古市古墳群と道明寺
允恭天皇陵の南側から陵を反時計回りに周遊してみた。
そんなに大きくはないので、すぐに東側を北上する道へ。周遊といっても住宅街で、建物の向こうに時々古墳の緑が見える感じだった。
允恭天皇は19代天皇。恵我長野北陵に祀られたらしく、それがここに治定されている。
15代天皇の応神天皇はおじいちゃんで、その墓は南にすぐの古市にあり、16代仁徳天皇はお父さんで、西の百舌鳥に墓がある。
前に仁徳天皇陵の周りを周遊していると、浮気癖のある天皇と、それに怒る皇后の歌が歌碑になっていた。皇后は葛城ソツヒコの娘のイワノ姫(磐之媛)。その皇后の産んだ息子たちが、謀反を起こして殺された住吉仲皇子と、順に天皇になった3人の息子たち、17代履中天皇と18代反正天皇と19代允恭天皇。
履中天皇と反正天皇の墓は百舌鳥にあり、允恭天皇の墓は古市にある。
倍塚らしきものが見えて、そちらに進んでいくと国府八幡神社があった。まあまあ広いけれど周囲も含めて無人で静かな、裸の木が印象的な神社だった。
この北には衣縫塚古墳なる倍塚もあって、もっと北には飛鳥時代、寺があったそうだ。便宜上、衣縫廃寺と呼ばれている。
前に暗越奈良街道歩きで行った深江には、笠縫の人々が住んでいたという話だった。11代垂仁天皇の頃に大和から引っ越してきたのだって。一方のここには衣縫の人たちが住んでいたと思われるそうだ。
笠縫の人々は笠をつくる職能部民だったけれど、衣縫はその名の通り衣装をつくる人たち。今とは違って絹を機で織るなどしてつくっていて、渡来系の人々が担っていた。
日本でも布は縄文時代から織られていたけれど、渡来人たちは模様を入れたり透かしを入れたり、トレンドの最新をいっていて、位の高い人々はそちらを好んだのだろうな。季節にあわせて寒暖
も調節できるような織り方だったみたいだし。
渡来系を中心としていたのだろういろんな職能部民のグループがあったけれど、それをとりまとめていたのは有力豪族であることが多かったみたいで、ここに住んでいたのは、職能部民というより、とりまとめていた豪族と思われ、その豪族は物部系(ニギハヤヒを祖とする人たち)だったのだとか。
国府八幡神社の横には潮音寺があった。
鎌倉時代、後醍醐天皇の頃の創建で、南北朝の戦いでいったん焼けてしまったそうだ。
南北朝の戦いは、後醍醐天皇や足利尊氏、楠木正成、北畠顕家らが登場する「太平記」で長く語られてきた戦。
鎌倉時代は幕府が政治を行っていたけれど、かつてのように天皇が政治を行うべきだと立ち上がったのが、時の天皇、後醍醐天皇。足利尊氏らに戦わせて、鎌倉幕府に勝利した。鎌倉時代が終わり、後醍醐天皇は自ら政治を行うようになった。建武の新政ね。けれどこれが大失敗。もう世の中が変わっているのに、昔のままに武士をほとんど無視した政治を行った。
そこで武士代表足利尊氏が立ち上がり、後醍醐天皇を拘束。新しく朝廷をたてて、自分が裏で政治を行うことに。ところがただでは転ばない後醍醐天皇は脱出し、「われこそ天皇だ」と、三種の神器だってあるぞ、と、吉野で朝廷をたちあげた。拘束されたとき、尊氏の新しい朝廷側に引き渡していた三種の神器はにせものだったというわけ。
足利尊氏の京の朝廷は北朝、後醍醐天皇の吉野の朝廷は南朝と呼ばれて共存はできず、北朝VS.南朝の戦いが始まった。後醍醐天皇が亡くなっても、息子の後村上天皇らに引き継がれ、戦いは長く続いた。それが南北朝の戦い。
江戸時代、楠木正成ら南朝がもてはやされ、南朝側が正統ということに今はなっている。
戦いの中、亡き楠木正成の息子、正行が「藤井寺の戦い」で勝利していて、その戦いで潮音寺も焼けたのだとか。後に再建。その鎮守として壷井八幡から八幡神を勧請してきて国府八幡神社が創建されたのだって。
国府遺跡を案内する道標があり、進んでいってみると「ふじいでらウォーキングコース・梅かほる道コース」とあった。東に国府遺跡、北にはすぐ神社で、とりあえず神社へ。
志貴縣主神社だった。高台にあって、見晴らしがよかった。一帯が原野で、それを見晴らす丘だった感じがあった。実際には古代から寺院のあったようなひらけたところで、原野だったのは大昔のことだったろうけれど。
