水間街道で水間観音へ
それからまた別の街道を歩きに行った。
次に行ったのは水間街道。貝塚から南の水間観音に向かう道で、そばを水間鉄道も通っているみたい。
水間観音とか水間鉄道とか、とっても長閑な田舎の道を行く感じじゃないの?と勝手に想像して、歩きたくなった。
結果、まあ、わたしは現実を分かっていなかった。大阪は住宅密集地で、電車が通っていればたいていのところは住宅地として開発されている。ましてや貝塚なんて住みやすいところ。
水間観音だけは古いままだったけれど、わざわざ街道を歩かなくても、すぐ隣を走る広い府道40号(岸和田牛滝山貝塚線)で、車でしゃしゃ~っと行ってしまいたい感じだった。
貝塚駅(南海本線)は東口から降りると、昭和な感じの水間鉄道の貝塚駅が隣接していた。レトロで可愛い。
水間観音への参詣鉄道として大正14年開業。バブルの時に、沿線の土地開発に手を出して、バブルがはじけてたちゆかなくなり、民事再生法適用。今はグルメ杵屋の子会社なんだって。
わたしたちは徒歩なので駅はスルーして、東口から見えている感田神社方面(東)に歩いていった。途中、明らかにおかしい道が一本、南に向かっていた。旧街道っぽくカーブしているし、古い家が多いし、緑も妙に多い。そこがやっぱり水間街道だった。東口から難波方面に少しだけ歩いたところにあるローソンの向かい側から始まる南への道。
この道をずっと南下していった。
地名は海塚だった。元々は「貝塚」ではなく、「海塚」と書いていたんだって。
道沿いには古すぎる家がいっぱいだった。いつの時代からあるんだろう??というような旧家だ。
壊れかけて、蔦が絡まっているおうちとかも多かった。「立入禁止」の黄色いテープがはられたところも多かった。緑が多いいなあと思ったのも、蔦の絡まった廃屋が多いからのようだった。
駅近なのに・・・というのが驚きだった。すぐそばには広い車道も通っている。
「たこぼうずもなか」の味のある老舗っぽい看板が現れて、気になった。帰りに寄ろうかな、とお母さん。
広い車道も通り過ぎてすぐ、壊れかけの石垣につきあたり(この向こうは池)、右折。結局は広い車道の鳥羽西交差点に出て、少しの間だけこの道を南下。広い鳥羽交差点でこの道を離れ、一本左手の道に入っていく。この道を、またずっと道なりに南下していく。
鳥羽というのは、行基がこの地を歩いた時に、鳥が案内するように羽を落としたことに由来するんだとか。けれどおとぎ話かな。各地に鳥羽という地名があって、波止場とかトバ(台地の入り口)とかからきていると言われているみたいだから、ここもそうだったのかも。
すぐ池にたどり着いて、ここを左に行くと、小さな「福田公園」。反対の右に進む。池では「カワチブナ」を養殖しているらしかった。ブラックバスなどを放流しないでくださいと書かれてあった。
池の周りを歩いて、そのまま消防署の前の道へ。
JR(阪和線)を越え、松源なる大きなスーパーマーケットを過ぎたら、左に入る道へ。
また現れる池では左折して、キリン堂の手前を右折。目の前に自動車教習所が現れて、教習所の東側の道を南下していく。
このあたりは熊野街道(小栗街道)歩きで通ったところだった。東からやって来て、この教習所につきあたり、北上していった。石才駅近くで水間鉄道の踏切を渡り、そのとき初めて水間鉄道を知ったのだった。
だんだん古い感じになってきて、地名は麻生だった。ただ最初の海塚あたりの古さのインパクトが大きすぎたから、古さも驚くほどではなかった。熊野街道の麻生川王子があったあたりね。
貝塚(海塚)は元は環濠に囲まれた寺内町として発展したらしく、そこに周辺の村が合併されて貝塚市になっていったみたい。ここも合併されたところで、元は麻生村だったところ。もっと前には「麻生荘」という荘園だったのだって。
戦争で亡くなった人の大きな碑があった。道々、「遺族の家」という小さなプレートの貼られた家もあった。戦死した人のいるおうちの玄関にはかつてこのプレートが貼られていたみたい。
このあと、水間街道の道中、「従軍記念碑」や「出生軍人記念碑」などが、村ごとくらいにかな、たてられていて、村から出征したのだろう人たちの名前が並んで刻まれていた。神社みたいに鳥居のある碑もあった。
