下高野街道をおわり坂まで
そして暑くなってきたある日、新金岡駅に降り立った。下高野街道の続きを歩くべく。
桜はもうすっかり葉桜になり、花の小さな軸がいっぱい落ちて、かわりにツツジがきれいに咲いていた。背の高い庭木の白やピンクの花も目立っていた。多くのおうちで咲いていて、素敵なあの花は、たぶんハナミズキ。
こいのぼりもいくつか見た。帰りの電車では今年初めてクーラーがつけられていて、気持ちよかった。
もうそんな季節だな。こうなってくると、散歩もきつくて、あまり距離を歩かないほうがよくなってくる。
新金岡からは東の大泉緑地に向かった。
クリームシフォンのお店、リサリサは閉まっていて、気になっていたパン屋さんもこの日は定休日。おやつにと思っていたのに出だしでがっかり。
大泉緑地では、大きな鳥が頭上で羽ばたいていて、ぱたぱた音がした。鷹狩りのときって、こんな感じだったのかな、と思った。散歩途中に遭遇することのある鷹狩りについて想像するとき、そこに音声はついていなかったんだけれど、これからはこの音を効果音に入れよう。
何度目かの大泉緑地を横断して、広い大泉緑地の地図がちょっと分かってきた。
「どろんこサイクリング」のあたりから、前回歩いた北八下小学校前の道に出た。
前回はカラスシティーのようだった一帯を抜け、工場地帯を抜けた。前回も新金岡駅から帰るためにこの道を通ったのだけれど、その時はすごく殺風景なところのように感じた。大泉緑地から歩くと、普通の住宅街に思えるから不思議だった。北のほうでカラスの鳴き声はしていたけれど。前回は夕方に近くて、今回は朝だからかな。
大泉という名前から言っても、水の豊かな素敵なところだったのかもしれない、と思えた。大泉緑地は園内にある大泉池が名前の由来なのだって。
つきあたりまで東に進むと、前回の下高野街道歩きのゴール地点で、ここから南下。
ここはやっぱり工場地帯で、うるさいし、空気は悪いし、土埃はひどい。たんぼがいっぱいで、レンゲ畑さえあるようなところなのに、下高野街道(府道26号大阪狭山線)沿いは工場ばかりだ。
しばらく進むと、だんだん古い感じになってきた。
左手の野遠キリスト教会の建物(普通の古い和のおうちだけれど、大きな赤い十字架がある)を過ぎて、左折。
左手に八坂神社が現れた。前に竹内街道を歩いた時、迷いながら寄ってみたところだった。藤棚の藤がきれいに咲いていて、大きなミツバチが飛んでいた。
ここもスサノオを祀っているらしい。八坂神社と名のつくところはどこもそうみたい。
渡来人、意利佐なる人(別の書には高麗の伊利之とあって、同一人物だと考えられているらしい)が京都の八坂の地を給わり、その地に祀ったのが始まりらしい。
スサノオはアマテラスの弟だけれど、新羅の牛頭山にも一時いたことがあるのだって。そんなこんなでスサノオは新羅からの渡来人の神さまになり、牛頭天王とも同一視されているのかな。どちらも「牛頭」がつくし。
オリサだかイリシだかの子孫が八坂造。造は、臣、連より少し下の位らしくて、他に近辺では日置造などがいたのだって。
西教寺を過ぎた。このあたりは道も古道の感じで、町も古かった。織田姓が多い気がした。
寺を過ぎて最初の四つ辻を右折。中環を過ぎて、地名は八下町に。このあたりもかなり古かった。
家々と池とたんぼと山と工場。散歩していてなじみになった「水利組合」の文字。
左手にお墓がいっぱい現れた。そして神社。ここでは向かわずに、次の四つ辻を左折。
古い道標や「菅原神社鳥居跡」の新しい碑などが現れて、その奥(北)に菅原神社があった。「大池を売却し、云々」と説明にあった。元々は大きな池があったのを埋め立てて、神社は規模を小さく、移動させられたのかな。
大池のある素敵なところだったのだろうな。地名は小寺で、元々は「古寺」と書き、古く大きなお寺があったところなのだって。
菅原神社の南の道を南下していった。
西方寺を通り過ぎた。その前に「大圓寺」があったようだった。一帯には「大圓寺」の貼り紙でいっぱいだったのに、その大圓寺には気づかず通り過ぎてしまった。
右手に、相当に古そうな建物が見えていた。照林寺かな? 庭木も屋根瓦も相当に年数がいっていそうで、素敵な存在感だった。
石原で道がつきあたって、左折し、すぐに右折。少しだけ東に寄って、また南下していった。この石原は、下高野街道沿いにはほぼ何もなくて、素通りしてしまった。後で知ったことには、いろんな歴史を持つところだったみたい
須恵器生産集団の遺跡も見つかっているのだって。須恵器生産集団(大規模に須恵器を作り、広く流通させていたらしい)のいた、「陶邑」と呼ばれていた泉北あたりが近いから、このあたりもそうだったんだろうな。窯跡などが見つかっているらしくて、小寺に菅原神社があるのもその関係なのかな?