神武天皇の長子である神八井耳命の末裔、志貴さんがここ志貴で県主をしていたらしく、ここはその志貴県主を祀る神社らしかった。
「県」は古墳時代の頃、朝廷直轄地を指した呼び方だったと思われ、飛鳥時代になって中国の制度を採用する大化の改新が始まると使われなくなった。その県の主が県主。県と縣は意味も読みも同じ。県には屯倉(朝廷の田)があり、県主が稲作のための神事を行ったりしていたみたい。
前に東大阪で、かつてミノ県主が支配していた三野郷だったという一帯があったな。
古墳時代、小さな国がいっぱいあったみたい。規模は、後の郡くらい。
国を支配する豪族は、朝廷と手を結んで国造に。天皇にトモ(兵力を担う人員)や、ベ(稲作などを行う人員)を提供していたそうだ。玉造部、衣縫部、笠縫部なども国造となった豪族が天皇に提供していたのかな?
国のほか、朝廷の直轄地である県もあり、そのトップが県主。
大化の改新で県や県主の制度は消滅。県と国の区別がなくなったからかな? みんなが朝廷の直轄地になって。
国はいくつかの郡(かつての国?)からなり、郡はいくつかの郷からなる。その郡のトップが郡司。
各国には朝廷から国司なる官僚(守・介など)が派遣されるようになり、国造は郡司の職について、国司を補佐することが多かったみたい。
けれどよくは分かっていないんだな、と思った。
県の時代のことは特に、「と考えられる」「とも言う」「という説もある」ばっかりだった。
そんな分かっていない時代の話なのに、「神武天皇の長子の神八井耳命の末裔の志貴県主が・・・」といっても、本当だとは限らないのだろうな。
A天皇陵が決してA天皇の墓とは限らないように、神社の祭神さえもよく分からなくなっていたのを○○にしておこう、とか、明治時代、神として認められなくなった祭神を他の神にすりかえたりとか、そんな話でいっぱいなように、何が本当だったのかは、もうよくは分からなくなっているのだろう。
ちょっとしたヒントや言い伝えを基に「神武天皇の長子の神八井耳命の末裔の志貴県主が・・・」という話になっているだけで、本当はもっと違う話があったのだってもおかしくはない。
このあたりはシキと呼ばれたところ。志紀とか信貴山とか磯城とかはみんな元は1つじゃなかったかとわたしは勝手に思っている。この近くには志疑神社もあるらしい。
元はシキ(シギ)と呼ばれた、どなたか大物の支配するところだったのじゃないかな・・・。
21代、あの有力者たちをどんどん潰していったという雄略天皇が志貴(志幾)県主の住まいに難癖をつけたという話が記紀に掲載されている。天皇家の印のような屋根を住まいにつけていたからだって。志貴県主は犬をプレゼントするなどして許してもらったそうだ。
神八井耳命は志貴県主のほか、あちこちの国造の祖とされている。
父は神武天皇、母はヒメタタライスズヒメで、コトシロヌシの娘だとかオオモノヌシの娘だとか。
同母弟に天皇の位は譲り(綏靖天皇)、自らは春日県(後の十市県)に神を祀って暮らしたのだって。今もその神の社は多坐弥志理都比古神社として磯城郡田原本町(奈良)に鎮座しているそうだ。ミシリツ彦は神八井耳命のことだとされているのだって。
磯城郡は古墳時代、シキ県だったあたりだそうだ。
当時、大和には六御県と呼ばれる6つの主だった県があり、その1つがシキ県。「磯城」の他、「志貴」などとも書かれ、志貴御県坐神社もあるらしい(桜井市金屋)。
六御県のそれぞれの県主について詳細は不明だけれど、シキ県主(大和)については記紀に詳しい記載がある。
九州にいた神武天皇は、大和を手に入れようと東征。九州から瀬戸内海を通って大和に向かい、大和や河内に元から住んでいた人々と戦った。
トミヒコことナガスネヒコが大和のラスボス的な人だったのかな。最初は神武天皇側はさんざんにやられ、次には南から攻めることにした。
トミヒコの義弟のニギハヤヒと、その息子のウマシマジはトミヒコを裏切り、神武天皇に下った。そうしてトミヒコを倒した神武天皇は大和を手にいれた。
