長尾街道を道明寺へ
長尾街道はスタート地点の堺から河内松原の阿保茶屋跡まで歩いていた。阿保茶屋跡は中高野街道と長尾街道との辻だったというところ。
続きを歩こうと河内松原駅(近鉄南大阪線)へ。
電車で行った河内松原駅は都会だった。南側の一帯がにぎやかで。
阿保茶屋のある長尾街道は反対側の北西口から出て、寂れた感じの商店街を下っていってすぐのところ。それで河内松原駅周辺の都会ぶりが分からなかったんだな。
阿保茶屋跡から東に向かっていった。すぐに右手に池が現れた。こんな駅近にこんな大きな池が残されていることにびっくりした。かつては左側も池だったのじゃないかな。素敵な里山の感じのするところだったんじゃああるまいか。
阪和自動車道の下の中環を過ぎて、地名は西野々に。
このあたりから古い家も見られるようになった。けれどその合間に新しく分譲されている区画が多々あった。
このあたり、南にすぐのところに河内大塚山古墳があるようだった。被葬者は分からないものの、全国第5位の大きさなんだって。1位は百舌鳥の仁徳天皇陵、2位は古市の応神天皇陵、3位は百舌鳥の上石津ミサンザイ古墳、4位が岡山の造山古墳、そして5位が河内大塚山古墳。大塚山古墳の上に村ができていたこともあったそうだ。
今でこそ天皇陵とかが決められて、入れないように管理されていたりするけれど、それは江戸時代に天皇を大事にする気運が高まってからのことで、それまでは壊したり、盗掘したり、城に転用したり、住んだり、釣りをしたり、自由だったんだな。
この近くに雄略天皇陵とされている古墳があるのだけれど、ワカタケル大王こと雄略天皇の墓にしては小さく、おまけに実は前方後円墳でさえないかもしれなくて、大塚山古墳が雄略天皇の本当の墓じゃないかとも言われているそうだ。
今の雄略天皇陵は、江戸時代に雄略天皇陵はこれだ!ってことになり、前方後円墳っぽく形も変えられたものなんだって。そういうことが多々行われていたらしい。
ただ、大塚山古墳は雄略天皇の時代よりも遅い時期の古墳と思われ、その説も疑わしいのだって。じゃあどなたの墓だったのかな。
地名が恵我之荘になった。荘園だった頃の名残とかなのかな。
それから一津屋になって、ここには一津屋荘園三角公園があった。ここも荘園だったってことかな。
それから高鷲橋で渡ったのは東除川。狭山池から北流する西除川のペアね。
東除川もかつては大阪市の方まで北流していたけれど、大和川が横切るようになったから、この北で大和川に合流していくみたい。昭和の時代にはかっこうの遊び場だったろう素敵な川だった。今では下りて行くこともなかなかできない感じだけれど。
このあたりの地名は高鷲で、高鷲には大津神社があるらしかった。それでかつてこの道を大津道といっていたのではないかと言われている。記紀の壬申の乱の段に丹比道と大津道のことが書かれている、というその大津道。それが今の長尾街道だとされている。
長尾街道のあたりに古代(7世紀)に官道があった遺構が見つかっていて、これが大津道じゃないかと考えられているのだって。
石川が大和川に注ぐあたりをかつて大津といっていて、そこを通ることから大津道といったのではないかという説もある。
地名が島泉になって、文字のほとんど消えている「河内ふるさとの道」の案内が現れた。近くの見所が案内されていて、まずは「吉村家住宅」へ。
大庄屋で富農の吉村さんの江戸時代初期の住居だそうだ。表玄関の屋根は茅葺かな。塀はずっと続いていた。
すごく状態のいい旧家だった。民家として国宝認定を受けた第1号なのだって。
それからもう少し南の妙教寺に。あたりは古い町並みで、このあたりにも重要文化財指定の古い民家などがあった。
広い庭には木々が育って、住宅密集地の中で緑が見えたら、神社か旧家ってことが多い。かつてはこんなふうに自然とともにあるような住宅様式だったんだな。建材は木や茅や土で、庭や野外には苔むした水路なんかがあり、木々が育ち、すぐ横の分譲住宅の群れとは別世界みたいだった。
街道に戻って続きを行くと、右手に池(丸山池)と、その向こうに雄略天皇陵が現れた。
言われなければ緑の小島としか思わないかな。ここが江戸時代に形もいじって雄略天皇陵とされたというところ。雄略天皇の墓は丹比の高鷲原につくられたと記紀に記録されていたから、高鷲でそれらしいものが探しだされたのだろう。
実のところは前方後円墳ではなく、隣り合った円墳と方墳だと思われるそうだ。記紀に後の天皇が雄略天皇の墓を半壊させた、みたいな記述があって、壊されて前方後円墳が円墳と方墳に分かれたということにされたんだろうか。
雄略天皇は武力を使ってのし上がり、強固な力をもった人で、他の天皇候補者も次々殺していったそうだ。雄略天皇の武力となって台頭したのが物部、大伴、平群氏ら。
天皇になる前、次期天皇の最有力候補だった従兄弟も殺している。その息子兄弟は播磨に逃れ、身分も隠して生きていた。そして雄略天皇の系統が早々と途絶えた後、見つけ出されて順に天皇に。そしてそのうちの一人が雄略天皇の墓を半壊させたそうだ。