そしてここは丹比道にも近く、行基が布施屋をつくったところのひとつらしい。
当時、平城京を作る使役に赴くためや、生産物の納税のために人々は上京する必要があったらしい。ATMで送金ともいかず、現物での納税だったので、代表者が歩いて運んだりしていたんだって。まだ貨幣も一般的じゃなくて、お金を払って寝食を得るって時代でもなく、ただでさえ生活は楽なものじゃないし、もてるだけの食料をもって旅に出ても、途中で行き倒れになることが決して珍しくはなかったそうだ。
そんな中、行基がただで食事をとり、宿泊することも出来る布施屋なる施設をつくったんだって。その1つが石原にあったとされている。前に歩いた長尾街道で通った方違神社あたりにもあったという話だった。
まだ公共事業がそんなに行われていなかった時代、お坊さんが大規模な公共事業を行っていたそうだ。
お坊さんはエリートで知識はあるし、行基の場合は百済からの渡来人の家系で、周りには進んだ土木技術などをもつ同胞が多かった。人望もあって、人も資金も集められる。
行基は狭山池も改修したし、東大寺の大仏を作るのにも力を貸したしで有名だけれど、他にもいろんなお坊さんが公共事業を行っていたそうだ。
お地蔵さんなんかがあり、左手に八坂神社が現れた。
なんの説明もなく、とってつけたような神社に感じた。けれど相当古くから石原の氏神として祀られていた神社らしい。神仏分離で中仙寺なるお寺(菅原神社から300mくらい西にある。融通念仏宗)のそばにあったのを移されたんだって。
祭神はまたもスサノオ。そしてクシナダヒメ。
スサノオは出雲で、毎年娘を化け物に食べられている夫婦に出会い、化け物を退治した。化け物の正体はヤマタノオロチ。化け物に食べられる寸前だったのを助けられた娘はスサノオと結婚。その娘がクシナダヒメ。
ヤマタノオロチの尾からは剣が出てきて、スサノオはその剣も得た。後に草薙の剣として三種の神器入りをすることになる剣だった。
地名は大饗になった。堺市美原区だって。旧道の感じがとてもする、古い一帯だった。
称徳天皇が紀伊(一度だけ和歌浦に行幸したことがあるらしい)や丹比行宮(天皇が宿泊する仮の宮殿)に向かう途中、丹比のこのあたりで「大饗」(饗宴)を行っていたのが地名の由来だと言われているらしい。
「大饗」と書いて「おおあえ」「みあえ」と読むのだって。それが変化したのか、地名は「おわい」。
ここで食事をしたというからには、天皇と強い結びつきのあるところだったのかな。
称徳天皇は48代天皇。46代孝謙天皇が再び天皇になって称徳天皇に。「道鏡を愛しすぎた」とか言われている女性天皇ね。在位764~770年。父は聖武天皇で、母は光明皇后。道鏡なるお坊さん(物部系)に入れあげて、次の天皇にしようとまでしていた人。
美原区は、前の散歩(中高野街道)で知ったところによると「河内鋳物師の発祥地」と言われ、平安時代後期頃から鋳物師の集中していた丹比の中でも早くから鍛冶、製鉄を行っていたところ。すごい数の鉄器などが副葬品として納められていたという5世紀の黒姫山古墳もある。
この地を拠点とする多治比氏には桓武天皇(737~806)の妻もいて、その人が産んだ子の子孫が桓武平氏になっているそうだ。称徳天皇の頃にもここには多治比氏がいて、多治比氏主催で宴が行われたとかかな??