ラスボスとの最後の戦いの前には他のボスキャラとの戦いもあって、その1つがシキとの戦いだった。
兄磯城、弟磯城って兄弟がいて、彼らが神武天皇に抗った。結局は弟磯城は神武天皇に下り、兄磯城は戦い続けて亡くなった。そして弟磯城は大和のシキ県の県主になったのだって。その後、このシキ県主の娘や孫たちから王妃や后が続出。
大和の磯城に祀られる神八井耳命の末裔である河内の志貴県主と、大和の志貴県主とはなにか関係があるのだろうな・・・。
別に勝手に想像してもいいんだな、と思った。どうせ分からないのだもの。神武天皇や神八井耳命の時代って弥生時代くらいじゃないかな。本当の話はたぶん分からない。
もしかしたら、天皇と言うけれど、実のところはまだ小さな勢力で、その小さな勢力を継いだのが綏靖天皇とされる人。兄の神八井耳命はもっと大きな勢力だったシキに入り、子孫も大きな勢力の中でいろんな国の人と婚姻関係を結んで増えていったのかも・・・。
たとえば、神武天皇とはほぼ関係なくエシキは死に、オトシキがシキの王となり、神武天皇の長男はシキの中で祭り人となり、次男は小さな土地で暮らしたのかも。
ここに住んでいたという志貴県主も、神武天皇の血を継ぐ人でありつつも、元からシキに住んでいた大物の子孫だったのかもしれない。
神社からは東に国府遺跡が案内されていた。進んでいくと神社からの高台続きだった。石川のそばの、神社から続く丘だったところなのだろうな。
すぐに国府遺跡が現れた。一部で工事が行われている、ただの野っぱらだった。他に歩く人もいない、風の吹く丘みたいなところ。東には低地になっていた。
なにも知らなかったわたしは、国府っていう昔の省庁跡の遺跡かと思っていた。国司が働く役所が国府、郡司が働く役所が郡衙(郡家)。
ところがここは国府遺跡。
古代に国府があったという言い伝えがあって、地名も国府になったところで見つかった遺跡だから国府遺跡。国府跡はまだ見つかっていないそうだ。代わりに見つかっているのは、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、いつの時代にも人のいた跡だそうだ。
野っぱらに、立派な「義侠 熊日氏の碑」がたっていた。
ここの地名は惣社だった。
国府のそばにつくられていた総社からきているのだろう地名。むかし、国府に国司としてやってきたおえらいさんは、その国の一宮、二宮、三宮・・・とまずはお参りするのが習わしだったのだって。けれど平安時代、それを簡略化するために、参るべき神社の代わりを一か所にまとめて国府のそばに置き、ここに参ればよしとした。それが総社。前に行った和泉府中で知ったことだった。
ここ河内国では総社は志貴県主神社だったそうだ。志貴県主神社の境内に一宮や二宮の代わりが置かれた。
この高台に、旧石器時代から人がいたんだな。それから東には大和川や石川が流れていることもあって交通の要所になり、やがて国府や惣社もここに置かれたんだな。
それから適当に南下していった。あとは仲津姫陵に行って、最寄り駅の土師ノ里駅から帰るつもりだったのだけれど、思いのほか允恭天皇陵から仲津姫陵までは至近距離で、時間も余りそうだったからちょっと遠回りして道明寺などに寄ることにした。
国府惣社墓地があり、12号線の下をくぐり、道明寺駅(近鉄南大阪線)にたどり着いた。小さな駅で、南側の踏切を渡って東に行くとすぐ石川のようだった。
道明寺って、あれだ。左遷されて太宰府に向かう菅原道真が「道明寺の叔母」に会いに行ったという道明寺。このあたりに叔母さんが住んでいて、菅原道真が最後に訪ねて来たんだな。
道明寺駅からは西に道明寺天満宮の参道が見えていた。参道はちょっとした商店街(道明寺天神通り商店街)になっていた。すぐに鳥居があり、石階段があって、その先に道明寺天満宮があった。
天満宮に天神ときたら菅原道真公を祀る神社だな。
天満宮の南に玉垣が見えて、行ってみると玉垣の中はただの倉庫だった。元はここも神域だったけれど、民間の土地になって、倉庫として利用されているとかかなあ?
