長尾街道を穴虫へ
やっと長尾街道歩きをスタートさせて南下して行くと、そのうち左手に春日神社が現れた。柏原の石神社あたりを歩いてきた目にはこのあたりはただの住宅街に思えたけれど、ここにもまた古代寺院があったらしい。田辺廃寺跡らしかった。
このあたりに住んでいた田辺史なる氏族の氏寺で、田辺史は中臣鎌足の息子、藤原不比等を養育した氏族と言われているそうだ。百済系渡来人で、漢字ができるし、文書編纂などの職務にあたった。
ここの地名が田辺。後に京都の方に移ってそこで藤原不比等を養育し、そこが今の京田辺らしい。難波大道あたりを歩いていると、東住吉区に田辺があったけれど、そこもまたこの田辺氏に関わりがあるのではないかと思われるそうだ。
春日神社は藤原氏の氏神で、田辺廃寺跡に春日神社があるのも藤原氏との関係を示しているのかもしれないそうだ。
道の続きを行き、分岐で右に、次は左に。
舗装されていない土の道になり、左手にカーブしていった。今から人の住まいを離れていくぞ、そんな気配をすごく感じた。まだ明るいけれど、これから人のいない暗いところを進む気配。
だ~れもいない、沿道に家1つ無い細い道を東に進んでいった。右手、すぐ下を高速(西名阪)が走っていて、それを見下ろしながら歩く。
車はビュンビュン走っているけれど、それ以外に人の姿は皆無だった。
ここは河内国分駅からも近く、柏原市はまだこの南にも続いていて、大阪教育大学なんかがあるようだった。けれど西名阪に分断されていて、なんだか地の果てにいるかのようだった。
西名阪の横をどんどん進み、道が上りと下りに分かれるところで右手の下り道に進んでいった。高速の下をくぐって南に向かう道のようで、高速の下を2回通った。上り線と下り線かな。
道はドロドロだった。前日は雨だったからな。日陰でいつまでもぬかるんでいるところに靴の跡が一人分だけと、轍の跡が少しだけ残っていた。
そして車道(国道165号線)に合流。しばしこの道を進むしかないのだけれど、ここも高速ほどじゃないとはいえ、大型トラックがビュンビュン走る道だった。
人家もしばらくないこんなところを歩く者なんてわたしたちの他にはなく、歩行者はほぼいないと想定されている感じだった。申し訳程度に線で細く歩道が確保されているだけで、横をトラックがびゅんびゅん走って行った。
前に大和川沿いの道を歩いて生きた心地がしなかったことを思い出した。けれどまああの時よりはこっちのほうがまだましだった。
すぐに左手に道があり、165号線を離れて行けるはずだったのだけれど、見逃したのかな、道が現れてくれなかった。けれど今更この怖い道を引き返す(しかも車と対面で)気にはならなくて、そのまま進んでいった。線路(近鉄大阪線)も越えてだいぶ行ったところで、左手の墓地に下りて行けた。そして墓地からは集落に入って行けた。地名は田尻で、ここも古そうなところだった。既に奈良県(香芝市)に入っていたようだった。
集落の中に道はそんなになくて、メインストリートらしき道を川沿いに東に進んでいった。道が2つに分かれたら川を渡らず、左手の川(原川)沿いの道へ。観音寺と三輪神社が現れた。
神社は相当に長い石階段を上っていったところにあった。ほとんど山の上だった。アリも山にいるアリのサイズ。瓦のある塀なども残っていて、ここもまた観音寺と一緒くただったのかな。
神社への階段の途中に観音寺はあり、「楠木正成と身替観音」と書かれていた。ほぼ山と同化しているような神社とは違って、ここは大事に手をかけられている感じだった。
楠木正成がここで祈願した後で戦に赴き、矢を受けたけれど無傷だったんだとか。代わりにここの観音さまが血を流していたのだって。
高低差のけっこう激しい境内には桜がいっぱいで、季節になったらそれはきれいだろうと思われた。観音霊場巡りもできるようになっていた。
小さな集落はすぐに終わり、再び165号線へ。
165号線は南に向きを変えていた。田辺あたりからは原川沿いに進むのが長尾街道だったのかな。原川は東の関屋からと南東の穴虫からとの流れがこのあたりで合流して、河内国分駅の西を北流して大和川に注ぐようなのだけれど、その穴虫からの流れに沿って長尾街道があったようだった。そしてその一部が165号線になっているみたい。
関屋から二上へと進む関屋峠越えルートもあるらしく、元はそれが長尾街道だったそうだ。けれど知ったのは後のことだった。わたしたちが進んだのは明治時代に新しくできた田尻峠越えルート。関屋峠越えルートもまた元はもう1つの原川沿いに進む道だったのかな?