けれどもっと言えば、円墳のほうは5世紀後半頃のちゃんとした円墳と思われるものの、方墳のほうは古墳でさえないのでは、と思われるそう。
仁徳天皇陵もそうだけれど、○○天皇陵とされている陵墓って、半分以上間違っている感じなのだって。けれどもう決定してしまっているので、宮内省はこれでいく方針なのだって。
王位継承者を次々に亡き者にしていった独裁者の墓にしては小さな、のどかな墓だった。
藤井寺自動車教習所があって、このあたりで藤井寺市に入ったようだった。すご~く長閑なところだった感じがあるけれど、住宅密集地になってきていた。
しばし進むと、阿保茶屋からずっと続いていた道がつきあたり、古い道標があった。
ここで右折。この道は古市街道歩きで歩いた道だった。北の津堂城山古墳から南下してきた道。この道をどんどん南下して行った。角の貸衣装の看板のある古い建物や、その斜め向かいの建物が朽ちた感じで存在しているのにも見覚えがあった。
「河内ふるさとのみち」の道標が現れて、北には小山善光寺と小山産土神社、南には葛井寺と辛國神社が案内されていた。どこも古市街道歩きで寄ったところだった。
古代、大津道と呼ばれていたという官道らしき道は、後で知ったことには雄略天皇稜からまだそのまま東に向かっていたと思われるそうだ。林から惣社へとかな。
けれどその後裔と思われる長尾街道は、熊野街道も後世に堺郷を通るようになったみたいに、古市街道を通って少し南下してから東に向かうようになったみたい。
車道を越え、「岡」の「河内ふるさとのみち」の道標のある辻まで古市街道を南下してから、東へ。藤井寺市役所を過ぎ、高速(西名阪自動車道)も越えて、地名は「林」に。
「岡」に「林」、シンプルなネーミング。「野」もあったな。
外環と交差して、立派な沢田横断歩道橋で外環を渡った。信号の一本北側の道がここまで歩いてきた道の続きらしく、その道を東に向かって歩いて行った。
このあたりも古い集落のようだった。
途絶えた名家という風体の旧家のそばに尊光寺の案内があって、道を入って行ってみるとすぐ尊光寺だった。
「伴林光平先生誕生地」とあった。一部、屋根が茅葺になっていた。
専光寺は江戸時代からあって、伴林光平って人はそこで生まれたらしい。幕末とあって勤王志士となり、天誅組にも記録係として参加していたのだって。
この頃のわたしには縁のない話すぎて、あまり意味が分からなかった。勤王志士は、幕末に天皇のために生きた人々で、天誅組は、その中で、天皇の世にするためにと、日本を牛耳っている幕府を倒そうとしていた武装集団だそうだ。
伴林さんは天誅組として捕えられて刑死。元は八尾の教恩寺で住職になり、歌の指南役をしていたそうだ。世が世なら平穏な人生だったのだろうな。
すぐ北に緑が見えていて、行ってみると伴林氏神社だった。
伴林氏は大伴氏の支族で、その大伴氏の祖神(タカミムスビ-アメノオシヒ-道臣命)を祀っているそうだ。伴林氏はもう途絶えていて、伴林光平さんも大伴氏の子孫ではなく、伴林神社のそばで生まれたから伴林を名乗っていたみたい。
戦時中には軍事の大伴氏の神社として、「西の靖国神社」ともてはやされていたそうだ。
境内がだだっ広いものだから、さびしく見える梅がきれいに咲いていた。
境内には拝志廃寺の塔心礎なるものがあった。
かつて一帯は拝志郷だったところで、拝志と書いて「はやし」なんだって。林は「拝志」とか「拝師」とか書かれ、ここ河内国志紀郡の他、山城国紀伊郡、加賀国石川郡、丹後国与謝郡、讃岐国山田郡、伊予国越智郡などにもあったらしい。
林があるから郷名も「林」だったのだけれど、郷名が漢字2文字に統一されたとき(8世紀初め)に「拝志」などと表記するようになったそうだ。
訓読みって、その頃からあったんだな、と思った。日本では村にある木々の集まりを「はやし(はえし)」と呼んでいて、中国から導入された漢字では木々を「林」と書いたから、林を「はやし」と読む、ということを7世紀頃にはやっていたんだな。
5世紀頃には渡来人がいっぱいやって来ていたのだし、その中には漢字を使う人もいっぱいいて、ああこの国の人々は「林」を「はやし」と呼ぶのだな、と、その頃から「林=はやし」は定着していったのかな。
元の道に戻って東へ。上りの坂を進むと道明寺小学校の横を通り、車道の向こうに允恭天皇陵が現れた。このまま進むとすぐ石川で、石川橋で石川を渡ってさらに東へ。国分町までは竜田越奈良街道で歩いたのと同じ道を進んでいく。国分町で長尾街道との分岐点があったのは、そこまでは同じ道を進むからなんだな。
前に石川橋で振り返った時に見えた古墳の一つが允恭天皇陵だった。仲津姫陵も見えていた。
どちらも古市古墳群の古墳たち。もう少し南は応神天皇陵がある。
ちょっと允恭天皇陵と仲津姫陵に寄り道をすることにした。