もう1つ別の玉垣も見えて、行ってみると今度は「古代道明寺の五重塔礎石」。
古代、ここに壮大な寺院があり、五重塔がたっていたらしい。寺院は7世紀に建立された道明寺。元は土師寺という尼寺だったそうだ。住職は覚寿尼なる人で、菅原道真の叔母さん。
「道明寺の叔母」って、道明寺(地名)に住む叔母さんではなくて、道明寺(寺の名)の住職だったのね・・・。
一帯は土師氏の住んでいたところだったそうだ。
11代天皇のとき、重用された野見宿禰って人がいて、ここの地を与えられたんだって。その子孫の土師氏は、古墳づくりに関わっていたと思われる一族。ここで古市古墳群の造成や、そこに並べる埴輪づくりに携わっていたのかな・・・。
土師氏が分かれて菅原氏などになったそうだ。その子孫が菅原道真。
土師氏は氏神として土師神社を創建。祭神は野見宿禰よりも前のアメノホヒ。
その土師神社のそばに建てられたのが土師寺だった。菅原道真の別名が道明で、土師寺はやがて道明寺と呼ばれるようになったらしい。後には道真を祀る天満宮も祀られるようになった。
道明寺も土師神社も天満宮も元は一緒くただったのだろうな。けれど明治時代、神社と寺は切り離さなければならなくなって、神社が道明寺天満宮として独立。残りの部分が道明寺として残ったのかな。
けれどその前から戦火にあうなどして規模も小さくなっていたみたい。五重塔も織田信長の高屋城攻めで焼失したそうだ。
道明寺天満宮は「犬の散歩禁止」だった。おかあさんのバッグに隠れて少しだけお邪魔させてもらった。
階段を上ったところにある門は、完全に山門の雰囲気だった。
境内には元宮として土師神社が祀られていた。今や拝殿はほぼ解体され、その向こうの本殿に近づいていける状態になっていた。寂れた感じで、隅には園芸用の土の袋が積み重ねられていて、倉庫のような扱いだった。
広い境内で梅祭りが開催されていた。800本の梅が見頃らしく、花見客もいて境内はいつもより賑わっているみたいだった。屋台も少しだけれど出ていた。わたしたちも数本の梅をめでて満足したけれど、800本の梅のほとんどは有料(300円)の衝立の向こうのようだった。
境内には彫られた牛がいくつかあった。天満宮と牛は、なぜかつながりが深く、天満宮にはたいてい牛が置かれているのだって。
天満宮の西隣が道明寺だった。天満宮と道明寺の間の道は東高野街道であるらしかった。前に古市街道を歩いたことがあって、終点の古市で、応神天皇陵の東あたりを通っていた街道。ここから南に古市に向かうんだな。
天満宮を南から出ると、東高野街道を渡って、すぐのところが道明寺。
ここでは「犬の散歩」ではなく「犬の立ち入り」禁止になっていたので、外からだけ眺めた。ここも階段を上っていった高台にあり、階段の途中に咲く梅の花がきれいだった。
そのまま西に行くと、仲津姫陵だった。他にも古墳がいっぱいあって、どこを目指せばいいか一瞬迷った。高速の向こうの大きくて立派なのが応神天皇陵、高速の手前に見えるのが仲津姫陵のようだった。
高速と仲津姫陵との間にも古墳だったらしき丘があって、先にここに上ってみた。
天皇陵などは入れないようになっているけれど、そうでなければけっこう登れる古墳もあるんだな。前に行った津堂城山古墳もそうだったし。