水間街道で一番印象的だったのは、そういう軍人さん関係の碑だったかもしれない。あとは、ところどころで現れるお地蔵さん。どれも子どもの目の高さで、かがんで手を合わせる感じ。小栗街道のお地蔵さんもそうだった。
閉まったお店も多かった。商店だったのだろうところに、今は自動販売機だけおかれているのがパターンだった。お店が少し固まってたっているところもほとんどが閉まっていて、細々と続けている美容院とかだけが残っていた。
お店の数の割に多いなと感じたのが、自転車屋とバイク屋だった。
時々、すごく古い家があった。ちょっとした坂道にそういう家が建ち並んで、「甍の海」になっているところもあった。表札の名前は、見慣れないものが多かった。
道幅は狭いけれど、車はほとんど通らないし、通っても静かにゆっくりと行ってくれる。自転車も人もあまり通っていなくて、遠くで井戸端会議するおばあさんたちの声が聞こえるくらいだった。
ひなびた感じの街道だった。ほんのちょっとした異国みたい。
途中で、突然、大きな道路に出た。清児西交差点で、交差するのは府道40号線。
ここまでな~にも無いところだったけれど、府道沿いには銭湯、パチンコ屋、多種多様な飲食店、規模も大きくいろいろとり揃っていて、このあたりの人たちはここで遊ぶのかな、と思った。
40号線は水間街道とほぼ平行に走っているみたい。でもこの時はまだ知らずに歩いていた。
広い車道で左手を見ると、山々が近くに見えていた。
清児もまた行基にまつわる地名だそうだ。行基がこのあたりで道に迷ったとき、子どもたちに道案内されて、「なんと清らかな児たちよ」というわけで「清児」って・・・本当かな?
かつて水間鉄道が、清児からの支線を計画していたらしい。計画では清児~熊取~犬鳴山~粉河。犬鳴山にも電車で行けていたかもしれないなんて最高だな。
紀泉鉄道という株式会社を立ち上げ、お金も集め、用地買収も進め、工事にも着手していたそうだ。けれど予定よりも莫大なお金がかかることになり、みんなのテンションも続かず、工事は途中で終わってしまった。買収した用地には、今は住宅が建っているんだって。
このあたりに、「地車新調」のポスターが「入魂」と書かれて貼られていたりした。「消防団」の文字もなんだか気合が入っているように感じられて、気合の入った町なのかな。
線路を越えて、ここからは線路の西側を歩いた。左手に新しい家々や40号線が見えた。
道沿いには森稲荷神社。ここの神社にも、忠魂碑や記念碑が建てられていた。
神社の説明によると、このあたりは「高野山や根来寺の影響で、真言密教が盛んだった」そうだ。根来寺のことは、熊野街道を歩いていた時、貝塚市立中央病院近くの積善寺城跡で初めて知った。
そのときはほとんど意味が分からなかったんだけれど、戦国時代のことをちょっとかじったので、今は少しだけ分かる。
織田信長が本願寺と戦った時代、本願寺とか、高野山とか、根来寺とか、大きな寺は宗教施設というより、ひとつの一大勢力だったそうだ。戦国時代の1つの国みたいなもの。寺が抱える膨大な数のお坊さんたちは、僧という名の、ほとんど兵士だったみたい。僧兵ね。
根来寺もたいへんな勢力をもち、多くの兵力をもっていたそうだ。ほかの戦国大名たちと同じように陣地を拡げていき、全国支配を目論む勢力と戦った。織田信長や豊臣秀吉とも。
その時に砦とした有名な城が積善寺城。他にも多くの城(砦)をもち、豊臣方の岸和田城とは、近木川に並んだ城で対峙していたんだって。
このあたり(名越)にも「千石堀城」があったらしい。住人たちも根来の僧と城にたてこもって、豊臣秀吉と戦ったんだそうだ。総勢千数百名だって。
けれど敗北。筒井順慶の放った火矢が城内の火薬庫に引火し、大爆発を引き起こしたんだそうだ。
森駅が見えてきた。大きな駅で、ベンチがいっぱい並んでいるのが見えたけれど、そんなに利用者がいるのかな?と不思議だった。
いつの間にか高台にいて、さらに緩い登りが続く。地名は「三ツ松」。このあたりから古い農家風のおうちが目立った。
「八丁」という丁字石があった。どこへ8丁?と思ったら、水間観音だった。そういえば水間観音を目指しているんだったっけ。