左手の新しい巨大な施設は智弁学園のようだった。右手には学園のグラウンドがあり、165号線の上の歩道橋でつながっているらしかった。
このあたりは歩道もしっかりあって、165号線もわりあい快適だった。ただ面白くないだけで。山が切り拓かれたようなところにただ車道が走り、車がばんばん通過していく。駐車場も広い大阪市ではなかなかないようなテナント募集中の物件なんかがあったけれど、165号線を車はぶんぶん走っていて、お店に入るためにスピードを落とすなんて許されないみたいな雰囲気だった。
国道沿いに香芝総合公園が現れて、ここで休憩をしようと寄ってみた。柏原駅のぱんのいえでパンを買っておいたから、ランチがてら。
ところが入口は閉鎖され、駐車場には雑草が生えて、駐車場か草っ原か分からなくなりつつあった。歩行者は柵の横から入場できたので入っていってみると、プールが現れたけれどプールも閉鎖中。人っ子一人いなかった。利用者だけじゃなく公園の関係者さえも。リニューアル工事前とか?という雰囲気だった。
ひろ~いところを貸切状態でパンなど食べて休憩をした。
今では様子も変わってるのかもしれない。もう少し先には「全戸50坪以上」とある新規分譲の看板がいっぱいあり、ブルドーザーで山が切り崩されていっていた。新興住宅地が造成されていっているところで、住む人が増えれば公園も国道も少しは様子が変わっただろう。
公園を過ぎると、また線で確保されているだけの歩道を歩いて行った。けれどこのあたりでは信号の間隔も短いし、車はスピードをおとして走るからまし。
穴虫西交差点、穴虫交差点へと進んでいった。このあたりに大きな万葉歌碑があった。「大坂」うんぬんという歌。
ここが田尻峠で、近くには穴虫峠もあり、「大坂」と呼ばれていたあたりだと思われるのだそうだ。3世紀中期創祀と伝わる大坂山口神社もあるらしい。10代崇神天皇の時、三輪山にオオモノヌシを祀ったけれど、同じ頃、墨坂神と大坂神も祀ったのだって。それが宇陀の墨坂神社と大坂山口神社だということだった。
穴虫交差点では道が多岐に分かれていて、どの道を行くのか少し迷った。一番線路(近鉄南大阪線)に近い道を東に進めばいいようだった。
そのうち線路の向こうに池が現れた。2つの池の間の細い道で釣りをしている少年がいた。その道に行ける小さな踏切があって、そのサイズ感がかわいかった。
池を過ぎると左手に分岐する道に進み、しばし165号線から離れて古い集落の中を歩いた。地名は穴虫で、笑えるくらいのすごさで古いところだった。ときどきシャッターが現れるのが現代だったけれど、それを外したら、そのままで時代劇が撮れそうだった。
面白くて、脇道などにも入りながら歩き回った。朽ち果てた家なんかもあった。真善寺や、瓦ののった地蔵堂や。
左手に大坂山口神社の鳥居と参道が現れて、進んでいってみた。いきなりの急な下り道で、うっそうとした木々の下、いっきに暗くなった。しばし進むと平地になったけれど神社はまだ現れず、引き返した。帰ってから調べると、もう少しで神社だったみたい。
そして崇神天皇の時の創建と言う式内社の大坂山口神社を名乗る神社は、ここ穴虫だけじゃなく、逢坂にもあるそうだ。もう少し東の。
道を引き返して長尾街道の続きを行くと、また165号線に合流して、すぐ二上山駅(近鉄南大阪線)だった。それから二上小学校前を通り過ぎ、右折して「畑」って村落に。まだ歩いて行くつもりだったのだけれど、道に迷ってしまった。畑と磯壁ってところとをぐるぐる回っていた。
磯壁5丁目でギブアップ。電車の音のする方向に歩いて行ったら、すぐ二上神社口駅(近鉄南大阪線)だった。迷子になって歩き回る一日だったな、と駅へ。
竹内街道はウォーキングコースにもなっていて、よく道案内もされていた。けれど長尾街道はあまり案内されていない。それも道理だな、と思えたこの日の散歩コースだった。歩くには車がビュンビュン通る道になりすぎていた。
疲れたなあと南大阪線に乗りこんだ。南大阪線は長尾街道あたりを走り、それから竹内街道あたり(上の太子~古市)を走り、また長尾街道あたりを河内松原へ。北に向きを変えると下高野街道あたりを天王寺へ。電車って、街道の近くを走っているものなんだなあ、と思った。