大饗には、大饗城(城岸寺城)もあったらしい。
楠木正成の親戚、和田氏の居城だったと言われていて、南北朝の時には楠木方について戦ったのだって。
このあたりでも来迎寺の貼り紙を見た。中高野街道で通った融通念仏宗丹南本山の来迎寺ね。
かつてはあたり一帯が丹比で、平安時代に丹南と丹北に分かれたみたい。
高速の下にたどり着き、信号がないので、右手の北余部北交差点で信号を渡った。この高速(阪和自動車道)建設でも城跡が見つかったらしい。余部城と便宜上呼んでいるけれど、詳細は不明なのだって。
ここからは交差点から広い道を南下。近代化して、旧道も残っていないのかな。
萩原神社分祠、美原キリスト教会を通り過ぎ、北余部交差点で交差する道は富田林街道。東に行くと、中高野街道歩きで行った舟渡池公園あたり。
北余部交差点を過ぎると、すぐに右斜めに分岐する道へ。ここからはまた旧道のようで、古い感じだった。地名は美原町南余部。地蔵がところどころにいて、狭いいりくんだ路地道を自転車がゆっくり走っていった。
つきあたったら、右へ。またすぐつきあたって、左へ。また南下。
この「余部」という地名は各地にあって、条里制で土地を整理していった時、余った部分のことを言ったらしい。読み方はいろいろみたいだけれど、ここでは「あまべ」。
レンゲ畑が広がっていた。レンゲには虫がびっしり付いていて、ぎょっとした。上から見ると、とてもきれいなお花畑なんだけれど、下からよく見ると、黒い小さな虫たちが、花の一本一本についていた。
わざわざいい匂いでおびき寄せているんだもんな。虫が付いていて当たり前なのかもしれないけれど、その多さに気が遠くなるようだった。花も、虫もいっぱい生きているなあ。
左手に西除川の遊歩道が見えた。道なりに進んで北野田に。
元々の地名は「野田」らしく、西除川を「野田橋」で渡った。後に北野田と南野田に分かれたみたい。
このあたりは新しい感じだった。そして、このあたりからゆるい上り坂になっていった。
府道36号泉大津美原線にたどり着き、これは和泉街道。中高野街道歩きで行った菅生神社の南を通っていた道だった。菅生神社はこの東、東野交差点の向こう。野田の東で「東野」なのかな? 西には「西野」もあった。
どんどん南下していくと、左手に小さな牛頭神社と大悲寺が現れた。
牛頭神社は牛頭天王を祀った神社で、南野田の氏神であるらしい。元は野田城跡にあったそうだ。大悲寺も、かつて野田城内にお寺があり、そこの僧が野田城落城のあと、死んでいった者たちを弔うために建てた庵だったそう。
南北朝の戦いの頃のこと。
野田城は野田荘の地頭をしていた野田さんが築いた城で、楠木正成方の武将として戦っていたそうだ。最初は善戦していたけれど、落城。一緒に多くの村人たちが犠牲になったんだって。百姓が武器を取って兵士になっていたっていう時代だから、村人も共に戦って死んでいったのかな。
南北朝の戦いといっても、楠木正成や北畠顕家くらいしか知らなかった。けれど河内の多くの地頭たち、そして村人たちが共に戦ったんだな。
すぐに現れる公園の横をそのまま道なりに進み、すぐに左に斜めに入る道へ。桜が一本だけ立っているところ。
府道26号線を越え、つきあたりを右の道に。前方に「太満池」があり、その右側を歩いた。
坂を上ったところなので高台で、太満池を見下ろし、その向こうには山々が見えて・・・という景色のはずなのだけれど、池を隠すように建ち並んだ家々と塀で何も見えなかった。
このパターンは散歩していてあるあるだった。わざわざ視界を遮っているのには理由があって・・・小さな空き地があって、そこからだけ池を見おろせたのだけれど、やっぱり池の横はずらりと並ぶ墓だった。
すぐに南海高野線狭山駅にたどり着いた。
駅の向こう側に道が続くので、駅の階段を上って線路を越え、西側に階段を下りた。駅前には西に向かう道が一番大きく存在感を持っていて、その左側の、真南に向かう道に入っていく。
このあたりも古そうなところだった。
そしてちょっとガラが悪いのかな? 「みんな見てるで不審者を」とか「不法投棄禁止」とかの張り紙が目立っていた。高台の道で、元は田舎の一本道だったのだろうなあと思われた。地名は「池尻」だった。
ずっと南下すると、前方に鳥居が見えてきて、狭山池北交差点に到着。
このあたりで下高野街道は終わるみたいだ。この先、高野山を目指すなら、近くを通る中高野街道か西高野街道かで南下するみたい。西高野街道をとるなら、ここからおわり坂あたりまで南下するのだろうな。西高野街道はおわり坂あたりで「下高野街道と合流」するということだったから。
下高野街道が、狭山池あたりでとりあえず終わるのはどうしてなんだろう?