こんもりした上に上がると、桜がいっぱい植えられていた。まだ固い蕾の枝に風がびゅうびゅう吹いていた。3月というのに寒い日で、曇り空で北風も吹いていた。それでも気持ちのいいところだった。暖かい日は最高だろうな。桜が咲いたら、この、下をごうごうと車の走る無骨な街にひらひら花びらが散るのだろう。
下のほうには梅も咲いていた。ここは古室山古墳かな? 允恭天皇陵、仲津姫陵、古室山古墳、応神天皇陵と南にほぼつながっていて、古市古墳「群」というにふさわしい。
古室山古墳は4世紀末から5世紀初頭頃の古墳で、古市古墳群の中で津堂城山古墳(4世紀後半)に次いで古い大型前方後円墳だそうだ。
仲津姫陵のほうは上に上がってはいけなくて、周遊はできるようになっていた。
南の端から時計回りに歩いて行った。ここは5世紀前半の前方後円墳で、サイズは全国9位。古市古墳群の中では応神天皇陵に次ぐ2位。なかなか大きい。
高台に古室八幡神社があった。仲津姫陵に背を向けていて、いい景色だったけれど、すぐ横を近鉄の線路が通っていた。
それからすぐに澤田八幡神社。どちらも江戸時代に誉田八幡宮から勧請したそうだ。沢田の地名には覚えがあって、長尾街道歩きでも通った町だった。
澤田八幡神社はえらいことになっていたなあ。横を線路が通っているどころの話じゃあなかった。
鳥居があり、参道というか境内があって、その境内に線路が通っていた。そしてその向こうに拝殿。思いきり境内のようなところを線路が横切っているのって初めてだった。
仲津姫(仲姫命)は応神天皇の奥さんで、仁徳天皇のお母さん。
12代景行天皇には妻も子もいっぱいいて、息子の一人がヤマトタケル。他に五百城入彦って息子がいて、この人の息子がホムタ真若王。
ホムタ真若王は娘3人を応神天皇に嫁がせている。仲津姫、高城入姫、弟姫の3人で、そのうち仲津姫が皇后になり、仁徳天皇を産んだ。
応神天皇陵、仲津姫陵、仁徳天皇陵、この大阪のあたりで、その頃、大王たちが住んでいたんだな。死後に眠る巨大な墓が生前からつくられていくのを見ていたのかな。
仲津姫陵の北側は土師ノ里駅だった。土師ノ里は、その名の通り土師の里。古墳のための埴輪を焼いていたと思われる土師の人たちの住んでいた里。
野見宿禰、もっと古くはアメノホヒの子孫たちね。
イザナギとイザナミの娘、アマテラスは自分の子を天下らせようと思った。
地上ではオオクニヌシが王だったから、オオクニヌシの元に人を送り、国を譲るように言った。何人か送られた使者の一人がアメノホヒ。
けれどアメノホヒはオオクニヌシに心酔して戻らなかった。
後に別の使者がオオクニヌシに国を譲ることを承諾させて、結局はアメテラスの子ではなく、孫のニニギが地上に降臨。その子孫が天皇家ね。
オオクニヌシは大きな社を出雲に建てることを条件に、ニニギに国を譲って出雲に帰った。アメノホヒの子孫もオオクニヌシの元で生きることになった。
子孫の一人、野見宿禰は相撲が強くて出雲から都に呼ばれ、天皇に仕え、埴輪を古墳に取り入れることを進言。その後、古墳づくりに関わり、土師氏となった。古墳群のあるところ土師氏あり。その中でもここ、道明寺は本拠地で、土師の里と呼ばれた。
土師に、大王たちの古墳に、古代の寺院、織田信長や楠木正行の戦場、石器時代から人の住む丘。なんてところだろうと、土師ノ里駅から電車で帰った。