8丁は1km弱。36丁で1里(約4km)なんだって。
ノコギリ屋根の存在感のある建物もきれいに現存していた。明治時代とかの紡績工場の建物ね。
水間鉄道の全盛期の頃は河内木綿の全盛期の頃でもあったみたい。
外環と交差した。右手の青い大きな建造物(橋かな?)が異彩を放っていた。三ツ松辻堂地蔵尊が現れて、ネギ畑の多い田舎道になった。
このあたりから新しい水間寺への道標もあった。水間観音だろうお寺と三重塔が見えてきて、下の方には川が流れていた。
川には大きな石がワイルドに横たわっていて(それぞれに名前もあるみたい)、結界みたいだった。そこから厄除橋を渡ると、水間観音こと水間寺だった。
水間寺は飛鳥時代末、または奈良時代はじめの創建で、貝塚市の現存するお寺の中で最も古いそうだ。それ以前にあったお寺としては半田の秦廃寺があったそうだけれど。
貝塚寺内町ができるよりも、根来寺ができるよりも、ずっと前に水間寺は建てられたのだって。一説によると、行基の創建だっていう。
お寺には川にかかった厄除橋を渡って行ったけれど、裏手にも川が流れていた。
蕎原川と秬谷川で、2つの川の間にあるので水間寺というんだって。蕎原川と秬谷川が水間寺を過ぎてから合流して、近木川になるみたい。
表に流れているのが蕎原川で、蕎原、木積、奥水間、葛城山の方から流れてくる。裏手が秬谷川で、秬谷の方から流れてくる。
裏に回ると、秬谷川に「聖観世音出現の滝」なるところがあった。水間寺の本尊は聖観世音菩薩なのだけれど、その仏像が出現したと言われる場所らしい。
病気にかかった聖武天皇が、西南の方向(平城京から)に観世音菩薩が出現するからそれを探せと夢でお告げを受けたらしい。行基に依頼が来て、行基は山水画の世界のようだったらしきこの地にやって来た。するとここに白髪の老人が現れて、行基に小さな仏像を手渡し、龍となって去っていったのだって。
その地にその仏像を祀ったのが水間寺、というお話になっているそうだ。
それでここに来るまでの間の「鳥羽」や「清児」にも行基のお話があったんだな。行基は平城京から西南に観音を求めてやって来たんだな。
出現の滝の向こうは車道(国道170号線)で、金網もはられていたりもするけれど、それを無視して古き昔を想像したら、なかなかの景勝地だったろうな、と思われた。
蕎原とか秬谷も素敵なところなのだろうな。蕎原には平安時代に釈迦堂が建てられ、秬谷には室町時代に松浦氏の野田山城が建てられたのだって(後に根来寺が奪って、根福寺となった)。
木積には奈良時代に観音寺が建てられ、その「釘無堂」は今も残るそうだ。
境内には愛染堂もあった。「恋人の聖地 桂由美」というオブジェかなにかがあって、ちょっとやりすぎていた。
「お夏清十郎の墓」という文字も目立っていた。
お夏と清十郎は水間の美男美女で、南北朝時代に生きていた、身分違いの恋人同士なんだって。離ればなれになった後、お夏はここに毎日お参りに来て、後に再会し、幸せに暮らした・・・と説明されていた。もっと古い別の説明には、住吉渡辺橋の戦い(北畠顕家の阿倍野の戦いあたりかな)の後、戦いに出ていた清十郎と、探しに来たお夏が住吉の松原で再会。二人で水間で睦まじく暮らすも追っ手が迫り、部下を身代わりにしたってことだった。
勝手に姿を隠し、身分の違う娘との愛に生きてはいけない時代だったんだな。
秬谷川沿いの国道の向こうは山で、一部が「水間公園」になっていた。
そしてそこに水間寺の薬師堂、行基堂などがあった。節分の日などに餅投げをする台もあった。
南之院を探して、水間公園をけっこううろうろと歩き回った。広くて、近くだったら折に触れ遊びに来たい、自然の中にある感じの静かな公園だった。
南之院は秬谷川沿いの道を南下していった途中、右折した向こうに見えている小さなお堂だった。右折せずにそのまま進むと、右手に遍照寺。ここは元は空海によって開かれたと伝わるそうだ。
遍照寺には、遍照寺橋のところから行けたみたい。けれどまた歩いて帰る予定だったので、復路に向かうことにした。
遍照寺橋の1つ手前の橋を渡って西へ。ウォーキングマップで見たルートで貝塚まで戻る予定。