東大寺大仏殿を再建したことで有名らしい重源という平安時代末から鎌倉時代の僧がいて、狭山池の改修も行っているらしい(1202年)。狭山池からは当時の改修碑も見つかったらしく、碑には改修について詳しく書かれていたそうだ。
その一文に「道俗男女沙弥少児乞匈非人迄、自手引石築堤者也」とあるらしい。
「道俗男女沙弥少児乞匈非人まで、自らの手で石を運んで堤を築いた」。
「道(僧など)俗(それ以外の人)男女」、これは今の老若男女くらいのことかな。
「沙弥(僧の卵の少年)少児」は、子どもたちのことかな。
「乞匈(乞食。多くはらい病患者だったらしい。というか、らい病患者のこともカッタイと呼んだらしい)非人」は被差別の人々のことかな。
みんな一緒に重源さんと、池の改修のために堤を築く石を運んだのかな。仏さまとか阿弥陀さまとかを信じていた時代、善行を積む気持ちで石を積んだのかも。
狭山道とも呼ばれていた下高野街道は、その時代には狭山池改修のために北からやって来る人々の道だったのかもしれない。そしてそこを通る人々は、らい病患者も含む「下々の者」だったのかもしれない。
奈良時代には天皇も歩く道だったけれど、京都に遷都してからは貴人は東高野街道や中高野街道を使うようになって、下々の者は下高野街道を使っていたのかも。
らい病という病気は、世界では紀元前の頃からあっただろうとされ、日本でも「らい病」という名が使われるようになったのは鎌倉時代の頃だったけれど、それよりずっと前からあったと思われるそうだ。栄養状態が悪く、免疫力も弱い乳児期に菌をもらうことが多く、その後何年もして発症。熱に弱い菌なので、体温の低い顔や手足に住むことが多く、そうして顔や手足という目に見える場所に症状を出す。顔には赤い斑点ができ、麻痺も出て、口や手足は自由に動かせなくなったそうだ。
小栗街道などは、この病気の人たちが腕で体を引きずるように進んでいたという。
病そのもので亡くなることはなく、ただ、菌に侵されると神経がやられて感覚がなくなるので、手足に大きな傷やひどい火傷を負うことが多々あり、それが元で亡くなることが多かったのだって。
そして菌というものが分かっていなかった時代、らい病患者の出た家は「因果」とか、「業」とかって言葉で説明され、「そういう家系」だとみなされた。
だから多くの場合、家の中から「らい病」が出ると隠そうとしたそうだ。
外見で分かる病だったから、蔵などに閉じ込めたり、二度と帰ってくれるなと家から出したりすることもあったのかな。追い出された者たちは、名もなきらい病患者、カッタイとして、多くが放浪して生きたみたい。
四国とか、小栗街道とかでは、そんならい病患者も忌み嫌うのではなく、受け入れられていた。ここ下高野街道でもそうだったのかもしれない。
その後、菌による病と分かっても、人の意識はそんなに変わらなかったみたい。
患者が出た家は村八分にあい、結婚も破談になったんだって。結婚していても、返されたり、帰られたり。その家族の歩く道は通らず、川の近くだと、その家の下流では水は使わない。
人にたやすく伝染り、発症すると鼻の骨は溶け、顔や手足は腐っておちていき・・・云々と信じられていたそうだ。そしてまだ「因果」とか「業」とかでも語られた。
らい病という言い方は、そんなひどい差別があった頃の呼び方だったから、今はハンセン病と呼ぶそうだ。わたしにしたら「らい病」も「ハンセン病」も同じだけれど、差別されていた時代を知らないからかな。
「らい病」は、人にうつすし、親の因果が子に・・・的な怖いものだと信じられていた時代のもの。ハンセン病は、人には滅多にうつらないし、薬で治る、遺伝なんて全く関係ないと分かった時代のもの。
多くが家を離れ、放浪していたらい病患者だったけれど、1931年、らい病予防法ができ、すべての患者を強制的に終身的に隔離する対策が国によってとられることになったのだって。
