」があって、総門をくぐって、低地の金剛寺に参る、それが正解。

駐車場に戻り、駐車場の中を奥まで進むと、そこが金剛寺だった。思いのほか目立たなくて、気がつかなかったんだな・・・。どうやら東にある天野山に登っていたみたい。天野山の山裾にはキャンプ場もあるようだった。

長野公園は、河内長野市の5ヶ所に点在している公園で、その1つがここ、天野山地区(天野キャンプの森)。公園というより山だった。他に長野地区(さくら公園)、河合寺地区(あじさい公園)、観心寺・丸山地区(楠公の里)、延命寺地区(もみじ公園)があるんだって。


わたしは全然知らなかったけれど、河内長野市で有名なお寺と言ったら金剛寺と観心寺らしい。

金剛寺は行基がひらき、空海もここで修行していたと伝えられ、その後、荒れていたのを、大鳥郡の阿観なる人(高野山の僧)が平安時代末に再興。女性が住職になるなどし、女性の参拝も拒まなかったので、いくつかある「女人高野」の1つとなったそうだ。

源氏のだれそれが田畑山林を寄進し、南北朝時代には南朝方の拠点となって、住吉大社あたりと同じく後村上天皇の行宮であったこともあったらしい。北朝の上皇たちをここに幽閉したりもしていたんだって。

その後も広い寺領をもち、寺領の産物、特に天野酒で大儲け。各地の寺社を改修して巨万の財を費やしてしまった豊臣秀頼だけれど、金剛寺もまた改修しているみたい。

今では寺領12355坪だって。山の合間にあって、今でも十分に広い。

本堂あたりは拝観有料だった。大規模工事中のようで、工事車両や働く人たちがいっぱい出入りしていた。

境内の端を小川が流れていた。これは天野川。狭山池は元は天野山から流れる天野川の流れをせき止めてつくられた、という、その天野川。このあたりは上流だからか、ほんの小さな川だった。

橋がいくつかかかり、それぞれの橋が小さなお堂とつながっていた。大きな寺社って、こんなふうにひとつの世界をつくりあげていたんだなあ、と感じさせられるところだった。

総門の位置から言っても、今はその「ひとつの世界」の、ほんの一部だけが残されているのだろうな。

境内を見てまわると、金剛寺って重要文化財もいっぱいあるところらしかった。八十八ヶ所参りできる場所(天野山八十八ヶ所)もあるようだった。

こんなに由緒ある大きなお寺にしては人はおらず、けれどこんな辺鄙なところに位置しているにしてはちらほらと参拝客がいた。車でやって来られるほか、バス停もあるのだ。時間もおしていたし、バスの時間を調べてみた。バスターミナル的なところはなくて、バス停は散在し、把握できたところでは光明池駅行き(これは多分、かなり遠回りする。1時間に1本)、河内長野駅行き(1時間に1本)、サイクルセンター行き(一日に少しの便しかないし、方向が違う)。

河内長野駅行きは30分後の発車だった。河内長野駅行きのバス停のすぐ向かいの山には階段があり、どうやら丹生・高野明神社があるらしく、行ってみることにした。

その前に水分補給。持ってきていた500ml(おかあさんと合わせて)のお水は底をついて、自販機の水を買い足した。冷たい水! おいしくて、のどをごくごく、鼻をふんふん言わせながら飲んだ。散歩の後でもらうミルクが一番美味しいと思っていたけれど、このときの水はそれとも比べものにならないくらいにおいしかった!


金剛寺と国道170号線で向かい合っている山の階段を上っていった。古くは山の下に鳥居があったようなのだけれど、今はない。

すぐに小さな祠が現れた。でも、壊れかけていて、もう中には何も宿っていない感があった。それから拝殿と鐘楼が現れた。でも古い割に重厚感がない。

もう少し登っていくと、小さな2つの社の背中が現れた。前に回ると、高野明神・丹生明神と水分明神。

高野明神・丹生明神は、金剛寺を再興した阿観が高野山から勧請したものらしかった。でもこういったらなんだけど、偽物感が漂っているような・・・。社の前に説明板があるのだけれど、その上手ではない手書き文字のせいかもしれない。

水分神社は土地の神様を一緒に祀ったものだそうだ。一般的には水分神社は水の神様だけれど、元々は朱の産地に祀られた水銀の神様だという説もあるみたい。


バス停に戻って、しばらく待つとバスが来た。

バスは国道170号線を走った。帰りはこの道を歩く予定だったんだけれど、バスにして良かった、と思った。歩くと約1時間の河内長野駅までの道のりは暑そうで、狭かった。歩道もなくて、バスが幅いっぱいに通るの。

快適なバスで緑の多い中を走り、河内長野駅にたどり着いた。河内長野駅は初めてではなかった。金剛山に冬に登りに行った時、ここから出る登山口行きのバスに乗った。周囲に山が近すぎて、どこが何山かももう分からなかった。

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