その頃には治療薬もできて、隔離は国際的には行われなくなっていったそうだ。けれど日本では1996年にやっと廃止。・・・そう遠い過去の話じゃないんだな。
隔離病院には、幼い時、若い時からずっと収容されていた人々がいて、急に廃止されても行くところもなく、そのまま過ごしている人が多いらしい。かなり高齢化は進んでいるようだ。
そこではかつて結婚する場合でも、避妊手術することが条件だったんだって。・・・ひどい話だな。
ここからは西高野街道で続きを歩くことにした。
狭山池に南西から注ぐ三津屋川があって、その川のそばにおわり坂があった。おわり坂あたりで下高野街道と西高野街道が合流して、その先で中高野街道とも合流していく。
せっかくだから狭山池公園の中を歩いて南下。前に歩いた桜のシーズンほどの賑わいではなかったけれど、人々がのんびりと時を過ごしていた。
三津屋川遊歩道を南下して行くと西小学校があり、牛滝地蔵がいて、おわり坂交差点がある。ここからが西高野街道の続き。
おわり坂交差点近くで橋を渡って対岸へ。次の橋までの間に「三津屋川緑道」の立派な木の碑がたっていて、その左側の道で南下して行った。地名は大阪狭山市今熊。「今、熊野神社がある(でも三都神社と名前が変わった)」、今熊ね。右手は山で、左手は低地という、その間の田舎道を歩いていった。
右手の山は陶器山かな。一帯は、昔に須恵器を大量生産していたというところ。
田舎だけれど、最近、新しくおうちがいっぱい建ったようだった。今熊の南側が狭山ニュータウンで、今熊の西側が泉北ニュータウンであるらしかった。
それから地名が「茱萸木」になって、三津屋地蔵が現れた。茱萸木といったらあれだな。西高野街道には女人堂への十三里の間に一里ごとに里程石があるそうで、それを設置したのが茱萸木村の人たちだということだった。
突き当たりまで進んだら、左折。次の信号を右折。
「大正15年 弘法大師御堂」と書かれた小さな御堂があった。それにしては真新しかった。このあたりは最近まで田舎だったのが、区画整理などで新しくなっていっているところなのかもしれない。
次の信号の直前に、右手に古い石碑と常夜燈が現れ、入っていってみると、茱萸木公民館だった。そこに茱萸木八幡宮と子守地蔵があり、公民館の敷地内だというのに、無縁塔まであった。新しくなっていく過程で、こういうことになっちゃったのかな?
茱萸木公民館前交差点を過ぎ、更に南下。右手に公園が現れた。ここは元幼稚園と元小学校だったのじゃああるまいか。そこが廃園、廃校になったか、かわいい施設をおじいさんたちが利用していた。公民館にしても、公園にしても、なんだかシュールだった。
近くに「玄昌法師地蔵」というのもあったけれど、詳細は不明。
今熊も茱萸木も、古かったのが変わっていこうとしているところのようだった。
高台らしくて、山が近くに見えていた。そして下り始める頃、左側に「あと十里」を示す里程石。目立たないのに気がついたことが、嬉しかった。久しぶりに見る気がした。「十一」を見たのは岩室でだった。
信号に出て、ここを右折。そのまま西除川をあまの橋で渡って、ここから河内長野市。
そのまま道なりに進み、途中、右側の上り坂に進んでいった。
左手に立派な松林寺が現れた。前に中高野街道でも寄ったところで、近くには春日神社もあった。そこから下って行き、振り返ると、見覚えのある中高野街道と西高野街道の合流地点だった。立派な地蔵堂などがある。
この先、千代田まで中高野街道歩きで歩いていた。今回は更に足を延ばして河内長野市駅まで歩こうと思っていた。けれど暑さもあって疲れていて、千代田駅から帰ることにした。実は狭山池から三津屋川遊歩道に出るまでに迷って、けっこう歩き回ったのだ・・・。
また今度、千代田駅スタートで河内長野を目指そうと思う。しかし散歩しに千代田まで来るって・・・遠いな・・・。




